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10‐7 こぼれる

 新しい衣装は袖を通すことでお値段を肌で感じることができた。触れる生地の感触が尋常でない心地良さで、羽のように軽く、何より涼しい。ソラは着替えを進めながら、「気にしたら終わり、気にしたら終わり」。価格を書いたタグが見あたらないのも空恐ろしくて、必死に暗示を繰り返した。


「どうだ、ソラ。着れそうか?」


「下に穿くズボンの裾が長いみたいで、引きずっちゃいます」


 ソラは脱ぎ散らかした冬服を部屋の隅に足で追いやり、カーテンを半分ほど開けて着こなしをケイに見せる。


「足りないよりはいいさ。ご主人、裾上げを頼めるか? 明日の朝までには仕上げてほしいんだが、追加料金はこのくらいでどうだろう……」


「はいはいはい、もちろんっ。承りますとも~!」


 店主は躊躇いなく引き受け、裾に定規を当てて調整する。五センチほど短く丈を直すことになり、ソラはズボンを引き渡すため元の冬服に手を伸ばした。脱ぎ捨ててあった衣類を山の上から順に着ていって、最後に上着を手に取ったところ、その下に誰かの忘れ物があった。


 それはジーノがいつも腰につけていた道具入れだった。暑さのせいでぼんやりして、置き去りにしてしまったらしい。ソラも最初は床など気にせず着替えに取りかかったため、今まで見落としていた。


「あのジーノちゃんが忘れるなんて、よっぽどだな」


 ソラが想像した以上に、クラーナ地方の気候は北方の人間に堪えるようだ。日本の高湿な猛暑を体験したら、本当に氷よろしく溶けてしまうのではないか。ドロドロのスライム状になった兄妹の姿を想像しながらソラは着替えを終え、ジーノの腰袋を拾う。


 しかしソラ自身も思いのほか暑さにやられていた。袋の口を閉じるためのベルトが外れていることに気づかなかったのだ。となればその中身は持ち上げた先からこぼれ、慌てたソラは手で受け止めようとする。言うまでもないが、落ちるそれらを空中で拾えるほど器用でない彼女は全てを試着室の床にぶちまけた。


「おあぁぁ……」


 ソラは情けない声を上げ、床に散らばったものを袋に戻し始める。貨幣を収めた財布と簡易の裁縫セット、予備の魔鉱石、エースが作った小型の発煙筒など、そそくさと仕舞っていく。


 最後に残ったのは刺繍が施されたハンカチだった。表面に波打つしわの形からして、それは十字の「何か」を覆い隠している。ソラはハンカチをそっと摘んで――、


 呼吸が止まった。


「何で、これが」


 めくった布の下にあったのは錆の浮いた短剣だった。刃長は十センチほどで、柄頭にはオーバルカットを施した石があしらわれている。ソラはそれと同じ物を見たことがあった。


「……」


 肉と骨を断った、あのときの感覚が手に戻ってくる。


 間違いない。間違えようもない。


 これはわたしが幼い頃に女学者を刺し殺した短剣である。柄には錆の強弱によって、小さな左手の跡が浮かび上がっていた。


 ソラは気を抜くと目が泳いでどこかへ行ってしまいそうだった。なぜこれをジーノが持っているのか。あと戻りできない危機感に胸をザワつかせ、彼女は短剣をハンカチで乱雑に包んで袋に押し込んだ。


 全身を映す鏡に視線をやり、口角を無理やりに上げ、いつもの腑抜けた表情を浮かべる。袋の口を閉め、直してもらう服を手に持ち、試着室のカーテンを開けた。


 外には着替えを終えたエースがいた。ケイが彼のために選んだのは、シンプルな丸襟の白シャツと同色のズボンだった。それだけなら生地の品質がいいだけの地味なクラーナ衣装だが、シャツの上には紗のような薄い生地で仕立てたベストを着けており、細いラペルのついた襟元が上品な紳士を演出していた。ベストの裾は長く、腰骨のあたりから両脇にスリットが入っている。振り返って背面はウェストをひとつの尾錠金で留め、清廉な純白を広く見せる作りであった。


 ソラはエースに「似合ってるね」と言葉をかけ、服を主人に預けてジーノのところへ歩いていった。うつむく彼女の視界に腰袋を差し出す。


「これ、試着室に忘れ物。ジーノちゃんのだよね」


「え……、ああ。すみません、どうにも暑さのせいでぼうっとしてしまって。ありがとうございます……」


 ジーノはあくまで平静だった。袋を受け取り、ベルトに通して腰に留める。ソラはその仕草を見つめるだけで、例の短剣を見てしまったと打ち明けることはできなかった。むろん、この問題を放っておくのは悪手だ。近いうちに二人きりになれるタイミングを見つけ、話を聞く必要がある。


 ソラの衣装替えを明日に持ち越し、形だけとはいえ巡礼者である一行は教会の宿坊を借りることにした。


 ところ変わって。


 湯浴みを終えたユエは寝台にストンと座り、隣のツヅミにもたれかかった。


「ようやくや、ツヅミ。これでうちも大手を振ってお国に帰れる」


「はい」


「問題は騎士さんの先約があることやけど」


「小さい方は案外、御しやすいかと思います」


「うちもそう思うわ。崇子様に対するあの嫌悪、どうやら魔法院の嘘を信じる典型的な大陸人のようや」


 ユエはせせら笑うように喉を低く震わせる。


「実際、あのわっぱさんにもつらいことがあったのやろうけどね」


「であればこそ、少し煽れば前のめりでこちらの計画に乗ってくるでしょう」


「アンタも悪いこと考えるわぁ」


 ユエは両手をついて尻の位置を横にずらし、上体を傾けてツヅミの膝に頭を乗せる。誰が相手でも表情のないツヅミはじっとして話を続けた。


「しかしそうなると、対の御方を見つけられなかった場合が気がかりです」


「それな、何や予感がするんよ。対の御人にもすぐ会えそうな。もしもの話、帰国の前にそちら様も見つけたら……」


「心得ております。その時は自分にお任せください」


「アンタはほんにええ子やで、ツヅミ」


 青年は使命を抱く。その忠実な仕草にユエが私意の強い笑みを浮かべた。


「手土産がふたつもあったら、さすがに大社おおやしろのお偉方も尻に火ぃつくわな。うっふっふ」


 ユエは目に大義を浮かべて窓の外を見た。ツヅミも彼女に従い、玻璃越しに風景を眺める。二人の目に映るのは、強大ながら堕落しきった国の町並みであった。


 彼女らには揺るがぬ意志があり、内に渦巻く情動があった。


「ええ、ええ、ユエ様」


 はるか以前に交わした尊き者との約束を果たす。そのためであれば自分の気持ちなど、如何様にも偽り通せる。


「己が悲願のため、死力を尽くしましょう」


 それはツヅミにしても同じだ。彼は滅私の青年に見えて、心の内に主人よりも利己的な人格を飼っているのだが、それを知る者はいない。

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