4‐2 名前
最初に襲いかかってきたのはひどい悪臭だった。あらゆる汚物を混ぜ合わせて腐らせたような、堆肥よりも強烈なそれに男はたじろぎ、反射的に戸を閉めようとする。
その時、
「あぅ、あー……うう?」
空耳だったかもしれない。自分が吐き気を紛らわせようと発した声だったかもしれない。けれど耳を澄ましてみれば、誰かの息づかいは確かに聞こえていた。
べしゃ、べしゃ……と、泥の中を歩く音が近づいてくる。
男は腰を抜かして小屋の外にへたり込んだ。その間も足音はゆっくりとこちらへ向かってきて、戸口の手前で立ち止まった。
降り注ぐ月の光に、何者かの姿が露わになる。
薄汚れた長い白髪を簾のように垂らし、顔は見えないが、一メートルほどの背丈からして子供らしかった。その子は髪の間から手を出して人差し指を男に向け、虚空に円を描いた。どこからともなく蛍が飛んできて男の顔を照らす。
暖かな、青白い光が――。
違う。これは蛍ではない。虫の尻が化学反応で光っているのではなく、光そのものがふわふわと浮いている。しかもそれには温度があり、つまり小さな炎であることが分かった。
男は接近する火の玉に手をかざして、小さな燭台が提灯のようにつられているのではないと知る。炎だけが何もない空中で燃えているのだ。
「手品か? 鬼火……、魔法? まさかね」
「まほ。まー、ぉう?」
「っ!」
男はビクリとして尻で地面をずり下がる。
子供は戸口の前で足踏みをしている。小屋からは出られないようだ。指先だけが楽しそうに宙を跳ね、それに連動して炎もひょいひょいと踊り遊ぶ。
「に、ぁうー。あー、あうあう」
幼い口から発せられる言葉は意味を成さない。身長からして五歳はすぎているだろうから、ここまで言葉が不明瞭なのは明らかにおかしかった。そもそも、こんな異臭のする場所に子供がいるのも普通ではない。
これは幽霊なのか、幻なのか。
男は正体を確かめたくて、くるくると舞う子供の指先をやんわりと掴んだ。この指とまれ、と誘われたかのように。
結果、指には触れることができた。体温も感じられ、この子供は疑いようもなく生身の人間であった。男がさらに手を伸ばし、長い白髪をかき分けてその顔を確かめる。
少年だった。
鼻と眉が高く、大きな目に金色の瞳。白い肌は傷だらけだ。麻袋に手と頭を出す穴をあけただけの服とも呼べない服を着ている。裸の足は泥に汚れ、爪の隙間まで真っ黒だった。
「キミ、何でこんなひどい場所にいるの」
「き、ききみ。なん、なしょ。ばじょ? きゃっきゃ!」
少年は上半身ごと首を傾げたあと、さっと直立に戻って笑い声を上げた。彼は男の手を取って小屋の中へと引き込む。男は踏みとどまる暇もないまま、異臭に飲み込まれた。背後で風が吹いて独りでに戸が閉まり、真っ黒な空間に明かりがひとつあって、二人分の呼吸だけが聞こえる。
小屋の中は底の抜けたバケツや柄杓など、ゴミが雑然と捨てられていた。泥にまみれた干し草がこんもりと山になっている場所もあった。
暗くて、汚くて、臭い。
そういう場所にいい記憶はない。
羽虫の飛び交う音、床や壁を走るグロテスクな害虫。不衛生で、無秩序で、怠惰で傲慢。痛みと屈辱だけがあって、楽しいことも何もなかった。
「……っ」
自然と力の入った男の拳に少年の手が触れる。男は肩を揺らして手を引っ込めようとしたが、少年がそれに縋った。
小さくか弱い存在が、大人である自分を頼っている。
男は胸中を荒らす不快な記録を投げ捨て、子供と相対した。
「キミの名前は?」
「きぃの、ききき。なぁえ?」
反対に聞き返されたようになって、男は頷く。
「ごめん。まずは自分から名乗らないとだよね。僕は、……っと。あれ?」
彼は首を傾げて眉をひそめる。
「おかしいな。頭の悪いクソカスネームは出てくるのに、まともな方のが出てこない。割とまじめに考えたのに……」
そこで声を詰まらせた彼に、少年が言葉を繰り返す。
「ぼぼぼ、ぼく、ぼくは。は。ぼく。くく、く~?」
少年は「僕は僕」と言って朗らかに笑う。
こうなってしまうと、名前など何でもよかった。もともと愛着のあるものでもなかったのだから、なおさらだ。
「アー、まぁ何でもいいか。太郎、次郎……いっそ名無しの権兵衛とかありかも」
「ごん? なな、し。のご、べ」
「うん、そうだね。僕のことはナナシって呼んでくれればいいよ」
「ぼくは、はな。ななな、し。ななして、よん。くれれ」
「それで、キミは?」
「きぃ、みは?」
「……もしかして名前がないの?」
「なま、えな。ないななの」
「そっか」
ナナシはつらそうに眉根を寄せ、ならばと天井を仰いだ。
「でもなぁ、この顔で権兵衛はないよな。ないない」
「このか、おごん、べ、べはなー」
「ジョン・ドゥ……が妥当なところ?」
「じょど、ととだ、うなと」
「よし。キミの名前は今からジョンだ」
「きぃ、いまかあ。な、な。じょ」
「違う違う」
「ちがうがう」
舌っ足らずながら一生懸命に真似するジョンを微笑ましく思いながら、ナナシは自分を指さし、「僕は、ナナシ」。次にジョンを指さし、「キミは、ジョン」。そうやって何度も繰り返し、においのことなんて忘れて少年に名前を教えた。




