2‐1「暗い扉」
あの日から、何もかも手放してしまった。
以前からすれ違うことが多かった恋人と別れた。会社を退職して一人になった。身軽になったと言えば聞こえはいいが、他人とのつながりを切っていっそう孤独になった。
どんな気持ちで日々を過ごしていたか、思い出せない。
気分が沈み、感情がうねりを失い平坦になっていく。記憶を引き出すほどに心の空虚が大きくなって、何もかも無価値に見えてくる。
だから捨てたのだ。欠損を埋め合わせた上で精神の整合性を保つため、知らず知らずに自分を偽った。
希望を失って失望だけが胸に残った。
悔しいけれど、もう元には戻れない。自分以外への執着が薄らいで、己の死以外に執心するものがなくなっていく。
命が永遠でないのは当たり前のことで、いつか終わりがくることも分かっていた。けれどそれは遠い未来の話だと思っていた。だが、「それ」はすぐ後ろに立っていた。背後に寄り添い、離れず、影からじっとこちらを見つめてくる。
「……様、……。起きて……」
幸せでありたい。苦しみたくない。つらい思いはしたくない。
幸福に、悔いなく。そんな風に死ぬためにはどうしたらいいのか。
まだ分からない。分からないまま死にたくない。死ねない。
意義なく、価値もなくただ死ねるわけがない。
もがき、あがいて。心の底に仄暗い炎が燃え立つ。
「ソラ様、起きて下さいまし。朝食のご用意ができています」
苦悶の表情を浮かべる女はうなり声を上げてベッドから転がり落ちた。
「ソ、ソラ様? 大丈夫ですか?」
「誰? うるさい……」
彼女は不機嫌な様子で返事をした。巻き込んだ毛布からもぞもぞと這い出て、爆発と表現して差し支えない髪の毛をかき回し、口をひしゃげながら辺りを見回す。
寝ぼけた眼が次第に正気を取り戻し、髪の毛をくしゃくしゃにしていた手を下ろした。女は目頭を指の腹でこすり、次いで眉間のしわを伸ばして口元に気まずい笑みを浮かべた。
「お……おはよう、ジーノちゃん。朝っぱらから嫌な態度でごめん。ちょっと夢見が悪くて……」
「おはようございます。どうぞお気になさらないでください」
ソラはジーノの手を借りて床から立ち上がった。
「起こしに来てくれたんだよね。これから朝ご飯ですか?」
「はい」
「昨日お夕食をいただいたのと同じ部屋かな」
「そうです」
「ちょっと待ってね、すぐに着替えちゃうから」
いそいそと布団を片づけ、部屋に備え付けの洗面台で顔を洗い、昨日と同じ服を今度は一人で着付ける。ジーノに見守られつつ、ソラは慌ただしく身なりを整えて居間へ向かった。
朝食は簡単なもので、野菜の盛り合わせとスクランブルエッグ、キノコのスープとパンだった。ソラはそれらをありがたく平らげ、後片づけをするジーノを手伝った。その間にスランは見回り仕事、エースも村の保全作業に当たる準備をし、二人はキッチンにひと声かけて家を出ていった。
ソラは今日もジーノと一緒にどこかをフラフラするのかと思っていたが、
「では、ソラ様。私は聖域のお掃除に行って参ります。しばらくお一人にさせてしまいますが、できる限り早く戻りますので。居間でおくつろぎください」
などと言われて放置されたのであった。
玄関で手を振りジーノを見送ったソラはポツリとつぶやく。
「昨日会ったばかりのよそ者をこんな伸び伸びさせていいのだろうか」
あまりに人が良すぎて心配になる。閉まったドアから体を翻して、日中でも暗い廊下の先まで眺めた。
とにかく居間で大人しくしているのが吉。最も迷惑をかけない行動だろう。
ソラは廊下を戻り、暖炉の前までやってきてソファに腰を下ろした。薪がチリチリと鳴く音に耳を澄ませ、だらしなく足を延ばして昨日の出来事を振り返る。
「……」
そのうち浅く眠ってしまい、薪が爆ぜる音で意識を取り戻した。口の端を拭い、怠惰を極める自分の頬を叩く。ジーノはああ言ってくれたが、こうして無為に彼女の帰宅を待つのも所在ない。ソラは廊下に出て小さな窓から外を覗き、降雪がないことを確認する。
