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私がそれを望むから ―終わりの魔女と死の聖人―  作者: 未鳴 漣
第四章「そして憎悪が果てるとき」
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14‐9 嘆き

 エースは力をなくした。


 地面に膝をついて全身をこわばらせ、細い声を紡ぐ。


「俺は弱い人間です。そんなだから、許されない罪を犯した」


「……そうだね。それはキミが一生、背負わなければならない。過去の過ちだ」


 そうやって肯定されることをエースは心の奥で喜んだ。


「俺は誰かに恨まれていたかった。それが正しいと思った」


 エースは妹の姿を見上げた。笑みを忘れた顔は己を嗤う表情さえ作れず、「すまなかった、ジーノ」。快活だった幼い頃の面影など欠片もない、見たことのない不格好な兄にジーノはたじろいた。


「俺は本当に愚かで、結局のところ俺が全部悪くて、こんなことを言う資格がないのは分かってる。けど、それでも……!」


 堪えることができずあふれた涙が雨粒と一緒に頬を伝う。


「俺はっ、あの日々を許せない! 俺を壊したあの女が許せない。今だって思い出すだけでどうしようもなく憎悪がわき上がってくる!」


 それは自分を責めてばかりいたエースが初めて口にする、最初で最後の憎しみだった。


「あ、ああの、あの女の、言葉は。実に巧妙だった。細い針をゆっくりと爪の間に刺すように、じわじわと。どう言えば俺が自分を責めるか、そういうくる、苦しめ方を、痛めつけ方をよく知っていた。彼女はいつしか僕に目もくれなくなったけど、今度はジーノに目を付けたと気づいた。僕はジーノに同じ思いをしてほしくなかった!」


「キミは、妹が何より大切だったものね」


 ソラの声が降ってきて、エースはわずかに正気を取り戻す。


「……ですが、俺のやったことは間違っていました。俺は結局、妹を守るためと言いながら、自分の憎しみをぶつけただけだった。俺はこれからもずっと、許されてはいけない。本当に、後悔してるんです。もっと他に、何か別の。解決する方法があったはずなんだ……」


 エースは両の拳を瞼に押しつけ、声もなく泣いた。ジーノはうろたえて、残酷なことを問うた。


「それなら、なぜ……どうして貴方はお父様に助けを求めなかったのですか。ケイ先生に相談すれば、もしかしたら」


「できなかった!! そんなこと、あの時の俺にはできなかった!!」


 これまで聞いたこともなかった怒鳴り声を浴びせられ、ジーノは心底驚き、恐怖を覚えて半歩下がった。半狂乱だったエースは砂利のきしる音で妹を怯えさせたことに気づき、今更になって取り繕うような身振りをした。


 髪をかき回し、濡れた手で頬を覆い、無理やり口をつり上げて釈明する。


「ご、ごめん。ごめんなさい。もう随分と気が弱ってたんだ。毎日が地獄だった。吐き気と共に目覚めて、悪夢を見ながら眠る。その繰り返し……。お父様や師匠の優しい言葉にさえ、何か裏があるんじゃないかと……微笑むその口でいつか僕を痛めつけようとしていると……そんなことないのに……分かってるはずなのに、どうしても想像するんだ。そんな自分がたまらなく嫌だった。醜いと思った。俺は心底、自分が嫌いだった。死んでしまえと思った。けれどその決心はつかなかった。何て無様で情けない。日々はまるで沼の中で泥を食いながら溺れるような苦しみだった。死んだ方が楽だと思えるほどの……。助けてほしかった。連れ出してほしかった。でも、助けてなんて言えなかった。僕が悪いから。僕が弱かったんだ。分かってる……勝手に自分一人で抱え込んで。俺が全部悪いんだ」


