3‐9 西方へ
ずっと黙っているエースにスランが視線を移す。
「まさか、お前も行ってしまうつもりかい?」
「手紙でお知らせしたとおりです」
「……」
「俺はソラ様をお助けしたいんです。どうしても」
スランは食い下がるエースに幼い彼の姿を重ねていた。謝る相手はもういないのに、「ごめんなさい」。許される機会を逃し、罪を悔い続ける我が子。唯一だった贖罪の好機を奪ったのはスラン本人である。
あのとき、どうしたらよかったのか。今もまだ分からない。
己の過ちを思い出して言葉を失った父親の代わりに、ソラが憤懣を表す。
「やめてよ。キミまでそんなこと言うの? 何で……!」
「貴方が魔女でないことを、俺が知っているからです」
「そんなことのためについて来るって言うの!?」
「そんなことなんかじゃない!!」
彼の絶叫は――それは絶叫と表現して余りある声だった。己の意見が通らない不満を嘆く、幼稚な感情の発露ではなく。何かを守るように、耐えるように。
青年は自らの左腕をむしり取らんばかりに掴んだ。
「エース……」
「ごめんなさい、お父様。でも、今ここでソラ様を見放してしまったら俺はもう……どうやって生きていけばいいのか分からなくなってしまう」
「けれど、どこへ逃げると言うんだい」
「カシュニーの、フラン博士を訪ねるつもりです」
「西方へ行くって? あそこは魔法院発足の地じゃないか。いくら何でも危ないよ」
「そうかもしれませんが、得るものはあると思います」
「その後は……」
「クラーナ地方を経由して、プラディナムに入ります。あそこは今も魔法院に反発する人間が多い土地ですし、魔女関連の資料も見つかるやもしれませんから」
「それが、お前の望みだと?」
「は、い……。俺が何かを願うなんて、そんな資格がないのは分かっています。でも……」
「……」
スランはエースに手を伸ばし、己の過去を苛む右手を下ろさせた。
そこにジーノがバタバタと戻ってくる。
「どうです? これであれば追っ手の目もごまかせると思いますが」
意識して声を低く出せば、彼女は誰の目にも凛とした少年にしか見えない。その変わり様を目の当たりにし、スランはとうとう観念してしまった。
「本当に、勝手だね。お前たちは……」
最後の砦が諦めてしまったのでは、ソラに手の打ちようはない。彼女は頭をかき回して奇声を発した。
「あーもう! キミたち二人は私の魔法で操られてる。捕まった時はどんなに無理な言い訳になったとしても、自分の意思じゃなかったと主張すること!」
「それでは本当にソラ様が魔女になってしまうではありませんか!」
「あのね、親から子供を奪う時点で私はもう十分に魔女なの。鬼だし悪魔なの!!」
ソラは呆れと怒りを込めてジーノたちに半眼を向けた。
「ついて来るなら私が言ったことを守って」
「しかし……」
「守りなさい!」
一言ずつ、ソラは人差し指でジーノの肩を突き刺し言い聞かせた。怯む兄妹を案じ、スランは少しでも追跡の目をごまかせるよう、変装を提案する。
「そのままではすぐに捕まってしまうでしょうから、ソラ様には聖人再臨の祈りを捧げる巡礼者としてこの教会を発っていただきます。エースとジーノはその護衛ということにするよ、いいね」
この巡礼者の衣装というのが、上手くすれば顔を隠せるとあってうってつけだった。そして向かう先は西方カシュニー、魔法院の総本山がある地方だ。
ソラはかさぶたが残っている頬に触れ、悔しさをにじませた。このまま、ただ逃げて終わるわけにいかない。拳を握って奥歯を噛みしめる。
それからすぐに各々の支度が始まった。
ソラは格好を改め、ジーノは貴重品と野営道具をまとめ、エースは衛生用品や魔術の装具を準備した。あらかたを終えると、軽く食事をして休むことになった。
夜明け前に起きて、冷えを通り越して痛いまでの冷気に身を縮めながら表に出た。そこには夜のうちにスランが厩舎の管理人に頭を下げて融通した二頭の馬が控えていた。
ジーノの馬に荷物を負わせ、ソラはエースと共に騎乗した。
「忘れ物はないかい? 路銀が足りなくなったら私の名前を出していいから、教会で借りるんだよ」
スランはいつも下がり気味の眉尻をツンと上げ、泣きそうな目をごまかしていた。
ソラは結局、兄妹を突き放せなかった。それもそのはずだった。氷都の魔法院から逃げ出せたのも、二人の助けがあったからこそなのだ。
――私は一人じゃ何もできない。
生き残るには彼らの手を借りるしかない。だが、それなら汚名返上は二の次にしなければならなかった。他人を巻き込んでおきながら自分の目的を最優先にするなど虫がよすぎる。さすがのソラもそこまでの人でなしにはなれない。
何を置いても優先すべきはエースとジーノの安全である。
逃亡の旅路を選んだのは兄妹ではない。死にたくないと願ったソラがその道を選ばせてしまったのだ。そこを間違えてはいけない。
ソラには兄妹をスランの元へ無事に帰す義務がある。そのためならば自分の命を賭ける覚悟も必要だった。
「スランさん。本当に……、本当に申し訳ありません。何があっても絶対に、この子たちだけは守り通します」
口に出しておかなければ、その意志がいつか折れてしまいそうだった。それを聞いたスランは厳しい視線をソラに向けた。
「ソラ様……私は貴方を……」
人を恨んだことなどない彼の目に激情が浮かぶ。穏やかで慎ましい、善良なる人間が憎しみに囚われる様をまざまざと見せつけられ、ソラは息を呑んだ。
スランにこんなつらい思いをさせたくなかった。この憎悪は必ずや解かねばなるまい。彼に誰かを恨んだままでいてほしくないから。
ソラ自身も憎まれたままではいたくない。
できることなら惜しまれる人でありたい。
そう願うのであれば、ソラがスランから目をそらすことは許されなかった。
先に視線を外したのはスランだった。彼は一度うつむいて様々な思いを押し殺し、のどかな気持ちで顔を上げた。別離の場面で子供に見せる親の顔が怨嗟にまみれているなど、ひどい不幸だ。
せめて、スランはこれが最後にならないことを祈って穏やかに微笑む。
「……さあ、もう行きなさい」
「行って参ります、お父様」
「お父様も、どうかお体に気をつけて」
「うん。お前たちが帰ってくるのを待っているよ」
別れは短く。
エースとジーノはそれぞれに馬の腹を蹴り、北の峠へと旅立った。冷暗の稜線に馬のいななきが響き、雪雲の中に消えていく。
雪原を渡り、山を越えて。暗く湿った森が支配する彼の地までは遠い。
決して戻ることのできない道の先に、ソラは未来があると信じていた。




