3‐7 逃亡
「こンの……っ」
ソラはまたしても痛みによって正気を取り戻した。ソルテ礼拝堂で収めたはずの苛立ちが舞い戻って、彼女は口に流れてきた血を唾に絡めて吐き捨てた。
「クソジジイ!!」
彼女の唾棄は元老の服を汚した。尊大であるがために沸点の低い老人は当然のごとく怒りに駆られ、ソラの頭を踏みつけた。杖に鎌の刃をつけて細い首筋を押さえる。
その光景に狼狽したジーノが鋭く異を唱えた。
「ソラ様は光の魔力もお持ちなのですよ!? 貴方もそれをご覧になられたはずです! なぜこのようなことをなさるのですか!?」
「聖人とは」
元老はもったいぶった調子で続ける。
「今を憎まず、過去を嘆かず、未来を憂えず。人に寄り添い他者のためにその身を投げ出す尊き者のことを言うのだ」
床をなめて呻くしかない無力な女を見下し、
「己が心に陰を持つ貴様がそれを成すとでも?」
「少なくともお前よか可能性あるわボケ!!」
「嗚呼、聞くに耐えぬ浅ましき言葉。その姿も何と醜いことか。これが聖人であるはずがない。貴様のような世界の脅威は本来であれば早々に処分してしかるべきだろう……」
老人は一転して、哀れなる動物を愛おしむような優しい声で話す。
「だが、異界の者である貴様には聞きたいことがある。首を落とすのはそのあとにしてやろう」
「ふざっけんな! 私はまだ死ねな――」
死ねない?
無意識に喉が閉じて、ソラはその先が言えなかった。
もう以前の自分ではないのに、死ぬも死なぬも今更ではないか。過ぎ去りし青井空が耳元で諦観を促す。
「そんなの、まだ……!」
唇を震わせる彼女に老人が甘くささやく。
「いいや。死ぬのだ、貴様は」
穏やかな声で告げる。
死とは、誰にも訪れるものだ。
今回を逃れても、全てが終わり希望も果て命が潰える時は必ず来る。
「分かってる、分かってる……。でも……それでも……っ。嫌だ……嫌だ……嫌だ……!」
ソラはひたすら拒絶を繰り返す。
隙を見てエースが魔法を放った。元老はそれを軽く弾いて余裕の表情を浮かべ、「そよ風のようだな?」。エースはついに剣を取り上げられ、ジーノも杖を奪われそうになる。
「嫌だ。死にたくない。私は……、私はまだ……っ!」
記憶の欠落で人格は変わり、もう元の「青井空」ではないのだとしても、
それでも、アオイ・ソラはここにいる。
確かに生きている。そして、思っているのだ。
まだ死ねない! 何も答えを得ないまま死ねるわけがない!!
彼女はどんな願いよりも勇清い思いを叫ぶ。
「私は十年後も生きてるって決めたんだ!! いま死んでたまるかッッ!!」
その獣じみた咆哮に度肝を抜かれたのは兄妹を抑えていた男たちだった。特にジーノをか弱い子供と侮っていた一人がその手を緩め、少女はその好機を見逃さなかった。
ジーノは素早く杖を取り返した。男を風の鞭で吊し上げて投げ捨て、元老に向かって炎揺らめく矢を次々と放つ。狙いは正確でなくともいい。老人が後退すればそれで十分だった。
「その方に触れるな!!」
「くっ!? 小娘! 自分が何をしているか分かっておるのか!?」
続けざまの容赦ない爆炎でソラから元老を遠ざけ、その間にエースも自力で拘束を抜け出した。男たちを瞬く間に伸して剣を奪い返し、ジーノの攻撃を援護としてソラの元に向かう。
元老は視界を妨げる煙を振り払ってジーノに杖を向けた。空を切る疾風が宙を走る。ジーノは音をも裂く雷光で触れる先からその風を燃やし尽くした。
「儂の魔法を上回るだと!?」
諦めの悪い老人は追撃の構えを取る。ジーノは冷たい瞳を針のように細くしてそれを睥睨した。エースはちょうど、立ち上がれないソラを腕に抱えたところだ。ジーノは軽く杖を回して、その軌道に凍てつく剣を十重二十重と作り出した。冷気を帯びミシミシと鳴る刃が部屋の気温を引き下げる。床や壁に霜が走り、その光景に異常を察した元老たちは攻撃を捨てて防御に回った。
エースがソラと共にジーノの横を通り抜ける。ジーノはその背中を追って体を反転させ、杖を振って刃を放射した。
もとより威嚇と牽制が目的の攻撃であるため、敵の防壁には当たらぬよう調整したつもりだ。そうしなければ、ジーノの魔法は凡夫の盾など容易く射抜いてしまう。
計算通り、冷然なる魔法は相手に傷を負わせることなく、足止めの役目を果たした。前を走るエースが窓を蹴り開け、バルコニーの手すりに足をかけて宙に飛ぶ。追ってジーノも手すりを越えた。彼女は地上から氷柱を伸ばして道を作り、落下する兄と自分の足に氷の刃をはかせる。