「それは違う」


「嘘だ!!」


 さっきは肯定してくれたのに、打って変わって自分を否定してくるソラにエースは思わず声を荒げた。


「違うなんてことあるはずない!」


「いいえ、違う。助けてと声にできなかったことが、悪かったなんて。そんなの絶対に違う。ひどいことを言われたのも、キミに原因なんてなかった」


 ソラはエースを見つめる穏やかな視線をそのままジーノに移した。


「キミならよく知ってるはずだ。キミのお兄さんは、とても優しくて、人の悪口を言ったりなんて、しない子だった」


 そこに現れた、善人の仮面を被った悪魔。母親役のいない家にやってきて、見かけだけはその立場に納まったのがあの女だった。


「ジーノ」


 かつての兄を思い出してほしくて、ソラは諭すような声色で問いかけた。


「キミにとって、あの教師はどんな人だった?」


 ジーノは子供のように頼りない兄を見つめ、促されるまま当時を思い出す。


「先生、は。私にとって、母のような人でした。あの人が私にひどいことを言ったことは一度もない。いちども……」


「……お兄さんは、キミと同じように先生を慕っていた?」


「それ、は……」


 そのはずだ。けれど確信がない。自分が慕っていたのなら兄だって同じはず。それなのに彼は嘘をついた。


「私はしっていました……。おにいさまの笑顔がくもるのは、必ず、先生の授業の後だった。きづいていたのです……。だから」


 ソラが夢の中で見た光景をジーノも思い出しているのだろう。彼女は兄を心配していた。


「だいじょうぶかと……ジーノは、おききしたのです……」


 その時、兄は妹に心配をかけまいと微笑んだ。少女はそれが嘘だと気づいていた。どうしてそんなことを? 本当の気持ちを打ち明けてくれたらよかったのに。


 そう考えたジーノの脳裏に兄の慟哭がよぎる。


 ――そんなこと、あの時の俺にはできなかった!!


 ジーノは胸の奥が苦しくなって、息がつらかった。もしかしたら彼は妹さえも信用できなくなっていて、嘘をついたのかもしれない。それほどまでに彼の心は壊れていた。人を信じようと努力しても、心の奥底では信用できない。


 そんな自分が大嫌いで、死んでしまえと思うほど追いつめて。自分で自分の死を望むなど、どれほどの苦しみか。


 ジーノは自分の胸を刺す痛みに顔をしかめ、かつてそれと同じ感覚があったことをついに思い出した。


「い、一度だけ。心がチクリと痛んだことがありました。あれは、私がお兄様と違って問題をうまく理解できなかったとき……。難しい教本の内容が分からなくて、先生に助けを求めた、のに……」


 あの女は、「こんなことも分からないなんて」。吐き捨てるように、蔑む瞳で見下し、小さな子供を嗤った。


「わ、わたし、恥ずかしくて、自分が情けなくて。あの人を失望させたくなくて、私は……っ」


 現実に聞こえる雨音が記憶を導く。


 季節は長い冬を終えて、雪が降ることもなくなった。鬱々とした雨の中で営まれた野辺の送りは陰気が満ち満ちていた。


「あの人が亡くなったあと、棺の中で目を閉じる顔を、見て。私の頭にはそのとき味わった恐怖がよみがえった」


 死体となった女が起き上がり、目をカッと開いて、青白い顔を醜く歪めて軽蔑の眼差しをジーノに向ける。そんな光景を想像して、丁重に葬るべき死者をまともに見れなかった。


「でも、あの人はもう二度と目覚めなかった。あのまとわりつくような視線が私に向くことはなかった。それに心から安堵したのを……わたし、は。おぼえて……」


 ジーノが一歩引き下がり、ソラの手から短剣が抜ける。血の滴るそれは取り返しのつかないことをしてしまった証拠だった。ジーノの手は震えて、すぐにでも投げ捨ててしまいたい衝動に駆られた。


 彼女は大きく呼吸を繰り返し、自分の行動を律する。そうしているうちに涙があふれてきた。


「お兄様……。貴方はなぜ、この短剣を……?」


 人を殺したわけでもないジーノでも、持っているのが恐ろしいというのに。兄はどうしてこの狂気をそばに置き続けたのか。


 エースは放心状態で答えた。


「自分の愚かさを、忘れないため、……本に挟んだ。昔は毎日のように見て戒めとしていた。そのうち、本の背表紙を見るだけでも胸が潰れて、自分が死ぬ夢を見るようになってからは見る必要もなくなって……。だから、ジーノが持っていたなんて気づきもしなかった」


 罪はエースの一部になっている。仮に償おうとも引き剥がすことはできない。彼はおそらく死ぬまでずっとこのまま、変われない。ソラはそれが痛ましくて、悔しくて。そうなるとやはり、あの女への殺意が増すのだった。


 ジーノもまた、兄のゆがんでしまった人格を深刻にとらえていた。


 未だに呆然とするジーノにソラが最後の問いを投げかける。


「キミは、何で私に嘘をついたの」


 ジーノは答えようとして息を吐き、つばを飲み込んで、


「言え、……ない」


 声を枯らし、短剣を強く握りしめる。


 愚にも付かない勘違いをもとにジーノが思い描いた復讐は甚だ粗悪な妄想だった。しょうもない無稽を信じて、大切な人を傷つけてしまったこの過ちを免じる機会など、自分に与えられてはならない。


 少なくとも、今は駄目だ。


「言えば、貴方は私を許してしまうから」


「そう……、かもね」


 ソラは観念したようにうなずき、バランスを失った。

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