10‐9 光陰の魔力
それから数日、宿借りの被害が新たに二件発生した以外は何事もなく、旅の行程は順調であった。今日はどうしても一晩だけ野営をしなければならず、これまでにも多くの旅人が夜を越した跡が残る場所へ来て、一行は馬の足を止めた。
簡易の魔物除けを設置するエースたちの一方で、東ノ国の二人も別に寝床を確保し、札を釘で地面に留めている。札の効能に興味を引かれたソラは杖をつき、敷物の上で一休みするユエのもとへ歩いていった。
ユエは敷物から立ち上がってソラを迎えてくれた。
「東ノ国の魔物除けは、やはり石ではなくお札なんですね」
「ええ。必要ないとは思うのですけど、万一に備えて設置しておこうかと思いまして」
「私たちのほかに騎士様の石もありますもんね。もしよければなんですけど、触ってみてもいいですか?」
「御随意に」
快く許してくれたユエの言葉に甘えて、ソラは札に指を近づける。しかし彼女は札に触れることなく、手を引っ込めた。
「お札もピリピリする。黒泥石もそうだし、何でだろう……?」
「それはソラ様の符力――やない、魔力が反発してますのや」
「反発している?」
「魔法も符術も、同じ属性は互いを嫌いますからなぁ」
「あ……」
それはエースの記憶でも見た、魔法の基本的な知識だ。ソラは恥ずかしそうに頬を掻き、上塗りになると知りつつ疑問を口にした。
「光陰の魔力も同じ関係なんでしょうか」
「そらまぁ」
「ということは、魔物除けの道具は陰の魔力が関係しているんですね」
ユエは目を丸くして、どうしたものかと眉間を揉んだ。危ない目にも遭ってきただろうに、魔法への理解が未だその程度にとどまっているとは、のんきと言って余りある。彼女は今後ソラに不利益が及ばないよう、少しばかり講義をしてやろうと思った。
コホンと咳払いをして居住まいを正し、ユエはソラに隣へ来るよう言う。ソラは左膝だけ正座を崩して敷物に座った。
「まず、この世界の生命が持つ魔力属性は大陸であれば地水火風、東ノ国であれば木火土金水に分類されます。対して、大地が蓄える魔力は光陰、我が国では陰陽に分けられる」
「光陰は大地の魔力、ですか」
「この星の表面を覆う固い岩盤の下には、炎の海が満ちていると言われておりましてな。光陰の魔力はその潮流に溶け込み、世界を巡っとるんです。その灼熱から地表へ沸き上がってくるもの、岩石や鉱物といった星の内部活動に由来する物質には光陰の魔力が含まれとるんですわ」
「つまり、黒泥石は星の内部から表層に産出したもので、陰の魔力を多く含む特徴がある……?」
「その通りです。東ノ国の結界札はそれを砕いて、陰の気に馴染む墨に混ぜて作ったものなんです」
「そういえば、町や村に張り巡らされてる糸も黒泥石の顔料で染色していると聞きました」
ユエはいつの間にか取り出した扇子で片手を叩き、口の端にわずかな苛立ちを震わせた。
「大陸さんでは魔物を、生き物の死骸が魔女様の呪いを受けた化け物であると認識しとりますな。まあ、その理解はおおむね正しいと言えましょう。魔物とはまさしく、陰の魔力を原動とする異形なのですから」
「なるほど。同じ属性同士で反発する性質を利用して、魔物を遠ざけているわけですか。魔女を恐れるくせに陰の魔力に頼って生活しているなんて、何だかいびつです」
「魔法院の連中がこのカラクリを明かさへんので、一般の方々は知らんまま使てるのですよ」
「忌むべき力が源ではあるけれど、魔物は寄りつかないし人間に害もないから一般には正体を伏せて利用してきた感じなんですかね。真実を明かせば世間の混乱は間違いなしですし」
「そないなところでしょうな。ほんに、大陸の皆さんは素直で聞き分けがよろしい」
扇子で顔を隠し、異国の巫女はホホホと声だけで笑う。ソラは野営の支度を進める大陸陣を振り返り、今はまだこの事実を言わない方がよさそうだと瞼を閉じた。
暗い視界の中で、ソラはひとつ気になる疑問を見つけた。
「それだと、もしも私以外に陰の魔力を持つ人がいたとして、握手とかはできないんでしょうか」
「光陰の割合にもよるかと思いますけど、完全に陰の気しかなかったら、触れるんは難しいやもしれまへん」
「……」
黒泥石に近づくと感じる指先の痛み。その感覚はあの時、カシュニーでナナシに手を伸ばした際にもあった。おざなりに差し伸べた手がチリチリと焦げるように痛んだのは、ソラの焦りや恐怖が感覚として表れたのではなかったのだ。
光の魔力同士が接触を忌避する触覚は確かにあった。
「だから、あの手を取ることはできなかった……?」
