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私がそれを望むから  作者: 未鳴 漣
第一章「魔女になる覚悟」
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4‐3 記憶の交差

 根気強く、何度か休憩を挟みつつ。空が白んでくるまで試行錯誤してようやく、ジョンは自分を指さして、「ぼくは、じょん」。己の名を理解したのだった。それほど時間を要した体感はなく、ナナシは少年の理解能力にいたく感心した。


「すごいな! そうだよ。キミはジョン・ドゥっていうんだ」


「ぼくは、じょん・どぅ」


「こんな短時間でお話しできるようになるなんて、ジョンはもしかしなくても天才なんじゃない?」


 彼は手を叩いて喜ぶ。


「イッ、タァ……!」


 そのせいで、目覚めたときに引っかいてしまった手のひらの傷が開き、血がにじんだ。衛生的とは言えないこの空間で皮膚という防波堤が破れてしまったことに、ナナシは顔を青くした。破傷風にかかれば最悪、死んでしまう。急いでここを出なければと出口に体を向けると、ジョンがそれを引き留めた。


「あ……、ジョン……」


 彼をここに置いて立ち去ることはできない。


 死なば諸共かと、ナナシは脱力してその場に膝をつく。湿気とぬかるみがズボン越しに伝わって、太股を這い上がってくる虫けらを我慢し――、はたと気づく。


 そういえばナナシは小屋に入ってからずっと、不快な物音はかすかにも聞いていない。


「どういうことだ……?」


 汚染された臭気に群がるはずの虫がいない。


 不思議な現象にナナシは我が目を疑う。


 ジョンはそんな彼の手を取って、だらだらと血を流す傷口をじっと観察する。少年は傷に手を当て、触れるか触れないかのところで撫でる仕草をした。


 三回ほど撫でたところでジョンは得意げな顔を作ってパッと手を上げた。傷口からは相変わらず出血が続いている。ジョンはぽかんとして首を捻る。


 ナナシは空いている方の手で彼の頭を優しく撫でた。


「痛いの飛んでけ、みたいなやつ? ありがとな」


 ジョンは傷ついた方を放り出し、今度は頭を撫でていた方を掴んだ。指で手のひらの中心を押したり、手首の皮を摘んだりして、まじまじと見つめる。


「な、何だ? どうしたんだ?」


 少年は戸惑うナナシの胸に耳を寄せ、次いで心臓の上に手を置いた。細い腕にぐっと力を入れて押す。途端にナナシは息を詰まらせた。


 胸が圧迫される。


 肋骨の間を異物がすり抜け、内臓に得体の知れない何かが浸透して広がっていく感じがあった。


 呼吸が上手くできなくなり、ナナシがジョンの肩を掴む。それは半ば抱きしめているようにも見えた。ジョンは彼に身を預け、さらに深いところを探るようにして手を動かした。


 体の内部をまさぐられ、痛みこそないものの脂汗が吹き出す。それが頬から顎を伝って地面に落ち、


 ナナシの頭に過去の断片が再生される。


 巨大な木が茂る森の中で目覚める前の話だ。


 名前を忘れた彼は自分以外にもう一人、浪費家の同居人を養い暮らしていた。住まいは収入に不釣り合いな安いアパートだった。


 あいにくと優秀だった彼はその日も定時に仕事を終え、居たくもない自宅へ帰ってきた。粗末なドアを開けて見えたのは、半裸の女を殴り飛ばす同居人の姿だった。


 いや、彼女を「女」と称するには若すぎた。見るからに未成年の少女はすれた雰囲気を纏っていた。きっと金ほしさにコイツを引っかけたつもりで、連れ込まれたのだろう。男の行為は成人が相手でも目を背けたくなる悪行だが、子供に手を出すなど最悪だった。


「おい、何やってんだ。コレは何なんだよ、アンタ」


 彼は「いいひと」でありたかった。弱きを助け、強きを挫く。助けを求める者には躊躇なく手を差し伸べ、己の人生を犠牲にしてでも寄り添う善人でありたかった。


 だから、たとえ誰とも知らぬ少女でも、目の前で殴られていれば助ける以外の選択肢はない。


 相手の男がどんなに恐ろしくても。


 逃げ出したくても。


 彼は靴のまま部屋に上がり、男と対峙した。


「いい加減にしろよ、このクソオヤジ」


 問題の男というのは、彼の父親だった。


 名もなき男のこれまでの人生は無力と諦念、それでいて成功と希望にあふれていた。育った境遇のせいか他人の感情を察するのは得意だった。事細かに気を使い、いついかなる場合も先回りで事を成し、そうであれば人間関係も良好で仕事でも高い評価を得ていた。感情を的確に制御し常に冷静で、寛容に他者に接する。まるで聖人のような人間が彼だった。


