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私がそれを望むから ―終わりの魔女と死の聖人―  作者: 未鳴 漣
第四章「そして憎悪が果てるとき」
138/168

14‐8 醜悪

 ジーノは灰色の空を見上げ、いつ雨が降ってくるかと待っていた。ここは暖かで、草木が香り立ち、湿気を吸った髪がいくらか重く感じる。


 もう理想を裏切ってもいい頃合いだ。いい子のふりをやめて、無知で無垢で愚かな笑顔を裏返し、凄惨で醜悪な本心を露わにして。信頼を壊して「あの人」の大切なものを奪うのだ。尊き者をゴミのように切り捨てて、憎いあの人の前で自らの喉を突き果ててやる。


 そのつもりだった。


 ガラッと古い滑車が溝を滑る音がしたので、ジーノは聞こえた方に顔を向けた。そこにいたのはいつになく険しい表情のソラだった。戸惑うエースを連れてこちらへ向かってくる。


 ソラが何のために兄を連れてきたか、その目的は明白だった。


 ジーノは体ごとソラに向き直った。右手を後ろに隠して、垂れ下がった前髪の間から青い目で睨みつける。


「全てお気づきになったようですね」


「あいにく、今さっき知った話じゃないんだ。キミの嘘は」


「以前から察しがついていたと?」


「まずね、聖人の運命は分かってたよ。エースくんの記憶を見たそのときから」


「嗚呼……軸の麓で祈りを捧げるなんて、ひどい出任せでした」


「本当に。最悪のデタラメだった」


 ソラの同意が得られて嬉しいわけでもなかろうに、ジーノはニコリといつもの可愛らしい笑みを浮かべた。


「貴方は私を責めますか」


「ぶっちゃけ、嘘をつかれたのはどうでもいいかな」


「まるで他人事のようにおっしゃるのですね」


「キミだってそうでしょ。世界を救って亡き両親に報いたい、だなんて。とんだ方便だ」


「心外です。実の両親の話を他人事だなんて――」


「顔も覚えてない相手に何を報いたいっていうの?」


 ソラはソルテ村を旅立つ際に覚えた違和感を思い出す。「私は今こそ、亡き父母に報いたい」と口にしたジーノに親を偲ぶ様子はなかった。彼女の言い様には既視感があった。家族の記憶をなくしたと知ったソラと同じで、最初からいなかったからこそ、喪失に悲しむこともない。


 何も感じていない、そんな声だった。


「もう、隠しごとはなしにしよう」


 ソラはジーノの真ん前に立ちはだかり、少女が後ろに隠し続ける右手を指さす。


「キミは今もあの短剣を持ってるんでしょ。彼の罪を証す、あの凶器を」


「それは以前にも、話すつもりはないと申し上げたはずですが」


「別にいいよ。私が一人でしゃべるだけだから」


 余りに自分勝手なソラにジーノがため息をついて折れる。彼女はおもむろに右手を露わにし、兄にもよく見えるよう錆びだらけの短剣をさらした。


「な、何でそれが……? どうして、どういうことなんだジーノ!?」


 エースが取り乱す姿を見て、ジーノは心なしか気持ちが軽くなった。想像通りの反応がいやに嬉しくて、彼女は短剣を胸の位置で握って語り始める。


「これを見つけたのは三年ほど前、お兄様のお部屋を掃除していた時のことです。棚の埃を払おうとしたら本を落としてしまって……」


 ページの間から滑り出てきたのが短剣それだった。ジーノも当初は十字の形をしたそれが何か分からなかった。しおりにしては厚みがあり、しかも錆が浮いて汚れている。とにかく棚に戻そうとしてまずは本を拾い、もともと挟んであったページを探した。錆が染み着き窪んだ箇所を見つけて、拾い上げた十字の何かを凹みに乗せる。


 自然と文章の一部が目に入って、その本に見覚えがあると気づいた。魔法の初歩を説くそれは、幼い頃に勉強を教えてくれた魔法院の学者が使っていたものだった。その瞬間、ジーノは十字のそれが何なのか理解した。


 学者が持っていた、魔法を使うための媒体。ジーノの杖と同じ魔鉱石を柄頭にはめ込んだ短剣だ。柄と明らかになった部分には、小さな左手が逆手に握った痕跡があった。


「ソラ様のおっしゃるとおり、私は両親の顔を覚えていません。肖像の一枚もなく、記憶に残っているのは泥が流れていく様だけ。残念ながら……本当に申し訳ないことに、両親に報いる根拠は私の中にない」


