3‐3 疑問
テーブルで就寝前の茶を入れるジーノの手が止まった。ソラも真面目な話と分かり、寝ころんでいた体を起こしてエースを正面に見た。
「お聞きしましょう」
「私は一度、貴方に剣を向けました。貴方が陰の魔力を持っていると知り、家族や村に災いが降りかかるんじゃないかと不安になったんです」
「それは仕方ないよ。私もスランさんから事情を聞いて納得してるし、もう気にしないでも……」
「ですが、あの場では……! 理性を捨て、本能で剣を抜いた私こそが最も恐ろしい存在だった」
彼は一言ずつ、どうにか声を絞り出すようにして語る。
「俺は、昔と変わったんだと思いたい」
それは自分に言い聞かせる言葉だった。エースは顔を上げ、
「ソラ様は良きお方です。出会ってまだ数日ではありますが、多くの言葉を交わして……そうだと確信しました」
「それは嬉しい。ありがとうね」
「であればこそ、違和感が拭えないのです。なぜ貴方に悪しき陰の魔力が宿るのか」
それこそが本題だとばかりに、エースが身を乗り出す。
「まず、魔女の侵寇やその悪しき行いを記し、現在に伝える書物は唯一〈伝承記〉のみなのですが」
唐突に発覚した新たな事実に、ソラは「なんて?」と突っ込みそうになった。
世界が恐れる「魔女」に関連する書物が一冊しかないとはどういうことか。すぐにでも聞き返したかったが、話の腰を折るようで彼女は口を挟めなかった。
「本書は次のように記述しています。〈魔女、異界の地より怨念に囚われ現る。魂のひずみ故に幻脈曇りあり。彼の者が振るうは黒き業にて、大地を災厄で覆いけり〉。幻脈とは魔力のことです」
「……魔女はこの世界にやってくる前から何かに恨みを持っていて、その感情が原因で魔力が陰を帯びていた。ってこと?」
ソラは表情を曇らせてこめかみをつつく。
「私にだって、そういう気持ちは大なり小なりあるもの。だから陰の魔力があるって話自体に矛盾はないと思うけど」
「疑義があるのは、その解釈です。陰の魔力は悪しきもので、魔女と断じる絶対不動の条件とされている。ソラ様が陰の魔力を持つことは事実として動かしようがありませんが、それひとつで魔女と断定するのはあまりに拙速ではないかと」
「まぁね。私としても、魔力だけで悪人と判断されるのは困るかな。私自身はこの世界に恨みなんてないし。例えば元の世界に遺恨があったとしても、無関係な人に八つ当たりするほど落ちぶれてもないよ」
「ええ。他者が何者か見定めるには、その人格こそが重要なのです」
はっきりと言いきったエースを頼もしく思い、ソラは今になってようやく彼に対する不信が払拭された気がした。彼は自分の間違いを認めて改めることができる、「いいひと」だ。
茶葉の蒸らし時間を終えたジーノがポットを傾けて、何気なく話の肝に触れる。
「私たち、物事の本質が見えていなかったのですね」
「まさしく。俺の違和感はそこなんだ、ジーノ。どうしてたったひとつの証拠で結論を出してしまったのか……今となっては浅はかとしか言いようがない。陰の魔力を持つ者が魔女という思い込みはいつ、どこで、だれに植え付けられたものなのか。突き詰めていくと――」
「解釈が間違ってた?」
ジーノからカップを受け取り、ソラが答える。エースは大きく頷き、
「伝承記を編纂し、その解釈を広めたのは魔法院です」
「お兄様」
ジーノがポットをテーブルに置き、冷え切った声で水を差す。
「お兄様の魔法院嫌いにも困ったものです。確かに伝承記は魔法院が編纂した書物ですが、そこまでお疑いになるのはいかがなものかと……」
大陸の歴史を記したその本はソルテの信仰にも連なる部分がある。ジーノはスランに次いで敬虔な徒であり、たとえ兄の言葉であっても信じるものを否定されるのは堪える仕打ちだった。
「ごめん、ジーノ。でも……それでも調べてみたいんだ。教会の文庫には大陸統一の際に魔法院が接収した古い文献も保管されていると聞くし、もしかしたらその中に魔女を表す別の記述があるかもしれない」
