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私がそれを望むから ―終わりの魔女と死の聖人―  作者: 未鳴 漣
第一章「魔女になる覚悟」
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4‐1「悪逆の正当性」

 湿った闇の中で男は目覚めた。


 頬が痛い。殴り合いでもしたかのように、体の全てが痛い。モゴモゴと動かした口の中で血の味がした。じっとりとした岩の上に倒れていた彼は肘をついて上半身を起こし、辺りを見回しながら赤い唾を吐き捨る。


 景色はどこも黒一色で何も見えない。遠くに浮かぶ小さな光は暗闇の出口だろうか? 立ち上がり、少し歩いてみると、靴底から柔らかな土の感触が伝った。その瞬間、鼻に森のにおいが満ちる。植物が死んで、腐って、新たに芽吹く。何とも鼻につくにおいだ。


 彼は忌々しく思いながら、光の差す方へと歩いていく。


 ヒタリ、ヒタリ。


 自分の足音が反響し、後ろから薄気味悪い調子で追いかけてくる。まるで彼を追いつめるように。そうなると男は逃げるしかなかった。踏み出す一歩は次第に速まり、いつの間にか息急き切って走っていた。


 体の痛みは忘れてしまった。


 目標とする出口が近づいてくる。彼は目前に迫ったそれに助けを求めて飛びついた。しかし受け止めてくれる者はおらず、男は地面を転がった。


 いっそう深まった森のにおいに吐き気がする。


 軽くむせながら再び起き上がり、目眩がしてよろめいた。何か支えになるものがなければ倒れてしまう。無意識に手を伸ばしてそれを探すと、手のひらにがさがさとした感触の柱が当たった。男は腕にぐっと体重をかけて、転倒をこらえる。


「ここは……?」


 脳が回転する感覚に頭をぐらぐらとさせ、周囲を振り返る。


 頭の遙か上で紙のように薄い何かがこすれる音。水の流れも遠くに聞こえる。それでいて、張りつめた糸のごとく耳に痛い無音があった。


 突然、鳥がギャッと鳴いて羽ばたいた。


 思いのほか大きく聞こえた物音に、男は驚いて柱に縋った。


「痛ッ……!」


 表面を撫で上げた拍子に、ささくれが手のひらを切りつけた。男は反射で柱から遠ざかり、出血する自分の手と、正面とを見比べる。


 それは余りにも巨大な樹木だった。ひび割れた皮は厚く、そこら辺の石より固そうに見える。


 上空からは銀の光が差していた。月だ。


 今は夜で、目の前にあるのは見たことのない巨木。頭上で葉がそよぎ、川が流れ、闇に紛れて動物がうごめく。晩秋もしくは初春らしい肌寒さがあって、湿気が地面を覆っている。


 そこは森だった。


 男は白いワイシャツに青のネクタイ、黒いスラックスにジャケットという、くたびれたサラリーマンの格好だった。大自然の中には馴染まない服装である。所持品はこれといってなく、屋外にて裸足でないことだけが救いだった。 


 男は暗所に慣れてきた目をこらして周囲の状況を確認する。


 自分が走り出てきたのは、小高い山の崖に埋まった木の虚だった。崩れた土砂によって押し倒され、流されてきたそれがここで止まり、中が腐って空洞となったようだ。


 それにしたって中の空間は広かったように思う。穴の先に洞窟でも通っているのかもしれない。確かめてもよかったが、またあの暗闇に戻るのも嫌なので、男は推測を切り上げて体を反転させた。


「僕はどうしてこんなところにいるんだ……?」


 目覚める前を思い出そうとするが、何をしていたかとんと分からない。


 判然としない中でも立ち止まっているわけにはいかない気がして、男は静かに歩き出した。訳も分からないまま、見知らぬ土地を当て所なく。血が滴る手をかばいながら、木の陰からそっと顔を出して危険がないか確認する。靴の先で茂みを蹴り、ゆっくりと進んでいく。


 ぐるぐる、ぐるぐると。


 回り回って、二時間ほどがたっただろうか。男の息もだいぶ上がってきたとき、木々の間に人家の明かりらしきものが見えた。男は労が報われた気になって、足のだるさも忘れて駆け寄った。


 広がった景色の中でまず目に入ったのは大きな屋敷だった。玄関と思しき作りは見あたらず、彼が抜け出たのは裏庭の一角らしかった。


 他人の敷地に無断で入ってはならない。


 最低限の常識が脳裏を過ぎり、彼は二の足を踏んだ。


 空を見上げて、月は頂点近くにある。現在位置が分からないのであれば、正確な時刻も計れない。視線を地上に戻して、屋敷についている明かりは二階の角にひとつだけだった。


 未知の植生がはびこる森の中に建つ一軒家。そんなところに住んでいる人間とは? 男の頭の中に、性根の曲がった中年男が描き出される。


「助けてほしいけど、時間も分からないんじゃ……声をかけるのはナシ、かな」


 逃げ腰になってキョロキョロと首を回し、近くに小汚い小屋を見つけた。そこならしばらく隠れられそうだった。明るくなればさっさと敷地を出ると決め、男は抜き足差し足で小屋に近づく。漂ってくる妙なにおいに顔をしかめながら、蝶番の一部が外れて斜めになっている戸を開けた。

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