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私がそれを望むから  作者: 未鳴 漣
第一章「魔女になる覚悟」
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1-2 遭遇

 煌々と明るいトンネルを抜けて、女は意識の靄をそのままに顔を上げた。景色はやはり白飛びしていて、一見すると平面的だった。針葉樹のような細長い木が白い枝を伸ばして幾重にもなり、下方にそれらの影が落ちていることで地面と奥行きが認識できる。


 一歩を踏み出し、ざくりと音がする。履いていた靴はどこかへ脱ぎ捨ててしまったらしく、足の裏にざらりとした感触があった。芝生だろうか、白いそれを見たのは初めてだ。女は足下から天を仰ぎ、折り重なる枝の間に青い空を見た。薄く曇ってはっきりしない晴天であるが、青という色が認識できたのだからこの空は晴れているのだろう。ざあっと風が吹いて、宙に細かな光が舞う。あたかも星が降ってきたかのような光景に熱い息をもらし、彼女はそれらを手のひらに受け止めようとして――、


「貴方! そこで何をしているのですか!」


 静寂を切り裂く冷ややかな声が聞こえた。


 女はゆっくりと視線を地上に戻し、声がした方へ目を向けた。


 そこには一人、少女が立っていた。白い背景に消え入りそうなくすんだ金の髪に、青い瞳。顔立ちは美しいが表情は冷たく、氷像のような印象を受ける。毛皮のコートと耳まで覆う帽子を被って、白い息を吐いて女を睨みつけていた。


「何をしているのかと聞いているのです! 答えなさい!」


 鼻の先を赤くして、いかにも寒そうだ。


「……寒そう?」


 女は低く疲れ切った声で疑問を口にした。直後、粟立った肌を抱えて自分の姿を見下ろす。キャミソールにかぎ編みのカーディガン、そしてクロップドパンツという服装で、靴は履いておらず素足で地面に立っている。


 混乱しつつも女は再び少女に視線を戻す。


 少女が肩を怒らせて大股で近づき、


「――ッ!?」


 目に見えない「何か」に弾かれて後退した。彼女は怪訝な表情を浮かべ、「結界の中に? まさか、祠の中からやってきたとでも?」。それでいて雷にでも打たれたようにハッとして、女を見つめた。


 木々の間を風が吹き、少女の長い金髪を宙でもてあそぶ。彼女は首筋を撫でた寒風に震え上がり、小さなくしゃみをした。


 女は少女の仕草を目撃し、おぼろげな意識をわずかに覚醒させた。頭の片隅が働き始め、目の前の現実を認識する。


「さ……」


「さ?」


「さっむ!!」


 女は肩を抱えてその場にしゃがみ込んだ。


「え、ちょっと待って。さむ、寒い……普通に寒い。ま、まだ夏のはずじゃ……?」


 残念ながら季節は冬である。


 先ほどまで確かに真夏の都市にいたはずの女は、状況を把握できずに首を左右に振って辺りを確かめた。樹木の幹も枝も、昼夜の吹雪を纏って白く化粧をされている。地面を覆っているのも純白の芝生ではなく氷状の雪だった。


「冬、だ……! なぜ!?」


 女は己の服装がいかに場違いか思い知り、紫色に変色していく唇をぶるぶると震わせながら少女を見上げた。


「お、お嬢さん。私も、何が何だか、分からなくて。今はとにかくあたたた、あた、たまらないと死んじゃうと言いますか。寒いを通り越して痛い、ので。その」


 彼女はふざけているようで精一杯、助けを求めているつもりだった。対して少女は両の手を中途半端な高さで上げ下げし、戸惑いを露わにしていた。少女の踏ん切りが着かないその間に、女の顔色が見る見る土色になっていく。


「こ、このままじゃ、凍死……」


 終わりを思わせる単語に、女は寒さのせいではなく身震いする。


 思えば、あの冬以降「死」という単語を自ら口にしたのはこれが初めてだった。肌を刺す冷気で息は凍え、口から吐き出される白煙も薄く透明になっていく。女が恐れ、憎み、それでいてどこか焦がれる気持ちもあった命の終焉が、すぐそこに近づいている。


 自分はここで死ぬのだろうか。


 こんなところで悔しさを抱えて、訳も分からず。何かが欠けたまま、つらい思いを胸に悔いだけを残して。


「じょ、うだ、ん。じゃな、い……」


 女は焦点の定まらない目で過去を恨む。


 頭に浮かんでくるのは無責任に人の生を哀れむ顔、顔、顔!


 彼女は凍死寸前の瞳に怒りをたたえて、耳の中でいやに大きく響く鼓動を聞きながら呼吸を浅くする。やがて屈んでいることもできなくなり、肩を抱いたまま正面から倒れた。


 異変が起きたのは女の体がある一線――先ほど少女が目に見えない何かに前進を阻まれた地点を越えた時のことだった。虚空一面に文字とも模様とも取れる歪みが現れた。それは女との接触を避けるようにして綻び、彼女の肉体が通り抜けた部分から元の通りに結い戻されていく。


 ドサッと女が雪の上に転がった。キーンと鼓膜を突く音が響き、可視化されたその「境界」は揺らめいていた。


 女は腰の辺りでそれを跨ぎ、寒さに震えて身じろぎする。


「わたし、まだ……しね、な……い……」


 女は一人、絶望の表情を浮かべていた。少女は再びハッとし、あわてて彼女の肩を掴み自分の側へと引き寄せた。空間の綻びは女のつま先が抜けたことで元の装飾的な模様に戻り、異音と共に消え去った。


