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私がそれを望むから  作者: 未鳴 漣
第一章「魔女になる覚悟」
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1‐1「彼方より来たる者」

 幕が上がり、「助けて」と声が聞こえて。それはこちらの台詞だと思った。


 冬のある日、蒼天の下。町を覆う雪が日光を白々しく反射して、景色はまるで真夏のように明るかった。天井から床まで白一色の部屋で医者が言う。


「残念ながら、■■です」


 差し出された紙面に並ぶ病名を、女は呆然と見ていた。声だけなら聞き間違いだと自分を騙せたかもしれない。だが、その事実を目に見て何度となく確認できる文字にされては疑いようもなかった。体の部位を表した模式図の一部に書き込まれた丸印をペン先で指し、医者は■■だと断言した。


「……」


 女は驚きのあまり言葉を失った。


 ついにここまで来たか……空いた穴には全て落ちてきた不運続きの人生だったが、よもやこんな大穴に落ちようとは思ってもみなかった。意外なようで思いのほか想定の内といえる終着点に、「はあ、そうですか」。やっとの思いで出てきた声は少し間抜けだった。


 本人の内心はさておき。体を蝕む病は切除こそできるものの、その広がり様から楽観はできないため、積極的な治療が必要とされた。費やされるのは時間と金、そして精神である。


 まずは職場に事実を報告し、休暇を取った。通帳を見れば金は十分にあった。ただひとつ足りなかったのは、心の余裕だった。


 先述の通り、この女の人生は空いた穴に全て落ちてきたような不運ばかりがあった。それをここでひとつずつ挙げることはしないが、降りかかった災難は彼女に苦痛と屈辱、そして多大なる敗北感を与えた。だのに彼女が今まで生きてこれたのは、同じだけの幸運に恵まれたからでもある。苦痛を伴ったが軽傷で済んだ、屈辱はあったがあとで見返してやった、敗北こそしたが目標は達成した、といった具合に。


 だから彼女は自分の身に起きたことを不運とは言えども、不幸ではないと思っていた。そうでなければ苦痛も屈辱も敗北も無駄になるだけなので、つまずきながらも顔を上げて前向きに生きてきたのだ。


 それなのに病名のひとつで女は目の前が真っ暗になってしまった。


 ――いいや、違う。


 本来の彼女であれば、どんな病気だろうと治療法がある時点で救いの手は差し伸べられたと考えるはずだった。そんな彼女の楽天主義を虚勢に塗り替えた正体はいったい何なのか?


 きっかけは些細な仕草だった。


 病状を打ち明けた相手に目をそらされた。瞳が哀れみを浮かべて宙をさまよい、まるで死ぬことが決まったかのように伏せられる。たったそれだけのことだが、思い出す限り誰も彼もそんな反応で女はうんざりした。


 体の一部を切り落とした喪失感を耐え、治療薬の副作用による吐き気を堪えて虫の息。そんな女の有様を見て皆の目が言う、「かわいそうに」。かわいそうに。まだ生きている人間をそうやって慰めるのだ。こちらは必死に生きようとしているのに。その目が当人をどんな気持ちにさせ、追い詰めるかも知らないで。


 被害妄想と言われても間違いはない。しかし、妄想もそれなりに人を生かす糧にはなる。実際に女も、他人の人生を勝手に終わらせるなと他責的な思考にすがり、わき上がった理不尽な怒りで生命に仄暗い炎をともした。希望を悲壮に、生の渇望を死への執着と変え、彼女は神経をすり減らしながら不健康に生きながらえた。


 そうして病の告知から季節が一巡し、さらに春を通り過ぎて夏を迎えた。いつかの冬と同じように……それともあの冬がこの夏に似ていたのか……太陽が輝く白々しい空の下。熱風になびく細い黒髪を片手で押さえ、女はぼんやりと前を見ていた。


 信号が青く点灯し、女を対の道へ呼ぶ。


 彼女はうだるような暑さに朦朧としながら、青い歩行者が招く側へ足を向けた。途中で、「……助けて」。どこからか少年の声が聞こえたが、気のせいだろう。辺りでは鼓膜を突き破らんばかりに蝉が鳴いているのだから。


 夏を彩る音が、今は頭に痛い。


 前髪の隙間からとらえた風景は降り注ぐ陽によって階調を失い、どこもかしこも真白く飛んでいた。平らな横断歩道を歩いていたはずなのに、感覚がおかしくなって足がおぼつかない。ついに暑さも分からなくなり、そうなると目を焼く白は雪景色のようにも見えた。


 自然と思い出すのは、一年と半年ほど前の冬。


 白一色の部屋で聞いた、耳を疑う告知。


 あのときの驚きが再び胸に戻ってくる。


 現実を離れてあやふやになった頭の中で、過去の一場面がぐるぐると回り、回る。灼熱の渦に巻かれて対流し、記憶が攪拌されていく。


 過去と現在が混ざり合った激流の中で、不意に思った。


 自分は果たしてこんな人間だっただろうか。もっと温かな部分もあった気がする。そうでなければこんな人生、とっくの昔に諦めていた。


 この女が度重なる不運の中に一人で立っていられるほど強くないのは、被害妄想を原動力に日々を過ごしてきたことからも明らかだ。それが二十七年という年月を生き抜いたのだから、支えてくれる人が少しはいたに違いない。けれど、大切な「それ」は記憶がそそがれ漂白されていく中で溶け出してしまったらしく、どこを探しても見つからなかった。


 一部が欠けた彼女はもう以前には戻れない。


 水草のように揺れ、粉雪のごとく舞い、


 ユラユラ、ヒラヒラと。


 道とも分からぬ白い筋をたどって行き着いた先もまた、白銀の世界だった。

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