2‐4 私はまだ死んでない
程良く温まったソラたちが風呂を出ると、少年たちの騒がしい声が聞こえた。彼らはラウンジの暖炉前に陣取り、頭をがさがさとかき回していた。指が髪を梳くたびにうっすらと周囲に湯気が立ち上る。エースも長い髪を根本から毛先へ丁寧に撫で……四人は火と風の魔法を組み合わせて濡れた髪を乾かしているのだった。
「エースお兄ちゃん。私の髪も乾かして~!」
「わ、私も。お願いしたいのだけど」
「いいよ。こっちへおいで」
「はーい!」
少女二人は軽快な足取りでエースのもとへ走る。ソラとジーノは近くのテーブルから椅子を持ってきて、男子たちの隣に座った。
カムが膝に頬杖をついて呆れたような顔をする。
「まったく。ユナ姉もミュアーも自分で乾かせるくせに。甘えちゃってさ」
「エースくんはモテモテなんですねぇ」
「兄ちゃんは魔力の操作が上手いんだ。乾かしてもらうと髪の毛がツルツルになるらしいよ」
「反対にジーノねーちゃんは威力ばっかで魔力の調整は下手くそだから、ソラねーちゃんも髪の毛燃やされたくなかったら頼んじゃ駄目だぜ」
「セトル。ここにソラ様がいなかったら貴方の頭を丸焦げにしているところですよ」
「そういうとこ。ブッソウなんだよなぁ」
そんな会話を楽しみながら、ユナの髪が乾き、ミュアーの番も終わって、エースはジーノの髪に手を伸ばす。いつもそうしてもらっているのだろう、乾かされる方も慣れた様子であった。美男子が美少女の髪を取って丁寧に梳く姿は一枚の絵画を切り取ったかのように美しい。
眩しさに目をつぶるソラを、少し離れたところからミュアーがうかがう。
「ねえ、ソラも魔物に襲われたことがあるのかしら? ほっぺたにも傷があるし」
少女の何気ない言葉にエースの手がピタリと止まった。
ミュアーは皆の目を構わずに先を続ける。
「貴方の胸の傷、どういう経緯でついたものかは知らないけれど、そうやって治っているんだから。痛い思いを耐えて、頑張った証拠だと思うの」
「頑張った証拠? そんなこと言われるのは初めてだなぁ」
「少なくとも、誰かに恥じるものではないわ」
実を言うと、ミュアーは脱衣所での一件からソラの態度が気にくわなかった。どこか苛々しているような仕草で少女は腕を組む。いったい何が気に障ったのか見当もつかないソラは、子供の無遠慮な質問にぶっきらぼうな声で返した。
「アー、胸のは別に怪我じゃないんだ」
「どういうこと?」
「……これは病気を取り除いた傷跡。だいぶ悪くなってる部分があって、それを切除したの。放っておけば命に関わるものだったから、まぁ仕方なくね」
ミュアー以外の目が悲しみの情を浮かべた。
ああ嫌だ嫌だとソラは投げやりになる。
「これ以外にもいろいろあってね~。歩けば転ぶし、階段から落ちて骨折もしたし、泳げば溺れて、ナマモノには必ずと言っていいほど当たり、年に一度はインフル……ひどい風邪を引く。開いた穴には全部落ちてきたような人生だったのです。ホント生きてるのが不思議なくらい」
「卑屈ねぇ、貴方」
「そうもなりますって。でも……、悪くはないでしょ。生きてるんだから」
笑うこともできないソラに、ミュアーが不快を露わにする。彼女はソラを見ていると、昔の自分を思い出してしまい恥ずかしくてたまらないのだった。羞恥を遠ざけたい気持ちが棘となってソラに向く。
「貴方みたいに向上心のない人、あまり好きじゃないわ」
「え~? そう見える?」
「何か具体的な目標を作ればいいのよ。そうしたら、そのヘナヘナした態度も少しはまともになるかも」
「好き勝手言うねぇ、キミ」
ソラは何となしにミュアーの心情を察した。
二人はその原因こそ違えど、命の危機を乗り越えた者たちだ。体に傷を刻み、それでも生きている点では同じ経験をしたと言えよう。片や、ミュアーは過酷なリハビリを経て、足の不自由を回避した経験を持つ。苦痛を伴った過去は彼女の精神を子供ながら強靱に育てた。それゆえに、似た境遇にあるソラがふてくされる心理が理解できない。