兄妹は危なげなく斜面に降り立ち、氷の地面を掻いて脱兎のごとく魔法院から逃亡した。
無惨に破壊されつくした部屋の中で、権威を地に落とされた元老は膝をわなわなと震わせた。彼は愕然として床にへたり込む男たちをどやしつけ、
「麓の兵舎に三人の特徴を伝え、捕縛を要請せよ。あそこには今、特務騎兵隊の人間もいたはずだ……人相書きの者と共に呼べ。それをもとに各地の教会へ手配の知らせを出す」
「は……、っはい!」
「魔女め、大人しく捕まっておけばまだ楽に死ねたものを。己の愚かさを後悔するがいい」
老人の顔つきは奸悪そのものだった。部下は青い顔をひきつらせ、失態の収拾に奔走を始めた。
一方で、前代未聞の逃走劇を成功させたソラたちは何とか氷都からも逃げおおせようと、空中の氷道を急いでいた。傾斜を滑る勢いに乗せて刃でも地を掻き走っている今の調子であれば、魔法院の追跡は心配しなくても良さそうだが、気を抜いて足止めを食らっては元も子もない。
ソラもそれは分かっており、黙ってエースの腕に抱かれていた。エースは後ろにジーノが着いてきていることを確認して、
「一度、教会へ戻ろう!俺は荷物を回収してくるから、ジーノはソラ様と馬を頼む!」
「分かりました!」
三人はすでに町並みの中へ入り、人々のどよめきを眼下に聞きながら目的地まで走った。教会前の広場に道を下ろして、ジーノはエースが地面を踏むタイミングで氷の靴を解いた。形振り構っていられない彼はソラを荷物のようにジーノへ投げて渡し、立ち止まることなく宿坊へ駆けていった。ジーノは兄を信じて、ソラと共に厩舎へ向かった。
エースは日常を過ごす教会の中を疾走し、泊まっていた部屋までものの数秒でたどり着いた。貴重品だけを持ち出し来た道を戻り建物を出ると、ジーノが馬に乗ってもう一頭を連れ出て来たところだった。ソラはジーノと一緒だ。エースは意地で馬の足に追いつき、地面を強く蹴ってその背に飛び乗った。
道行く人の悲鳴に胸を痛める暇もなく、三人は氷都からの脱出を成功させた。
そこから向かう先といえば、ソルテ村しかない。
しばらく馬を疾駆させていると、ソラがようやく呼吸を思い出したかのように大きなため息を吐いた。
「……」
彼女は十年後も生きていると、もう決めた。
こんなところで終わるわけにはいかない。
「首を落とされてなんて、死にたくない……」
そんな死に方のために、これまで生きてきたんじゃない。
ソラが望むのはより良き死だ。恨まれるのではなく、誰の心にも残らなくていいから、平穏で穏便で、悔いも少なく死ねること。そのための「生」とは何か。その答えを彼女はまだ得ていない。
だから、あそこで死ぬわけにはいかなかった。
逃げる意外の選択肢はなかった。
老人の言葉に抗ったことは後悔していない。
だが、
「……どうしよう……これからどうしよう」
一寸先は闇。
何も見えず、展望もなく。あるのは精神を押し潰さんばかりの不安だけ。あまりのことに自嘲さえできずにうつむいていると、握りしめた拳に他人の手が重なった。
ジーノだ。
彼女は決意をつぶやく。
「貴方を殺させはしません」
隣を走るエースも、ソラを死なせはしないと胸に誓う。彼は魔法院から布令などが出ないうちに、スランに宛てて速達で知らせを出そうと思った。
「お兄様、もうしばらくは走りますか」
「そうしようと思う。今は氷都から一歩でも遠く離れたい」
上空を見上げると、この騒動が嘘のように晴れていた。今の時期、天候の流れは氷都から徐々に北上していく。つまり、しばらくは今の空を追っていけるということだ。エースは後ろを振り返る。
この晴れが長く続くことはない。
やがて雪が来る。
本格的な追っ手が出るにしても、その雲が行く手を阻んでくれるだろう。
「ジーノ。馬の足を助けられる?」
「お任せください」
気を張りつつも、危機を脱したことに安堵をにじませ、二人はやや声のトーンを落とした。
ソラはと言えば、手綱を握るジーノの手をじっと見つめていた。死んでたまるかと叫んだ自分を助けてくれた兄妹。赤の他人なのに、命を賭けてくれている。
その手をいつまでもソラが握っているわけにはいかない。
「だけど、もう少しだけ……」
頼っていたかった。
いずれは手放すことを心に決めて、彼女は目を瞑る。
それから十八日かかって、三人はソルテ村へ到着した。