ソラは自分の額を小突く。そんな言い訳はいらない。彼女は何も掴まなかった自分の手に視線を落とし、力のない声で疑問を続けた。
「この世界の人たちはどうして他人に触れられるんです?」
「わたくしどもの持つ属性は同士で反発する一方で、ほかの属性を助ける性質があります。それらが渾然一体となり、体内で引き合う力と遠ざかる力とが拮抗して、人々は手を取り合うことができる……と考えられとります」
「相互に補助し合う性質があるからこそ、一人が複数の属性を有するんですね。光陰の魔力もそういう関係で共存できてるのかな……」
ソラは手を握って開いて繰り返し、「もうひとつ」と言って人差し指を立てた。ユエはそれを見ながら、眉を下げて困惑を表した。
「ソラ様、何も知らんとようここまで来ましたなぁ。ああいえ、周りが何も教えんかったんが引っかかるだけで、貴方様を責めてるわけとはちゃいますよ」
「それについては私も……こう言っては何ですが、性質がどうのとか興味なくて。陰の魔力は忌み嫌われていますし、そんな魔法ですから使うつもりもなくて、詳しく聞いたりしなかったんです。でも、ここまできたらさすがに知っておくべきかと思い、お尋ねした次第です」
「興味を持っていただいたのはええことです。それで、もうひとつ聞きたいこというんは何でしょう?」
「光陰の二属は四属の上位に当たると言いますが、エースくんたちは黒泥石に触れられますし、私とも普通に握手できたりします。そのあたりの関係性ってどうなってるんです?」
「上下の関係について、魔力そのままの状態であれば影響はあらへんのです。魔法や符術として――正確には媒体を用いて体外に発した場合にのみ、力関係が生まれます」
「そっか。魔力だけでどうにかなっちゃうなら、人間を含め動物はこの世界に存在できないもんな……」
ソラが杖の先で土を軽く突き、納得する。
「地上の生物が生きていけるんはひとえに、地面に根を張る植物のおかげでしょう。大地から栄養を得て成長するものは皆、吸い上げた二属の魔力を四属に変換する仕組みを持っとりますもんで」
「原初には二属だけしか存在しなかったのかもしれませんが、そこに芽吹いた小さな生命が何千万年と進化を繰り返して、人が生きられる今の環境が整ったんですね」
惑星の構造が地球と類似しているおかげで、ソラはその成り立ちをすんなりと解した。
「そういった見解がスッと出てきはるなんて、えらい驚きましたわ。ソラ様はこちらへいらっしゃる以前、何か学問を極めた御方でいらしたんですなぁ」
「へ!? いやまさか! このくらいのことなら大抵の人は普通に知ってると思いますよ……」
「はあ。普通にとは、また」
ユエがソラをまじまじと見つめる。
彼女はごく当たり前に、「世界」が人間のために用意された舞台ではないと知っている。全ては自然の成り行きで、偶然を重ねた結果たどり着いた先にたまたま人類が生き残ったという事実を受け入れている。
そういった論はこの世界において一般的ではない。人々は自分たち「人間」を中心に自然の不思議を読み取る。東ノ国はその成り立ちゆえに一端ながら世界の真実を知っているが、崇子と尊子の言い伝えがなければ、大陸他国と同じ視点しか持ち合わせなかったろう。
ユエが異世界の人間に出会ったのはこれが始めてである。東ノ国は数代に渡って崇子と尊子を捜索してきたが、ことごとく魔法院に邪魔され、成果を上げられないままでいた。
まともな志のない院がなぜ、こうまでして異世界の人間を管理下に置きたがるのか。ユエはずいぶんと疑問に思ったものである。
「そら、魔法院が欲しがるわけや」
異世界の素養はこの世界の遙か先を行っている。
ユエは夕食を作るジーノと小競り合いをしているセナに目を向けた。少年が腰に差す拳銃は試作や改良の過程を経ずに完成された究極の形だった。
何と忌まわしい鉄塊だろうか。
魔法院も発足当時は叡智を求めた純然たる学術組織だったが、独占した知恵は傲慢を助長した。膨張し続けたそれはやがて支配と権力を求め、己の手で他者を組み伏せることを至高の到達点とした。それだから、彼らは異世界の人間を道具のように使い潰すのだ。
やはり、と。ユエはつくづく自覚した。
自分は嫌いなのだ。義務を果たさずにのうのうと富めるこの大国が。
「必ずや、思い知らせたる……」
「ユエさん? 何か言いました?」
「いいえ~。何もございませんよ、ソラ様。そろそろお夕食が整うようですし、うちらもあちらへ参りましょ」
「そうですね」
異国の巫女が立ち上がり、魔女の手を取る。燃えさかる焚き火のもとへ導くその様は献身的で、他愛の鑑であった。




