2‐7 聖なる領域
「さて、そろそろ聖域ですね。おしゃべりはここまでにしましょう」
木段を三つ上がって、雪を被った木々が道を開く。
その場所は村の喧噪を離れてしんと静まり、痛いまでの冷気が停滞していた。周囲を囲む樹木が身を乗り出すように枝を伸ばし、神聖なる空間を外界から覆う。正面には山の斜面が迫り、切り立った崖ともいえるその壁には大人が屈んで通れるくらいの穴があいていた。
ソラは段差を上がりきったところで立ち止まり、真白い息を吐いてその穴を見つめた。
黒く、深く、先の見えないトンネル。
それこそが、ソラをこの世界に招いた「祠」である。
「ソラ様、どうぞ前へ」
スランがそう声をかけたので、ソラは最前に歩み出た。スランたちが後ろでひっそりと膝をついた気配がした。ソラも彼らに従って地面に膝を折って屈み、両手を掴んで目を閉じた。
祈りの言葉は分からない。ソラ自身、神様なんてものはほとんど信じていない。けれどここは異世界で、ならば神秘も実際に存在するのかもしれなかった。
ソラはふっと吐いた息に乗せて何者かに許しを請い、顔を上げた。
後ろで最初に瞼を開いたのはジーノだった。
その時、
彼女は地面を射るように差した日の光にソラの姿が消えるのを見た。
「ソラ様――!?」
静寂の中に悲愴な声が響き、皆が一斉にジーノを振り返る。
「ジーノちゃん? 何かあった?」
「い……、いえ」
異世界からの使者が白い光の中に消えた光景。それは予兆のように意味深だった。ソラを聖人の素質を持つ者として慕うジーノだからこそ、そんな風に感じてしまったのか。
ジーノは網膜に焼き付いたソラの後ろ姿を瞬きで打ち消して、首を左右に振った。
「大丈夫です。少し眩しくて……」
言ったとたんに日が陰るのだから、ジーノはやはり何かしらの兆しと感じずにはおれなかった。
皆の祈りが終わり、ソラが祠に近づいていった。穴から三歩ほど離れた一線にさしかかり、スランたちが息をのむ。
この世界の人間をことごとく拒み、立ち入ることのできない「自然結界」がそこにある。目に見えず、触れれば弱い稲妻に打たれたような痛みと共にはじき返される境界にソラが踏み込んだ。
見えざる壁が空中に紋様を描いて浮かび上がり、自らを解いて彼女を内側へと受け入れた。ソラは境界をすっかり越えて、全身を結界の中に収めた。
スランは信じられないものを見たとわななき、一方でエースが探究心を抑えられずに結界へ手を伸ばす。案の定、弾けるような音が響いて体に痛みが走り、エースは反射的に飛び退いた。
「すごい。本当に結界を越えるなんて」
「ジーノの目を疑っていたわけではないのだけど、これは驚いたな……」
結界の中でソラが身を翻し、真後ろのエースと向き合う。
「エースくん、こっちの声は聞こえる?」
「ええ。何の障害もありません」
「明かりがあったら貸してほしいんだけど」
「明かりですか……? アッ! そうだ明かりだ!!」
ソラの頼みをきっかけにエースの頭に実験がひらめいた。
「少々お待ちを! 蓄光石とほかの明かりを持って参ります!」
彼は木段を下りて家へ戻っていった。しばらくして魔力で発光する蓄光石と、蝋燭を立てたランタンを持って帰ってきた。
エースは先に石の方を差し出し、魔力を流し込んで煌々と光らせた。
「この石は注いだ魔力の量に応じて輝き続ける性質を持っています。ソラ様は結界の外へ手を出していただいて……」
ソラが指示に従って結界の中から手を伸ばす。
「石をそのまま中へ持って行ってください」
エースの手のひらから石を摘み上げ、特に何も考えず内側へ持っていく。蓄光石は結界に接触した瞬間、バチンと大きな音を立てて宙に跳ねた。
「どぅわあ!?」
ソラが素っ頓狂な声を上げて祠の岩に抱きつく。スランとジーノも音に驚いて体を硬くしていた。エースだけは落ちてきた蓄光石をとっさに拾い、予想通りの結果に満足して頷いた。
「な、何だったの、今のは……?」
「おそらく石に込めた魔力が原因で弾かれたのだと思います」
「はぁ、なるほど? びっくりした……」
ソラはバクバクと音を立てる心臓を押さえて深呼吸を繰り返す。その足下にムクムクと太った雀がやってきた。
「あら、雀さん。人は無理だけど、動物は普通に通れるんだ?」
まん丸の小鳥は難なく結界の内側へ進入した。日の光が届かない祠の入り口までぴょんぴょんと進んで、顔を左右に振りながら暗闇の中に入ろうとする。直後、雀は怯えたように短く鳴いて飛び去っていった。
ソラが羽ばたきを追って空を見上げ、祠に視線を戻す。
「奥って何があるんだろう」
「そうしましたら、次はこれを」
エースがいそいそとランタンの窓を開け、マッチで蝋燭を灯す。それをソラが結界の外で手に取り、慎重に結界の中へと引き入れる。
ランタンは境界を通り抜けた。
「やっぱりだ!」
エースは満足げに目を輝かせる。謎の行動にジーノとスランは頭に疑問符を浮かべていた。ソラは実験の解説を待たず、ランタンをかざして祠の内部を照らした。穴の中を観察しようと身を乗り出し、そうかと思えば血相を変えて体とランタンを外に引き戻した。
「え? なん……? ちょっと待って。意味が分からん」
「ソラ様? どうされました?」
「いや、その……どう言えばいいのか……」
驚愕の表情で言いよどむソラにジーノが首を傾げる。ソラは口をぱくぱくとするばかりで言葉が出てこなかった。一連の様子を一歩引いたところで見ていたスランは、困っているソラからエースに視線を移して話を聞く。
