彼女は大切な人
それからほんの数分も絶たずに、来客を告げるベルが鳴った。想像していたよりもずっと早い到着に、デヴィン絶望的な表情を浮かべていた。当然のことながら、支度はまだ完璧に済んでいないらしい。
「セス……!」
「姉さん、元気だった?」
フランチェスカより頭一つ分、いや、今はそれ以上に大きく見える。線が細くて女の子みたいだったセスが、今はがっしりと体格も良くなってすっかり大人びて見える。フランチェスカと同じブロンドの髪を肩まで伸ばし、くたびれたスーツもなんだか洗練されている。母によく似た優しそうな眼差しは幼い頃と変わらない。
「元気よ、会いたかったわ。セスも元気そう、また背が伸びた?」
「もう今更伸びる訳ないだろ、ねぇ、旦那様は?」
「ごめんね、仕事で外に出てるの。カーティスもずっと貴方に会いたがっていたわ。実は手紙が手違いで今朝届いたのよ」
「そうだったんだ。どうりで返事が来ない訳だ……。じゃあ押し掛けたみたいになったね。ごめん、デヴィンさん達にも申し訳ないことを……」
セスは迎えてくれた使用人達に申し訳なさそうに頭を下げた。デヴィンは滅相もない、と慌てている。
「……どうしたの、姉さん元気ないね」
離れていても、さすが血の分けた兄弟だ。セスは姉の様子がいつもと違うことに目敏く気付くと、心配そうな顔で覗き込んだ。
「……なんでもない」
「そうだ、海を見に行かない? 泊まっている宿からすごく綺麗な海が見えてさ」
「海……いいわね」
山で四方を囲まれたチェレスタ出身の者にとって、海は大変珍しく、憧れだった。それはフランチェスカも同様だった。いつか見に行きたいと思っていたのだが、忙しない毎日の中ですっかり忘れていた。
「ねぇ、デヴィン。私しばらく出掛けてくるわ」
「し……しばらくとは?」
「気が済むまで」
デヴィンの顔が僅かに引き攣った。普段から勢いだけで物事を決めるフランチェスカに対し、デヴィンは基本的には嫌な顔をしないで対応してくれる。だが、今回ばかりは苦い顔をしたまま首を縦に振らない。
「いいじゃない。どうせカーティスは仕事、仕事だし、一晩くらい」
それに、セスの部屋の支度をしなくてもいいわよ。と囁くと、デヴィンは静かに頷いた。
「……では、お二人が戻るまでにしっかりと準備させていただきます。お荷物のご用意を」
「簡単でいいわ、ありがとう」
「え、待ってよ。一晩って言った?」
セスは少し迷惑そうな顔でフランチェスカを見た。
「いいじゃない。兄弟水入らず、私の愚痴を聞いてちょうだい」
「いいけど……あ、あれ誰だろう?」
こじんまりとした馬車から、待ちきれない様子で自ら扉を開く。黒のヴェールを被った、華奢な女性が転がるように飛び出してきた。
「デヴィン、手紙をもらって飛んで来たの。カーティスは?」
ふわっとヴェールを上げると、その美しい顔立ちが露わになる。大きな瞳に薄い唇、顔は驚くほど小さい。ふわふわとした巻き毛は柔らかそうで、頬の周りで愛らしく揺れている。
「マチルダ様」
「……マチルダ?」
その美しさに見惚れていたフランチェスカだったが、その名前を聞いて思わず眉を顰めた。
「あら、失礼。私はマチルダ・フォンティーヌ。どこかでお会いしました?」
彼女は少し驚いたような顔をして振り返ると、すぐに感じ良く微笑んだ。
「いーえ、初めましてだわ。私はフランチェスカ・ユノー」
「ああ、貴方が……」
名乗った途端、マチルダはそっとヴェールを被り直した。気付いていないとでも思っているのだろうか、ヴェールの中で視線が忙しなくフランチェスカを観察するように動いていた。
「僕はセス、初めまして。綺麗な髪飾りですね、ヴェールと一緒になってるんだ」
セスは感心したように彼女の髪に付いていた真珠の飾りを褒めた。ヴェールの上にリボンのようにあしらわれている。
「セス、やめて」
セスには裏表という概念がない。おまけに、綺麗なものや珍しいものを見ると素直にすぐ口に出して褒める。そのおかげで誰とでもすぐに友人になれるのだが、女性とのトラブルも多い。
セスからすれば思ったことを言っただけなのだが、女性からすれば思わせぶりな態度を取られたと思う。
「彼女はね……敵よ」
今回は無用なトラブルを避けようという姉の気持ちというより、自分の敵になるかもしれない女をいい気分にさせたくなかった。
ただ、弟に説明するのにもう少し、言葉を選ぶべきだったかもしれない。
「そうなの?」
セスの顔付きがさっと変わった。
「……何があったか知りませんけど、この人を傷つけたら許しませんよ。僕の大切な人なので」
セスはにっこりと微笑んで、マチルダの目をまっすぐに見つめた。
「……まぁ」
「セス、もう行きましょう。それじゃあ、デヴィン。カーティスによろしく。……どうぞ、貴方もごゆっくり」
セスに凄まれて立ち尽くすマチルダをいい気味だと思った。
急ぎで荷物を用意してくれたようだから、簡単にと言っても何が必要か分からなかったかのだろう。フランチェスカは思っていたよりずっと大きな荷物を抱えてその場を離れた。
「マ、マチルダ様、きっと何か誤解があったのでしょう。話せばきっと、」
デヴィンはこの場をなんとか穏やかに済ませようと右往左往していた。
「……私のこと、綺麗ですって」
「え、ああ。そうですね、マチルダ様はお綺麗ですよ」
マチルダの少し嬉しそうな声を聞いて、デヴィンはホッと胸を撫で下ろした。どうやら機嫌を損ねたわけではないらしい。綺麗だと言ったのは髪飾りのことでは? とも思ったが、余計なことは言わないでおく。
「素敵な殿方だったわ。それに、彼女を庇うあの仕草……そう、"大切な人"なのね」
「そうですね。セス様は留学中でお二人が会うのも何年振りかだと聞いております」
フランチェスカから『気が済むまで』と言われた時は一瞬ヒヤッとしたが、一晩兄弟水入らずで話せばスッキリして帰ってくるだろう。デヴィンは楽観的に考えていた、この時までは。




