4‐11 雨天、旅立ち
朝。
目を覚まして窓の外を見ると、相変わらず雨が降っていた。木々の葉に遮られて落ちてくる滴が少ないことを考えると、雨量自体はそれほど多くない。
ナナシはのっそりと起き上がり、隣の毛布お化けを揺する。
「ジョン、起きて。着替えて朝飯にしよう」
「んん~……、ごはん。てつ、だう。だう……」
布団から顔を出し、ジョンはもそもそと体を揺らしてカタツムリになる。ざんばらの髪が好き放題に跳ねて、頭の上に不格好な鳥の巣を乗っけているように見えた。
彼女はふわふわの殻から肩まで出て、
「なな。あれ、しんだ?」
「オトーサンのこと? 何も聞こえないし、死んだんじゃね? 気になるなら見てくるけど」
「そこまで、じゃない」
ついにナナシがジョンを引きずり出して抱き上げ、寝間着代わりのシャツを着た二人は顔を洗うべく洗面所へ向かった。床の血だまりはほとんど乾いていた。ナナシは靴を履いていながらも、それを汚いものとして避けて歩いた。
部屋に到着したナナシはジョンを下ろし、
「ひゃっ。ゆか、つめたーい」
「裸足なんだから仕方ないだろ。靴とか履けばいいのに」
「おくつ、きゅうくつ。きらいきらい」
棚を漁る。
「それより、髭剃りないかな」
「ひげをそる?」
「身だしなみは大切ですよ、ジョンさん」
「かいしゃ、いかなくていい。のばすのも、あり」
「んんー。伸ばすにしても整えないとみっともないから、何にせよひげ剃りは必要なの」
「そか。ぼくもかみのけ、ととのえなきゃ」
ふたつ並んだ洗面台をそれぞれ独占する。ナナシはカミソリを見つけたので、洗顔の次に髭を剃った。ジョンは顔と一緒に髪全体を濡らしたあと、魔法で温風を当てながら丹念に乾かしていく。二人とも襟の根本まで水の染みをつけて、一般的な寝起きのルーティンは完了である。
「なな。おひげ、ちょっとのこしたのね?」
「まだ短いから格好つかないけどな。顎の先くらいなら伸ばせそうかなと思って。気に入らなかったら剃っちゃえばいいんだし、何ごとも挑戦してみるのがいいってね」
「ぼくもおひげ」
「女の子は伸びません」
「む~」
ジョンは髪を顔の前に持ってきて鼻と唇との間に挟み、「ふぉ、ふぉ、ふぉ」と笑った。
それから彼らは朝食を作った。サラダと目玉焼きを同じ皿に盛りつけ、食品庫で見つけた肉を軽く焼いて、よく分からないソースらしきものをかけてパンに挟んだ。鶏ガラを突っ込んで煮込んだスープには、薄くスライスした玉葱と溶き卵を浮かべた。
食堂で、昨日と同じ位置に座って炭水化物にかぶりつき、ナナシが言う。
「これからどうする? 僕としてはこんな家、さっさと出て行きたいんだけど」
「オカーサンをさがす」
「おかあさん……名前はノーラだっけ」
「うん。たぶん、かしゅにーのまほういん、いる。むかし、オトーサンときょうどうけんきゅうしてた」
「魔法……院? 共同研究?」
「ほんが、いっぱいのこってたの」
「そうなんだ」
ナナシはさして興味がないようだった。ジョンがフォークで野菜を突き刺し、パリパリと咀嚼しながら先を続ける。
「せいじんとか、まじょについて。べんきょうしてたみたい。オトーサンのろんぶん、よんだ」
「聖人ね。昨日、僕が言われたやつ」
「せいじん、せかいをすくう。らしい。いいひと」
「せかいをすくう、いいひと」
「ちな。ここ、いせかい。ななしのきおく、げーむとか、ほん。にそういうせってい、あったはず」
「やっぱりそうなんだ? 後輩のご機嫌取りもやっとくもんだな」
「もんなのよ」
二人はスプーンを傾け、お行儀よく音を立てずにスープを飲んだ。
「そういえばさ、僕にも魔力って備わってるんだよね?」
「あるよー。せいじんがもつ、ひかりのまりょく。じょういまほう」
「上位魔法とか強そうに聞こえるけど、実際のとこどうなん?」
「つよぉいです。にぞくはいりょくによらず、しぞくをうちまかす。ぶあついぼうぎょのまほうも、すどおり」
「何それ最強じゃん。向かうところ敵なしって感じ」
「そういうの、ふらぐ。まんしんはきけん。なんであれ、まほうにはじゅうぶんなきょうどがひつよう。なめぷきんし!」
「お、おう……」
「ふだんから、まほうをつかうれんしゅう、しておくといいでしょう。あとできほんをおしえてあげる、わ」
「頼むぜ先生。そしたら当面の目的地はカシュニーの魔法院、だっけ? そこだな」
半熟に焼いた目玉をフォークで割って、薄っぺらく広がった白身と一緒にぺろりと食べる。
「どこにあるか分かる?」
「わかんない。みち、あるいていけばだれかにあう。どこかのむらにつく。そこでおききすればよいのでは?」
「行き当たりばったりになるけど、それしかないか」
今後の行方を決めた二人はその後も優雅に朝食を食べ進め、終わると食器を片づけてエントランスへ向かった。
外は未だ雨だ。
ナナシは玄関近くの小部屋で雨具と長靴を見つけ、拝借することにした。今まで履いていた革靴は紐を解いて両足を結び、ぶらぶらと手に持つことにした。彼はジョンにも雨具一式を渡したが、レインコートは着たのに靴は履いてくれなかった。
無理やり履かせれば蹴って飛ばされるし、どう説得してもジョンは首を縦に振らなかった。ナナシは「お前って猫みたいだな」とこぼしつつ、にゃーにゃーと鳴き声を上げるジョンにため息をついた。
「もう行くけど、忘れ物はありませんか? お嬢様」
「ぽしぇと、もった。こんごうせきも、もらったし。おけ」
「金剛石?」
「オトーサンのへやで、はこのなかにあった、よいもの。これ、だいやもんどな」
「ダ、ダダダ、ダイヤモンド!? どうすんのそれ、売るの?」
「のんのん。やりたいことがあるの。だいやのこうせいしきを、ななしのおててかりて、ちょといじって。まりょくためる、できるようにする」
「魔力をためる? どうしてそんなことするのさ」
「ななしのまりょく。となりになながいなくても、つかえたらべんり」
「……」
彼女の試みを聞いたナナシはそれまで大人ぶっていた態度を一変させ、子供のようにむくれた。
「僕はジョンから離れたりしないし、別にそんなん考えなくてもいいじゃん」
「そうだけど。ちてきこうきしん、というものよ。きにしないで」
「僕はジョンとずっと一緒なんだからな!」
「わかてるよー、ごめんごめん。そしたら、よそさまのまりょくをすいあげて、ためてみよっか。ちょちく、あってこまることなし」
ジョンはむずかる弟を慰める姉のようだった。彼女はナナシの手を引き、玄関を開けて屋敷を出ていく。
陰雨の道はまっすぐ続いていた。二人は敷地の境界に設置された門をくぐり抜け、小道を進んで十字路を渡り、ひたすら前のみを見て二度と戻らなかった。
まだか細く生きていた父親は誰もいない館ですすり泣く気力も失い、糞尿にまみれて息絶えた。
<続>




