4‐4 悪魔が来る
「あ! わ、悪い……これはその、動転していたというか。決してキミに危害を加えようとしたわけじゃなくてね」
「だい、じょぶ。わかてる」
少年は離れていくナナシの両手を掴んでぐいぐいと引っ張り、干し草の上に座るよう言った。ナナシが言われるままに腰を下ろすと、ジョンは彼の胡座に登りついた。背中を預け、未だ負傷しているナナシの手を目の前に持ってくる。
「ちょっと。あの、ジョンさん。ケツがじんわり湿って気持ち悪いんですけど」
「あとできれい、きれい。かんたんできる」
「洗ってくれるの?」
「んーと。ここ、こ、むしさん、ない。くさい、わざと。きれいなの。そういうの、してる」
「ここが綺麗だって? 何だよ、それ」
ナナシが疑問符を浮かべている間に、ジョンは傷口を手で撫で、仕上げにトントンと軽く叩いた。少年が小さな手を退けると、それまでぱっくりと口を開けていた傷は塞がり、痕だけが残っていた。
「嘘だろ。触れただけで怪我が、治った……?」
「ななしのまりょく、つかた」
「魔力……って単語はソシャゲとかでよく聞いたな。キミ、もしかして魔法使いってやつ?」
「まほーう。まほ、つかい。よ」
「肯定すんの? 冗談のつもりだったんだけど」
頭を掻くナナシをジョンが見上げる。長い前髪の間から顔が現れ、差し込む朝日に金の瞳が光る。目が合うと、少年は歯を見せてニッコリとした。欠けたり黒ずんでいるところもなく、歯は全てそろっている。
思えば、傷だらけの体も痕があるだけで腐り落ちたりはしていないのだから、やはり彼の存在は奇妙だった。
「天使……は有り得るかもしれない」
汚れていても顔は整って見えるし、これで髪を切りそろえてまともな服を着ていれば、薄幸の美少年と言って通る。
ナナシは頬をつねって困ったように眉を下げた。
「僕、頭ぶつけて死んじゃったのかな。もしくは夢でも見てるのかも」
「ゆめでも、みてるかも? みてるかも!」
「いつの間にかキミも言葉がちゃんとしてきてるし」
「まりょく、かりた。あたまなか。いって、きて」
ジョンは自分の頭とナナシの頭を交互に指さし、
「ことば、を。しる」
「よく分からないけど、お話しできるようになったのはいいことだね」
「いいことー」
無邪気に喜ぶジョンを見て、ナナシは胸が締め付けられる。
「ところで、最初の質問に戻るんだけどさ。キミは何でこんなところにいるの?」
「しらない。ずっと、ここ」
「ご両親は? オトウサンとか……」
「オトサン、わかない。ただめし、の。ぶた」
「あーそう、それ。っていうか、キミも僕の記憶を見た感じ?」
「たぶん」
少年は首を傾げつつ頷き、とある方向を示して言う。
「あそこ、から。いつもひと、くるの」
彼の人差し指の先には屋敷がある。
「ごはんくる」
「ふーん。この小屋はあの屋敷が管理してて、ジョンはあそこの連中に閉じこめられてるってことか」
ナナシは目を刃のように鋭く細め、屋敷の方を睨みつける。
そこに少年の父親がいるかは分からない。彼はどこからか攫われてきた子供なのかもしれない。
「何にせよ、子供をこんなところに閉じこめておく奴はロクなもんじゃない。これは確定なので」
「なので」
「逃げよっか?」
「にげよかー」
悪に立ち向かうのは正義だが、今は被害者を連れて逃げ、安全なところに駆け込む方が先だろう。ナナシはジョンを抱えると、腰を上げて小屋の出口へ足を向けた。
べしゃ、と湿った泥を踏みしめる一方で、草を踏み分け近づいてくる音があった。
「あ! ご、ごごごはっ、ん!!」
途端にジョンはナナシの存在を忘れ、犬のように暴れてその腕から下りた。少年は落ち着かない様子で戸口の前をうろつく。
一刻も早くここから逃げなければいけないのに。
ナナシはジョンの手を取るが、空腹に支配された子供は先ほどまでの理性を失っていた。誰かの足音は確実に、一歩ずつ近づいている。手を振り払われたナナシの顔に焦りがにじむ。
足音が小屋の前まで来た。バンッ、と戸が蹴り開けられる。
ナナシは飛び上がり、反射的に物陰へ隠れて闖入者の様子をうかがう。
朝日を背に現れたのはモーニングコートを着崩した男だった。




