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私がそれを望むから ―終わりの魔女と死の聖人―  作者: 未鳴 漣
第一章「魔女になる覚悟」
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4‐5 いいひと

「ウェッ。いつ来てもクッセーなここは。餌の時でも近づきたくねえわ」


 手に持っている籠には萎びた人参が二本、転がっていた。彼はそれをジョンに見せつけ、引き寄せる。


「ほーら畜生ちゃん。おいで~」


 粗末だが食べ物は食べ物だった。腹を減らしたジョンは考えなしに男の足下へ駆けつけた。


「近くに寄んじゃねえよ、この汚物が」


「ぎゃんっ!?」


 呼んでおきながら、尖った靴で腹を蹴る非道を行う。


「何度言ったら分かるんだよ。犬でも一度きつく言えば理解するってのに、この馬鹿ときたら」


「ううー、うー!!」


「これで御館様の子供だなんて信じらんねえけど、あの人も相当キてるもんな……蛙の子は蛙。似たもの親子ってか。ホンット最悪の職場だぜ」


 男は恍惚の笑みを浮かべて腰の鞭を抜いた。馬用の短いそれをこれ見よがしにしならせたあと、空を切って振り上げる。


「まっ、魔法院を落第したカスが行き着くとこなんて底辺で当たり前なんだけどな!」


 少年を打った鞭の音は痛々しく、ナナシの鼓膜に突き刺さった。


「いたい!!」


 鞭が柔らかな肌を弾く。


「やめて!」


 凶器が何の罪もない子供を痛めつける。


「……ぁ、……っ!」


 理不尽で一方的な暴力を前に、ナナシは足がすくんでいた。ジョンの痛みが分かる。逃れることのできない恐怖。過ぎ去るのを待つしかない無能感。縮こまって耐える、小さな体。


 未だにうずく古い傷を思い出す。


 ――こんな時、僕はずっと……。


「たすけて! ななぁーっ!!」


 たまらずジョンが助けを求めるのと、ナナシが動くのとは同時だった。彼は手探りで錆だらけの火かき棒を握り、悪漢を横から殴りつけた。トの字形の先端がこめかみに突き刺さり、男はギャッと声を潰して怯んだ。


 極度の緊張の中、ナナシは息も絶え絶えに叫ぶ。


「いい加減にしろよ、お前……っ!!」


 怖い。


 今にも棒を手放してしまいそうだ。


 けれど中途半端に脅しただけでは仕返しが来る。


 やらなければならないのだ。


 ナナシは続けて腰を殴りつけ、膝を蹴って引き倒し、逆手に持ち換えた火かき棒で体中を突いた。胸を刺して、腕を殴り、腹を踏みつけて、汚い言葉で「僕」を侮辱した口を喉の奥まで刺した。


 そこで棒がぽっきりと折れてしまったので、ナナシは男が持っていた鞭を奪って振った。


 目が潰れて、鼻が裂け、顔が崩れるまで、執拗に。


 何度も、何度も。


 ちゃんと死ぬように。復讐なんてされないように。


 クソヤロウの顔を思い出して震える未来なんて、まっぴらごめんだから。


「ハァ、ハァ……ッ!」


 相手がピクリとも動かなくなってようやく、ナナシは立ち上がった。


「やった! 俺はついにやったぞ!! これでようやくゴミを捨てら、れ……?」


 ナナシの言葉は次第に力が抜けていった。


 彼は血に濡れた手で肉片がひっついた顔を探り、自分が今どんな表情をしているのか確かめた。笑っているのか、悲しんでいるのか。これを後悔したらいいのか、歓喜したらいいのか。勝利を叫ぶのは間違っているのか。


 この、胸がすく思いを認めてはいけないのか。


「だめ……、だめだ。これは、僕は……いいひとはこんなこと、しな……」


 だんだんと罪の意識が迫ってきて、ナナシは死体の横に膝をついた。涙を浮かべて無惨を嘆こうとした彼に、


 ジョンが手を伸ばした。


 少年はうつむくナナシの顔を持ち上げ、自分の方に向けた。


 弱者の小さな手が汚れを拭い取る。


 今の今まで意識も情緒もうつろで、苦痛に耐えている自覚もなく、ただ生きているしかなかった幼い子供。彼は心優しい救世主に微笑んだ。


「ななし、ありがと」


「……え?」


「ぼくをたすけて、くた」


「で、でも……いいひとだったら、こんな。ひとを、ころ……」


「なな、いいひと。よ」


 ジョンは迷いなく、自らの意思でそう断言した。


 急に小さくなってしまったナナシを抱きしめ、慈愛の手で背中をさする。


「ななし。ぼくの、いいひと」


「ほんとうに……?」


「ほんとう。ななは、いいこ。ぼく、じぶんをたすけた、えらい」


 少年は小さな子供を安心させるように肩をたたき、


「もうおわったよ。ぼくも、ななも、だいじょうぶ。ね?」


 一言ずつ、愛おしい気持ちを乗せて言い聞かせた。全てを肯定し、甘やかし、抑圧から解放する。


 こちらに危害を加えてきた連中の仕返しを恐れるなんて、やはりおかしなことなのだ。むしろ暴力をやって返す権利は被害者にある。それは純粋なる正当、妥当な反撃だ。暴力しか知らない奴は痛みで分からせるしかない。


「そっか。終わった、のか。三十年……三十? そんなだっけ? もっと長かったような……ううん、短かったような気も……」


「ぼく、じゅうねんちょい、くらい。これ」


「そういえば、そのくらいだったかも?」


「そっ!」


 ナナシはジョンから離れ、泥に沈んだ死体を見下ろす。容姿は判断できないまでに破壊され、体の至る所に穴があいている。みすぼらしい肉塊だった。


「死んじゃったなぁ」


 彼は残念に思った。まだ足りない。たったこれだけの成果で終わらせるわけはない。


 見ていながら助けてくれなかった者たちも同罪だ。


「うーん。何か僕ってばクッソ下らないことでウジウジ悩んでた気がする」


「こわいの、ないないする。よいでしょう」


「お前がそう言うなら、な」


 ナナシは鞭を腰のベルトに差し、今度こそ立ち上がる。二本の足は泥沼の中でも確固として、彼らは己の正義を信じて揺るがなかった。


 ジョンが金色の目を半分にして、死体に声をかける。


「さよなら。いやなひと」


「ちゃんとお別れができるなんて、ジョンは偉い子だな。僕もさよならしよーっと。じゃあなゴミクソ」


 彼が執事の頭を蹴り飛ばすと、


「ごみくそー」


 ジョンも同じように蹴った。つま先から泥が跳ねて、ナナシのワイシャツの裾まで飛んでくる。


「ちょ、ジョン! きったない!」


「てへっ。ごめーん」


「つーか、僕ら泥だらけじゃん……」


「どろどろー。これ、きれいにするの、たいへん。かも」


「これじゃあよそで助けを求めても嫌がられそう。見た目の清潔感って割と重要だし、逃げる前にお屋敷でシャワーでも借りてくか」


「く~っ!」


 そうと決まれば、二人は軽い足取りで日の当たる場所へ飛び出した。

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