 しかしそんな彼にも欠点はあった。たったひとつ、それは彼の内面ではなく、取り巻く「環境」にある。


 家族などというものは、彼が物心着いた頃に崩壊していた。


 母親は我が子を捨てて出て行った。


 父親は捕まっていないのがおかしいくらいの暴漢だった。


 子供のうちは、そんな親が怖くて媚びへつらった。思春期を迎えると、大人になったらこんなゴミは捨ててやると思った。


 大人になったら、自分が夢見た「いいひと」はこんな欠点すら愛するだろうと思った。ゴミのような人間だって見放したりはしない。だから「いいひと」なのだ。


 理想でがんじがらめになった彼は、いつになっても厄介な父親を切り捨てることができなかった。関係を絶ったあとに復讐されるのが怖かったのもある。刑務所にぶち込んだとて、この期に及んで更正などしようはずもなく、数年後にはしれっと檻から出てくるのだ。死なない限りこの「汚点」はいつまでも自分につきまとうだろう。


 背後におびえる未来を生きるくらいなら、少し嫌な思いをして現状を維持した方がマシだと思った。


 そうして恐怖と失意の毎日を過ごして、もう三十年近くたっていた。


 彼はこの日、散乱するゴミをかき分けて父親に飛びかかった。煙草のにおいが染み着く黄ばんだ畳を踏みつけ、羽交い締めにしてずるずると部屋の奥に引きずる。彼は顎で玄関を示し、少女に「逃げろ」と言った。だが、彼女は恐怖で立ち上がることができなかった。


 そうしている間に、暴れる父親の肘が腹に食い込んだ。男は巨体を揺らして息子の拘束を振り解き、少女に手を伸ばす。


 彼女の顔に死相が浮かぶ。


 もう駄目だと。誰も助けてはくれないのだと。そう確信して泣きながら、意味もなく笑みを浮かべていた。


 その顔を見た瞬間、彼は考えるよりも先に行動していた。


「やめろって言ってんだろ!!」


 肩を掴んで、振り向いた顔に握り拳をめり込ませる。


 初めて父親を……自分以外の他人を傷つけた。


 案の定、相手の怒りはこちらへ向いた。大きな拳が眼前に迫り、後先を考えていなかった彼はなす術なく殴り飛ばされた。腕がちゃぶ台の上を滑り、出しっぱなしになっていた食器が畳に散らばった。受け身も取れず壁に頭を打ち、もうろうとする。歪む視界の中、彼は少女が芋虫のように這いずり、靴も履かずに外へ逃げたのを確認した。


「そうだ、逃げろ……」


 ひとまず己の理想を汚すことは避けられた。


 その代償に、父親の拳が彼のこめかみを叩いた。意識が揺さぶられ、耳に聞こえる怒声が途切れ途切れになる。目玉を回して気絶しかかっている彼を見、男はニタリと笑って胸のネクタイを掴んだ。首を絞めるようにそれを引き、遅れて持ち上がった顔面に腕を振り上げる。いいひとでありたい彼の心は幼少期に戻り、大人しく身を縮めた。


 やっぱり怖い。


 かなうわけがなかった。


 今度こそ殺されてしまうのだ。殺されて、殺されて、もう二度と目覚めることはない。


 そんなのは嫌だ。


 まだ何も楽しくない。面白くない。


 心から笑ったことなんてなかった。幸せなんてなかった。


 こんな冷たい場所で、臭くて汚らしくて不幸なところで死にたくない。


「チクショウ……ッ!」


 彼は手で畳を探り、それはペンか箸か、細長いものを掴んで、


 うねうねと動く虫を食らう。


 ミミズ一匹分の空腹が消えた。


 背中を打ち据える鞭の持ち主が笑っている。


 泥水をすする。


 干からびた草を食べ、吐き、打たれ、笑われ。


 その子に感情はなく、意思もなく。


 思いがけず現れた見知らぬ人間。目を丸くして腰を抜かしたソレを小屋に引き込み。光で照らし出したその顔は……、


「これは、キミの……。ウッ!!」


 地獄をめぐる記憶から覚めたナナシは吐き気を催し、とっさに口を塞いで嘔吐を耐える。キツくつぶった瞼の間に涙がにじみ、こぼれる前に胸の不快感を押し戻した。


 荒い息を吐きながら顔を上げ、しかし記憶の再生は未だ終わっておらず、ナナシはジョンの背後に鞭を振り上げる男の幻影を見た。


 叩かれる。小さな子供が。


 子供が大人の暴力にさらされていて、


 それを助けないわけにはいかない。


 助けるべきだ。


 かつて自分もそれを望んだのなら、自分こそがこの子を助けなければいけないのだ。


 振り上げられた鞭からかばうように、少年を引き寄せて幻に背を向ける。


 だがどうしたことか、皮膚を裂く痛みはいつになっても襲ってこなかった。腕の中の子供がくぐもった声を上げる。


「なな? ぎゅっと、いたいー?」


 それでナナシは我に返り、慌ててジョンを解放した。

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