1-11 思惑
脱衣所の戸を閉めてひと息ついたジーノの横に、エースが幽霊のようにやってくる。
「ジーノ」
「何でしょうか?」
「こっちへ」
彼は妹を礼拝堂へ連れて行った。静まりかえった堂内に扉の閉まる音が響き、前を歩いていたエースが髪を揺らして振り返る。
「ジーノ」
「はい」
「どうしてあんなことを言ったんだ」
「あんなこと?」
「聖人の役目が、軸の麓で祈ることだなんて……」
エースの声は震えていた。そんな兄からジーノは顔を背けた。
「ならば、お兄様は本当のことを言えるのですか」
「……」
「……両親のこと。よもやお忘れではありませんよね」
「まさか! そんなわけない。忘れるわけがない!」
「では、私の嘘を理解していただけるはずです」
「分かってるよ。分かってる。だけど……」
やるせない感情を手に握って、エースは唇を噛む。彼の耳に聞こえてくるのは雨の音だった。幼い頃、両親はエースとジーノを連れ、行商で各地を転々としていた。ある雨の日、山中の街道で魔物に襲われ、父が囮となって注意を引いている間に母が子供たちの背を押して逃がした。
直後、たった数歩離れた先で父母は魔物ともども土砂の流れに飲まれ消えた。斜面はかなり大規模に崩れ、どこを掘り返しても両親は見つからなかった。
「お兄様はお優しい」
ジーノの冷淡な声で記憶の再生が途切れる。エースはいつの間にか妹から目を逸らしていた。
「両親の唯一覚えている姿が泥人形のままだなんて」
妹の顔にこれといった感情は見えなかった。
凍った手で心臓を鷲掴みにされた気がして、エースは動けなくなる。
「私はそれが申し訳なくて堪りません」
「ソラ様を差し出せば、両親の姿がよみがえるとでも?」
「いいえ。けれど、……報われはします」
「ジーノはそれで平気なの?」
「平気です」
エースの目にジーノは平然として見えた。視界がだんだんと暗くなり、妹の姿が闇に溶けていく。彼はめまいがして、長椅子の背もたれを掴んだ。
「お兄様は違うようですね」
「そうだよ。とても平気じゃいられない」
ジーノはエースの手を取り、もう片方を重ねる。捕らわれた指から冷えた血液が上ってきて、それが肺までたどり着く前にエースは妹の手を振りほどいた。
「……貴方は、本当にお優しい」
まろやかな鈴のごとき声色。その吐息が冷気の中に消えていく。
「おやすみなさいませ。お兄様」
ジーノは呆然とするエースを残して自室に戻った。後ろ手にドアを閉め、正面の机まで歩いていって天板に両手をつく。
「父様、母様……」
その声に情はなかった。エースと違い、幼すぎたジーノは亡き両親の顔も、声も覚えていない。交わした言葉さえも分からない。
そんな彼女は引き出しを開け、骸を包むように白い布で覆われたソレを取り上げた。なめらかな繊維は端を摘んで少し広げると、自重で自然と解けた。
ジーノの手にあるのは鞘のない短剣だった。武器として作られたものではないため刃はついておらず、先端も丸く仕上げられており危険はない。とはいえ、力ずくであれば突き刺すくらいはできそうだった。
柄頭にあしらわれた透明な鉱物を撫で、ジーノはかつての姿を思い出す。持ち主の器にかかわらず格を引き立てる見事な一品――黄金の柄はいつどんな時も美しく輝き、刀身に彫られた唐草の紋様は剣を振るたびにヒラヒラと宙を舞った。今は切っ先から柄まで赤く錆びつき、装飾品としての価値もない。
ジーノは心の奥底に秘めたいびつな気持ちに蓋をして、哀れな剣を胸に抱き、「先生……」。乾いた目尻を指先でそっと拭った。