子供にできて大人にできないわけはない。ミュアーはソラに腹を立てていた。
むろん、ソラも彼女の物言いに苛立っていた。自分の成功体験を当然のごとく他人に求めるのは子供の発言といえども理不尽だ。ソラは面倒くさそうにミュアーを見る。少女はそれを真正面から見つめ返した。
取り残された周囲は空気が張りつめるのを感じていた。そのうち取っ組み合いのケンカでも始めそうな二人に気が気でない。
じっとりと陰湿な緊張感が続き……、
ソラが先にミュアーから視線を逸らした。
「十年後も生きていたい、とは思うよ」
消え入るような答えを聞いたミュアーは勢いよく立ち上がり、ソラの真ん前に立つ。少女は容赦なく気にくわない女の頬をつねった。
「そうやってジメジメやさぐれてても得することなんて何もないのだけど!?」
「イッ!? 痛いってミュアーちゃん!!」
「貴方だって分かってるはずよ」
べしっと投げ捨てるように頬を離し、ミュアーは腰に手を当てて偉そうにたたずむ。
「目標っていうのは、しゃんと顔を上げて宣言するものなの! 前を向いて、未来への希望を持ってね」
「イテテテ……、未来ねぇ。希望なんてあるのかな」
「あるに決まってるじゃない。貴方は今も生きてるんだから」
「それはその通りなんですが……」
痛む頬を押さえてミュアーを見上げると、彼女は鼻筋にしわを寄せて涙を堪えるようにしていた。両手をゆっくりと上げ、ソラの頬を優しく包んで額を寄せる。
「貴方はまだ死んでない。そうでしょ」
「……ッ」
ソラは刺すような頭痛に息を詰まらせた。どこかで見た光景が白紙のまま頭に再生され、声も姿も聞こえないのに、誰かに同じ言葉をかけられたような……。結局のところ何も思い出せなかったが、それでも胸に温かなものを感じた。
ソラはミュアーの手に自分のそれを重ねて目をつぶる。
子供に諭されるとは情けない。そう思って、現在の有様を情けなく感じるだけのプライドがあったことに驚く。自尊心など、自己愛と意地で煮詰めて溶かしたものと思っていたのに。案外、そうと決めつけて諦めていただけだったのかもしれない。
実際その通りで、ソラは誰にも本心を言わず独りで勝手にくよくよしていただけだった。癪に障ったなら「その目をやめろ」と怒ればよかったのだ。何も言わずに心中を察してほしいなんて、ずるいにもほどがある。
彼女はミュアーの手を握り、目を開いた。
「いかんいかん。これじゃあ私の方が子供だ」
「あら、やっと気づいたの?」
「キミって本当に、かなりムカつく」
ミュアーが手を引き、ソラを立ち上がらせる。
「さっきよりはマシになったかしら!」
「だといいんですけどね。……まあ、私もミュアーちゃんに追いつけるよう頑張ってみるよ。少しずつだけど」
いつか終わる日に、どう死にたいか。
脳裏にこびりつくこの問題を棚上げすることは難しい。それはきっとこれからもソラの頭に居座り続けるだろう。だが、ここにきてその前席に「終わるまでにどう生きたいか」という問いが腰を下ろした。
自分はまだ死んでいない。
そう思っているのなら、まずは終わる時よりも命ある時間について考えるべきなのだ。その答えが導く先にこそ、望む死に様があるはずだ。
ミュアーもそんな深淵までは見透かせなかったが、少しは生き返った顔つきのソラに会心の笑みを浮かべた。
「フンッ、仕方がないから待っててあげるわ。急いで駆けてらっしゃい」
「そうする~。けど上から目線はやめていただけませんかお嬢様」
「これが素なのよ。ごめんあそばせ」
「貴方いつか友達なくしますよマジで……」
傍目に仲直りをしたようには見えないが、少なくとも二人の間に漂っていた危うい雰囲気は収まった。暖炉を囲みながら凍えかけていた他六名は心底ホッとして胸をなで下ろしたのだった。