 その胸にあったのは別の人物への思いだった。


 ジーノは腹の前で短剣を両手に構える。


「私は……お兄様を憎んでいた。先生を殺した、貴方を!!」


 一心不乱、ジーノは実の兄に切っ先を向けて突進した。


 ソラはジーノと対峙すると決めてから、もしかしたら起こるかもしれない妹の凶行を止める気で、エースとの間に身を置いていた。短剣はソラの腰を横切って、背後のエースにねらいを定めていた。その軌道をどうやって阻むか。


 ソラは腕一本で自分に課した役目を果たした。


 錆びた切っ先を手のひらで受ける。ただそれだけで、短剣の鍔が邪魔をして進めなくなった。


 刃は手を貫通し、血が滴った。痛みはない。


「これで、気は済んだ?」


 ソラは刺された傷よりも胸が痛かった。もっと上手く和解させることもできただろうに、互いに深く傷つく道しか選べなかったのが腹立たしい。


 ジーノは一歩も引かず、悔しそうにソラを見た。


「なぜです、ソラ様。どうして貴方が庇うのですか」


「私は、彼の記憶を見た。悲しみと苦しみで、喜びを塗りつぶしてしまった、それを。だから決めてたんだ。何があっても、この子を愛するって」


「ですが、この人はっ!」


「ねえ、知ってた? それはキミに対しても、同じなんだよ」


「何を言って――」


 ソラは胸の痛みを押しのけて短剣の柄を握った。そのままジーノを引き寄せ、耳元で頼む。


「彼が人を殺した。それは事実だ。偽ることは、決して許されない。だけど……キミのこれは、収めなさい」


 そして肩を張ってジーノを押し返し、その視界からエースを隠す。


「犯した罪に向き合えるのは、本人しかいない。もしも……キミが、法の番人だというなら、定めに従って、裁きを下すことも……許されるだろう。けれど、そうじゃないなら。当事者以外は、罪の償い方に口を出すべきじゃない」


 ソラの後ろでエースが拳を握って耐えていた。学者から受けたひどい仕打ちを告発するでもなく、結果として犯した罪だけを抱えて小さくなって。


 そんな兄の態度にジーノは激昂する。


「では私はどうすればいいのですか!? この気持ち……! あんなに優しかった兄が……、大好きだったのに! まさか人を殺めた罪人だったなんて!!」


 ジーノが身動きするたびに傷が抉られる。しかしその手を差し出しただけの成果はあった。ソラは気の抜けた声で笑った。


「ははっ……、ようやく聞けた」


「何ですって?」


「キミの本音。心の底で思っていたこと。誰に絶望し、どうして憎んだか。やっと言ってくれた」


 この期に及んで喜色を浮かべるソラが薄気味悪い。ジーノは先ほどまであったはずの強い衝動を削がれ、及び腰になった。


「キミは、大切な兄が自分の理想と、違ったこと。それが嫌で腹を立てているんだ。何であんなことをしでかしたんだって、怒りにも似た疑問。それを憎しみと、取り違えてきた。この三年間、ずっと」


「そんなこと!」


「キミはあの学者を少なからず慕っていたね」


「……っ」


「だけど、気づいていたはずだ。お兄さんが苦しんでること」


「そんなの知らない!」


「いいや、知らないわけがない。キミだってお兄さんと同じ、優しくて敏い子だった。だからあの時、彼に聞いたんでしょう」


 ――おにいさま、大丈夫ですか? と……。


 幼い少女は兄を心配してそう尋ねた。兄は力なく「大丈夫」とだけ答えた。かつての兄は向日葵のように明るく笑っていた。闊達な性格で、思いやりがあって根気強い人だった。嘘をつかず、妹を何より一番に考えてくれる優しい人だった。


 ソラは上半身をひねり、背後で子供のように小さく固まるエースを見やった。


「ねえ。事実も、真実も、言わなきゃ伝わらないよ」


「……」


「エース」


 ソラが横にずれて、エースをジーノと向かい合わせる。


「これを逃したら、もう分かりあえない。キミはそれでいいの?」


 ついに雨が降ってきた。冷たい雫が首筋に落ちて、冷や汗のように伝う。背筋が凍る嫌な感覚が体温を奪っていく。

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