「ちょっと辺りを探索してみようかな」
冬の山中で迷子になりたくないので、林に入ったりはしない。そう決めて昨日も借りたコートを着込んで外に出た。
風は昨日よりも強く吹き付け、髪を冷たく撫でた。頭部から体温が奪われるのを防ぐためフードを被り、ソラは雪を踏みしめながら礼拝堂の正面へ回る。すると麓の方から子供の声が聞こえたので、坂の上から村の様子を覗いてみる。
小さな人影が通りをちょこまかと走り回っている。
「子供もいるのか……」
「ソラ様?」
「うひゃいっ!?」
背後から声をかけられたソラは驚きのあまりその場で転んでしまった。フードの裾から見上げると、ジーノもソラの過剰な反応にびっくりしていた。
「申し訳ありません。まさかこんなに驚かせてしまうとは思わず……」
「いや、大丈夫。ちょっと大げさにしただけだから」
まるっきり嘘である。
素で足を滑らせたのが恥ずかしいソラはさっと起き上がり、フードを目深にして赤い顔を隠す。
「そ、それにしてもすごい雪だね。今は冬も真っ盛りって感じ?」
「ええ。この数年で夏がめっきり短くなってしまいましたから。もう一年の半分以上は雪の中です」
「夏が短くなる?」
「ここ北方では寒冷化が進んでいるのです。南は日照り、西は長雨、東は大小の地震が頻発しています」
「……スランさんが言ってた異常気象のことか」
それもこれも、魔女の呪いが世界に蔓延しているせいだという。ソラはエースに剣を向けられた場面を思い出して、少し気が滅入った。
「こんな状況だから、穢れを祓う聖人の再臨は人々の悲願だと」
「はい」
ジーノは何の含みもない様子で答えた。彼女はソラに聖人役を押しつけるつもりはないらしいが、その素質に期待する思いは少なからずあるはずだ。魔物のせいで両親が亡くなったのなら、なおさら。
頭をチクリと刺す痛みにソラは顔をしかめる。
うつむいた彼女を元気づけようとジーノが北の空を指さした。
「ソラ様! 見てください。あれが地の軸ですよ」
彼女の指の先に、蒼穹を刺し貫く白い条線が見えた。
それは雲の切れ間から差す陽の光線を細く束ねたような姿で、風の影響などを受けずピタリと空中に制止していた。ソラは元の世界とまったく異なる光景に感心する。
「そう言えば、聖域の祠は地の軸につながってるって話だけど、ジーノちゃんたちは中に入ったことある?」
「いいえ。祠の周りには結界が張られていて、残念ながら私たちは近づくことができませんから」
どんなに強力な魔法を使おうとも、決して破れない。それが誰の手によるでもなく自然に発生しているのだから、まさに神の御業というわけである。「聖域」と呼ばれるのも道理だった。
「そんなところから、私は出てきた」
「ソラ様は光の魔力をお持ちの方ですし、それで特別に通り抜けることができたのでしょう」
「ふぅむ」
そうとなればソラには確かめたいことがあった。
もしや、来た道を帰れば地球に戻れるのではないか。この世界の地軸が故郷につながっているとは思えないが、望まぬ異世界召喚に遭遇したなら、帰還を試みるのが普通の心理である。よってこの思考は卑怯でも何でもない当然の願望だ、などと前日から引き続いて言い訳をし、ソラは今後の予定に「聖域の調査」を加えた。
とはいえ、この土地の聖なる領域へ勝手に足を踏み入れるわけにはいかない。まずはスランに事情を話して許可を請うべきだろう。昼食の時にでもお伺いを立ててみようと考えていると、坂の下から駆けてくる足音が聞こえた。
白い息を煙のように吐きながら地面から顔を出したのは、昨日の魔物騒動でジーノたちを呼びに来た少女だった。勢い任せに前をよく見ず爆走してきた彼女は両手を広げ、なぜかソラに突撃した。
「お兄ちゃあああああん!!」
「ぐえ――ッ!?」