「エース。お前は何か分かったことがあるみたいだね」
「はい。もしかしたら、結界に干渉できるかどうかは魔力の属性、またはその有無が関係あるのかもしれません」
「属性が?」
スランのほか、ソラも反応して先を続けるよう促す。
「先日の出来事でソラ様が光陰の二属性をお持ちだと判明しましたが、この世界の人間は誰もその二属を持ち得ないんです」
「例外は?」
「古くは聖霊族という種に固有の属性だったと聞きます。ですが彼らは千年ほど前に滅んでいますので、昨今の例外はないと言っていいと思います」
「そしたら、エースくんたちが持ってる属性って?」
「俺たちが扱うのは地水火風の四属性ですね」
「現在の基準だと、その四つと違う魔力があったら異世界人の証明になるってことか」
ソラの論を肯定しつつ、エースは目の前で起こったことをひとつずつ整理する。
「二属の魔力を持つソラ様は結界を無効化することができ、魔力を用いない角灯も問題なく通り抜けました。一方で、この世界の人間は結界を通れません。俺が魔力を込めた蓄光石も弾かれてしまいました」
「ですがお兄様、人間以外の動物も体内に微量ながら魔力を持っています。どうして彼らは結界を通ることができるのでしょう?」
「そりゃあ、アレじゃない?」
納得がいかないジーノに、ソラが素人のしたり顔で言う。
「単純に、この世界の〈人間〉だけが通れないのでは?」
「俺もその仮説にたどり着きました」
「マジですか。私のは結構テキトーだったんだけど」
「そうなると、なぜ我々のみが拒まれるのか気になります。結界の構造以外にも、何か目的があって拒絶している可能性も……」
「そもそも自然結界って誰が作ったの? 軸にいるっていう神様?」
ソラの疑問にはスランが答えてくれた。
「この地方ではそのように伝えられています。過去には魔法院も聖域を調査しましたが、触れることさえ敵わないため成果のないまま打ち切られました」
「解明できない世界の神秘……ありますよねそういうの。超古代文明ってやつ」
ソラはウンウンと頭を上下させ、祠の入り口に目をやった。ランタンを掲げて穴の奥を照らし、身震いする。
「となると、この祠の中もそういう人知を越えた領域なのかもしれません」
「どういうことです?」
「穴に蓋がしてあるみたいなんですよ」
振り返ったソラは結界の外にいる三人にその入口をよく見るよう仕草する。スランたちは境界のギリギリまで近づいて目を凝らし……揃って首を捻った。彼らはソラの言わんとしていることがいまひとつ理解できなかった。
ソラはしばし考えたあと、手元を指して言いにくそうに口を開いた。
「エースくん、この明かりが引っかけられるものを探してもらえる?」
「枝などでよろしいですか?」
「ランタンの重さを支えられるなら何でも大丈夫です」
「分かりました」
エースは辺りを見回して、ソラから見えないよう腰の影で剣を抜き、サッと振り上げて頭上の枝を切り落とした。刃を素早く鞘に収め、細かい枝を折って形を整えてからソラに手渡す。
ソラはランタンの持ち手を先に引っかけて祠に向けた。
「無作法でよくないと思うんですけど、さすがに自分の手を突っ込むのは怖いので。今回は目を瞑ってください」
ランタンを穴の中に差し入れる。
通常であれば、蝋燭の火は影を照らして洞窟の壁を明らかにするはずだった。しかしランタンはまるごと闇の中に飲み込まれ、見えなくなった。
「角灯が消えた? 暗いのは日の影ではないのですか?」
「違いますね。真っ黒な綿が洞窟いっぱいに詰まってる……みたいな?」
ソラは枝を大きく上下させる。
「だからって綿をかき回すような手応えもなくて。ここに入って調べてみる勇気はさすがにないかなぁ……」
ソラは眉尻を下げて情けない顔をした。元の世界に帰れる確証があるならまだしも、得体の知れない空間に入って出られなくなったのではたまらない。この世界へ来る際に一度通った道とはいえ、その歩みは夢のような心地で曖昧としていた。今となっては夢うつつの内容もほとんど思い出せず、中に地面があるかも定かではない。
「内部の探索は無理そうです」
この闇は未知の神秘に満ち満ちている。
ソラは怖じ気づいてランタンと一緒に結界の外へ出た。この調査により彼女は帰還の希望をひとつ失ったわけであるが、意外なことに落胆することはなかった。
帰りたいという気持ちがどうにも薄いのだ。
ソラは自分の心理状態を把握しかねて怪訝な顔をする。
「……そろそろ戻りましょうか」
ソラからすれば残念な結果だったが、敬虔たるジーノは聖なる場所を暴かれる心配がなくなって胸をなで下ろしていた。スランも同様の安堵を抱いて顔をほころばせる。
「そうですね。私も少し冷えてしまいました」
「じゃあ俺はもうしばらくここで観察を――」
「お兄様も戻りましょう、ねっ!」
「いや、でもほら、ジーノ。暗闇の謎が」
「謎ではありません神秘です」
「そんなぁ……」
ぼやくエースの両脇をジーノとスランが抱え、ずるずると引きずっていく。ソラも三人に続いて教会へ戻ろうときびすを返した。
祠への興味を失った彼女の背に穴の中から、「……」。何か聞こえた気がしてソラは髪を乱して振り返った。
そこには誰もおらず、動物の影もない。
「空耳、だよね……」
背筋に寒気を感じながら、彼女は駆け足になってジーノたちのあとを追った。