 静まりかえった冬の森に、少女の荒い吐息がいやに大きく響いた。彼女は女を抱えて座り込み、しばし思いを巡らせ、小さな唇に弧を描いて熱い息を吐いた。


 少女は脱いだ外套で女をくるみ、震えの止まらない背中と膝の裏に腕を回して軽々と抱き上げた。少女は腰に鞘のついた革紐を巻き、そこに腕の長さほどの杖を差していた。その先端に取り付けられたやや濁りのある透明な石が小さく光っている。


 女が曖昧な視線で少女を見上げた。


「あ、の……?」


「大丈夫です。貴方を死なせはしません」


「あ。たす、た、助けて、もらえるってこと。ですか?」


「ひとまず教会まで運びます。走りますので、おしゃべりしていると舌を噛みますよ」


「だまって、ます……!」


 女は赤ん坊のように小さくなって、華奢な少女に運ばれていった。


 木段を駆け下りて森を抜けると、建物の裏手に出た。屋根に縦横の長さが同じ十字のシンボルが見え、表に回るとそれが礼拝堂だと分かった。堂の隣には短い廊下でつながる民家があり、関係者が住み込みで生活しているものと思われる。


 少女は家の玄関まで来て、ノブに触れることなく扉を開けた。独りでに開いたようにも見えたが、女は体温の低下でぼんやりしていて気づかなかった。少女も特に言及せず、細く薄暗い廊下を早足で行って暖炉のある居間へ飛び込んだ。


 部屋には男が二人いて、日々の仕事に取りかかる準備をしているところだった。


「おや。もう聖域のお掃除は終わったのかい? 早かったね」


 初老の男が穏やかな口調で少女をねぎらう。柔らかな色合いの赤毛は前髪が少し後退気味で、年相応といった具合であった。


「お帰り、ジーノ。その方はいったい?」


 首を傾げる金髪の青年は少女とよく似た顔立ちだった。背中まで伸ばした髪の先をリボンでゆったりとまとめ、嫌みのない美形である。彼は腰に細身の剣を差しており、柄の下げ緒には緑の石が揺れていた。


 ジーノと呼ばれた少女は疑問符を浮かべる二人の横を通り過ぎて、女を暖炉前のソファに下ろした。女がおずおずと両手を火にかざしたのを見てから、ジーノは男たちを振り返った。


「この方とは聖域でお会いしたのですが……詳しいことはあとでお話しいたします。凍えてらっしゃるので、今は暖めるのが何より先かと」


「分かった。ジーノはその人についていてあげて。俺が毛布と温かい飲み物を用意するよ」


 言うや否や、青年はまず毛布を探しに部屋を出ていった。老年の男が女の横に来て、その顔をのぞき込む。


「大丈夫ですか?」


「は、はぁ……何とか話せますし、あまり冷えてはないと……思い、ます」


 フワフワと、女はどこか虚ろな感じで話した。目は見えているものの視界に映るのが何なのか認識できない、うろんな瞳で男を見つめる。


「外は寒かったでしょう。どうぞよく暖まってください」


「ありがとう、ございます……」


 炎に照らされているおかげもあるが、それでも女の血色はだいぶ回復していた。コートの裾から出ている足先を見ても変色はしておらず、寒さによる身体的損傷はないと見てよさそうだった。そこへ慌ただしく青年が戻ってきて、毛布を差し出した。女は反射的に申し訳なさそうな顔を作り、コートを少女に返して毛布を肩に掛ける。


 羽織を取り替える間に老人と青年は女の季節外れな服装を目にし、顔を見合わせた。二人は思わず女の様子を観察する。


 彼女は見るからに生気がなかった。気力の薄弱な褐色の瞳は常に眠たそうで、取り留めのない視線を長い前髪に隠している。くるくると毛先を巻く黒のボブヘアが目を引くが、整えているのか寝癖なのか分からない。容姿は可もなく不可もないごく平凡なもので、への字に曲がった口元は少し愛想が悪かった。全体にしなびて頼りなく、ふとした瞬間にどこかへ飛んでいってしまいそうな心細い雰囲気を纏う。


 そういう様子も含めて、女は普通ではなかった。


 何か深い事情があるらしい。老人はまず、青年に温かい飲み物を持ってこさせた。体温が戻らないことには女も頭が働かないだろう。


 青年が作ってくれた生姜湯を飲み、十分に暖を取ったと確認できたところで老人は女に問いかけた。


「もし、貴方のお名前をお伺いしても?」


「ええ、はい。私の名前は……」


 名乗ろうとして、女はなぜかその先を言えなかった。


「私は、……?」


 あるはずの、あったはずの名前がどうしても思い出せない。頭の中に浮かんできても輪郭がぼやけて判読できないのだ。女はその奇妙な感覚によって、またひとつ意識を覚醒させた。凍っていた脳味噌が半分くらい解凍された感じだったが、名前はその領域に含まれていなかった。


 言い渋る彼女の前にジーノがしゃがみ込み、調子をうかがう。


「どうされました? 大丈夫ですか?」


 彼女の瞳は青い空の色をしていた。女は少女の目をまじまじと見て返し、「あおい、そら」。次にはっきりと名乗った。


「そうだった。アオイ・ソラ。ソラが私の名前です」


 名前を取り戻したソラは続けざまにもう一段階、意識を解放した。


「ソラ様、ですね?」


「はい、そうです。……にしても、何で忘れてたんだろ」


 しかし声は未だに正体を掴めておらず、宙をさまよっていた。

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