80 ハンナのため息
「お嬢様!! 何度も言わせないで下さい。そちらは立ち入り禁止です」
「だからハンナは来なくていいってば、もう! こんな事なら見学席にいた方が良かった気がするわ。こんなに近いのに全然湯殿が覗けないじゃない!」
そう、お嬢様は木陰の奥にある湯殿に向かったのです。
私がすぐにとっ捕まえ、広い場所にポイっと致しますが、これを日に一度は必ずやるのです。あの日リリック様と手を組んで本当に良かったと思います。
そうでなければ、この痴態はすでに国中に周知された事でしょう。
「湯殿は覗くためのものではございません! なぜわからないのですか。あなたは侯爵夫人になるのですよ」
「それは今じゃないもの。今は伯爵家の娘よ」
「まったく屁理屈ばかり並べてないで仕事してください。本日はニック様とランドレ様です。さあ行きますよ」
「はあい」
「お嬢様、仕事の途中ですが、お暇致しますか?」
「間違えました。ごめんなさい!」
「そうですね。淑女たるものそのような返事はいけませね」
「ハイ!」
……それもそれでどうかと思いますが、そこの教育はリンに託しましょう。
お嬢様が演習場を職場としてから半月。
はじめは戸惑っていらした騎士の皆さまも、だんだんとお嬢様が歩き回ることに慣れていき、今では平常心で訓練ができるようになり、お嬢様の舐めるような視線にも集中力を欠くことがなくなってきました。
「奥の方、腰を落としすぎです。もう少し自分の筋肉を信じて重心を上げてください。そのままの姿勢を貫くといつか腰を痛めます。手前の方は逆でもう少し重心を下げて下さい。背が高い分、人より気持ち下げることを意識しないと、身長差が出たとき低い方に簡単に伸されてしまいます。ではそれを踏まえてもう一度。ハイ!」
お嬢さまはやればできるのです。その証拠にお嬢様の的確な指示のもと励む訓練は効率が良く、前に比べ、格段に騎士たちの動きがシャープになってきたと専らの噂です。
依然としてお顔と名前を覚えるのは難しいようですが、それはリリック様がフォローしてくださいました。
「フルールは名前など呼ばなくてもよい。いいかお前たちもフルールのことを名前で呼ぼうなどと思うな『伯爵令嬢』と呼ぶように」
フォローというよりも牽制の意味合いが多いのかもしれませんが。……家名さえも呼ばせないようです。ええ、でもそれでも、お嬢様が絶滅危惧種であることがバレなければ問題ありません。
リリック様の心が狭い、もしくは大変な溺愛であるとの噂が流れればそれでいいのですから。
「お二人とも、まだ直っていません。もう少し大きく意識して変えてください」
「ハイ」
「ハイ」
やはり最初は、小娘に言われることを嫌う者もいましたが、それにも怯まず激を飛ばすお嬢様の小さな体を見ているうちに騎士の皆さまはなにか思うことがあったのでしょう、だんだんとその態度が軟化してきました。
さらに斜め上の理由でお嬢様を温かい目でみる方も増えました。
その小さい体で大男の中を歩くのは辛いだろうに、自分たちを思って歯を食いしばってくれているのだ。
そのようなありがたい事を誰が言い出してくれたのかはわかりませんが、それは大きな間違いです。
お嬢さまはその見た目で得をしているのです。
むしろ大男の中に埋もれるのが大好きなのです。
「お嬢様、お口が緩んでおります」
「んぐ」
しかし、その理由を明かすことはございません。リリック様との約束もありますが、ナート家の体面を保つという点は譲れません。殿方の体をみてニヤついているお顔など晒してはいけません。
「フルール、今日は一緒に昼を取れそうだ」
「まあ! では、今日は食堂へ行っても良いのですね」
毎日ではありませんが、こうして時間が取れる時はリリック様がお昼を誘いに来てくれます。はじめて食堂に行った時の感動が忘れられないのかリリック様との昼は必ずと言っていいほど、食堂一択です。
決してふたりでゆっくりしましょうなどとはいいません。
それにリリック様が少し残念に思っていることも知っていますが、そちらを優先したばかりに、お嬢様が突飛な行動にでることがないとは言い切れません。どうしても食堂がいいのだと迷い込んだふりをして周りを巻き込むことは十分に予想されます。
ですからリリック様申し訳ありません。
あなたの小さな願いが叶うことはありません。
「フルールは食堂が本当に好きだな」
「はい、あんなに大勢の人(殿方)と食事するのははじめてなので楽しい(うれしい)のです」
騎士団は第一から第五まであります。勤務体制がそれぞれにあるため、全員が揃うことはないですが、それでも大の男たちがそろって豪快に食事をする姿は、確かに圧巻です。
お嬢様はその光景がいたく気に入ったようです。
リリック様とご一緒できないときは用意された個室で私とふたりです。
その時は食事を終えると絵を描いて過ごすことがほとんどです。
この、騎士団の用意した部屋の中でなら絵を描くことを許されたのです。
その時間が私にとっての唯一気が休まる時間です。
お嬢さまは絵に集中しているので問題行動等はいたしません。
お茶を淹れて、その間は読書ができるのです。
まあ、お昼休みのようなものです。
午後は、組まれた予定の騎士を見るのではなく、気になった人を見て回るのですが、これがまた大変で、リリック様と他の騎士の手前、お気に入りの者だけを何回も指導する訳には行きません。
ここが私の腕の見せ所なのですがどうして中々骨が折れます。
騎士団から言われているのは姿勢が気になった人という意味で、お嬢様が思う気になった人とは違うのです。
何度言っても分かってくれません。
「気になった人は気になった人でしょう! 何が違うのよ!」
「構えなり、姿勢なりが気になった人です。お嬢様の気に入った体つきではございません」
「だから頑張って色々な体を見てるじゃない!」
「何周しても同じ方を見ているのです。結果ひとりしか見ていないのですよ。体ではなく、型を見てくださいまし」
「それができたらこんな事にはならないわよ。これ以上どうしろというの……」
「午前午後関係なく、個別スケジュールで組んでいただいた方が良さそうですね」
「もうそこは何も言えないから、ハンナに任せるわ」
「おや、素直ですこと」
「え? いつも素直だけど」
「え?」
「え?」
それは素直というのではなく、欲に忠実なだけです。
ハンナは深いため息をついた。