一度でも胸に引っかかってしまえば、見て見ぬふりはできない。ソラの手前、兄の推理を一蹴することもできず、ジーノは小さくため息をついて視線を落とした。
「分かりました。お止めはいたしません」
「本当に、ごめん……」
父や妹の思いを裏切ることになってしまい、エースはひどく気落ちした。そんな彼を励ますようにソラが言う。
「しっかし、エースくんは何でも知ってるんだね。書籍の一節を空で言うなんて、私にはとっても無理」
「知っているというか、覚えているだけ……ですよ」
「お兄様は一度見聞きしたなら決して忘れない方なのです」
「いやすごいなそれ。そんなエースくんならお手伝いなんて必要ないのかもしれないけど、何か気になることがあったら私にも教えてくれる? 頼りきりじゃ悪いし、一緒に考えたい」
「もちろんです。こちらこそ、よろしくお願いします」
ソラはそれまで両手で包み込んでいたカップの縁に口を付け、ほどよく温かい茶の苦みを味わった。
「あ。これけっこうイケる」
「お口にあったようで、よかったです。お兄様もどうぞ」
「ありがとう」
「さて。そうなると差し当たって分からないというか、根本的な謎は陰の魔力と魔女の関係だよね。エースくんはさっき、伝承記が魔女について記されている唯一の書物だって言ったけど、魔女のお話ってほかに何も残ってないの?」
「一般の目に触れる書物ではそれだけです。知識欲の塊である魔法院が接収した過去の文献を処分したとは思えませんが、詳しく書かれているものであれば、禁書指定されている可能性はあります」
「まるで知られちゃマズいことを隠してるみたいだ」
信頼の置けるエースが魔法院を嫌っているせいもあり、院の動向は全て怪しく思えてしまう。とはいえ一方の言い分だけで物事を判断するのも早計なので、ソラはジーノに意見を求めた。
「ジーノちゃんとしては、魔女について知る手段がひとつだけっていうのはどんな印象?」
「魔女とは、恐れ嫌悪される存在ですから……」
見たくないものから目をそらす言い訳としてはうってつけである。
「だよねぇ。怖いことを自ら進んで知りたくないのは私もそう」
ソラはジーノの姿勢を非難しなかった。ソラはこの世界の部外者である。魔女がいかに悪辣なる存在か実感のない彼女に、その善し悪しを語ることはできない。
「地方のおとぎ話にも残ってないのかな。魔女がお化けや怪物にすり替わってて、何をすると現れるとか、どうやったら撃退できるとか」
「……。詳しく調べるとなると、一人だけ当てにできそうな人物がいます」
エースが器を置いて、渋い顔で言う。できれば会いたくない、といった様子だ。
「西方カシュニーに住まうフランという異界学博士なのですが、聖人に関する研究のみならず魔女についても知識を深め……その傾倒が原因で魔法院を追放された人物です」
「魔女に触れることが禁忌とされる世の中でそれを研究してたの? 偏屈な異端児か、一周回ってまともなのか……どっちもありえそうで分かんないな」
「東方プラディナムにも資料が残っているかもしれません。昔から魔法院と対立してきたあの土地は統一戦争の時も最後まで抵抗し、自分たちの文化を守ったと聞きますから」
「あら、とても耳寄りなお話。そしたら今回の件が一段落したあとの方針は決定だね。フラン博士を訪ねてみるのと、東に行ってみるってことで」
今までフラフラしていた軸がようやく定まったことに意気込み、ソラは茶をあおった。喉を通り過ぎて食道に入るはずの液体は誤って器官に入り、
「ウッ!? ゲッホゲホゴホ、ゴホッ!!」
吹き出す醜態はどうにか避けたが、盛大にむせたソラは兄妹にひどく心配された。口の端からわずかにこぼれた茶を手の甲で拭い、「締まらないなぁ」。幸先が悪いとまでは言わないが前途多難を思わせるオチであった。
その後、魔物に襲われることもなく予定通り二十日間の旅を終え、三人は夕暮れの前に氷都へ到着した。




