無駄無駄無駄無駄ァーーーッ(織田、織田、織田、織田、織田ァーーーッ)
【1】はじめに
尾張の第2回目は織田の一族を紹介します。
前回も話題に上がりましたが、終わりには大きく
5つの織田の家系があります
① 織田伊勢守家(岩倉織田家、織田家嫡流、守護代)
② 織田大和守家(清州織田家、守護又代→守護代)
③ 織田弾正忠家(清洲三奉行の一、織田信長の家系)
④ 織田藤左衛門家(清洲三奉行の一)
⑤ 織田因幡守家(清洲三奉行の一)
【2】 織田伊勢守家
織田常松(教信)━┳━織田教長(朝長)
┣━織田郷広━┳━織田敏広━━━織田広高
┃ ┃
┃ ┗━織田広近━┳━織田寛広
┃ ┗━津田武永
┗━織田久広
まず、お断り。家系図については、とりあえず私なりのまとめです。
これは本当に苦労した点で、親子関係、兄弟関係、同一人物かどうかは様々な説があるので、これを合理的にまとめるのは不可能です。異論異説ご意見あればお伝えください。(個人的に)参考にさせていただきます(記事の変更はきりがないのでたぶんしないと思います。次回以降の参考にします)。
織田伊勢守家は、守護斯波氏に仕える尾張守護代織田家の嫡流です。
織田敏広の代に清州織田家(織田大和守家)と争い、後に和睦。春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中島郡の上四郡を支配することになりました。
織田宗家ですが、応仁の乱で西軍に付いたのが悪かったのか、最後まで大和守家を巻き返すことができず、没落していきました。
織田敏広(??~1481)
織田伊勢守家初代当主(1454?~1481)。郷広の子。
1441年、先代の守護代である父・織田郷広が寺社領・本所領を横領したとされ、その責任を逃れるために逐電します。
そして1451年、敏広は主である斯波義健(おそらく実際はその後見である執事の甲斐常治)に命じられ、父・郷広を自殺に追い込みます。
1452年、斯波義健が実子のないまま亡くなると、斯波氏の後継者争い武衛騒動が起こります。
斯波義健の養子・義敏とそも子・松王丸の陣営と、将軍義政により家督を継ぐよう命じられた斯波義廉の陣営です。その対立は応仁の乱にまで持ち込まれます。
敏広は尾張守護・斯波義廉と共に西軍に付きます。一方、分家の織田大和守家当主の織田敏定が斯波義敏を擁立して東軍に属したため両家が対立することになりました。
織田敏広の後ろ盾には、美濃の英傑であり義父の斎藤妙椿がいました。
ところが1471年、有力な家臣・朝倉孝景が越前の守護職を条件に東軍に寝返ります。同じく有力な家臣であった越前・遠江守護代の甲斐敏光も1475年には孝景と和睦し、東軍に寝返ってしまいます。敏広は、主君・義廉を伴って尾張へ下国、下津城を拠点とします。
一度は清洲方に敗れ、尾張守護所の下津城は落城、山田郡・国府宮へと逃れますが、そこから逆襲。1476年には大和守家の勢力を尾張から一時的に追放することに成功します。
ところが、1477年には応仁の乱が終結。室町幕府は敏広を更迭、義廉と共に敏広は「兇徒」とされました。
1478年には、新しく尾張守護所を置いていた清州城を奪取されてしまいます。再び、斎藤妙椿の後ろ盾を得、清洲城奪還を試みますが、最後は清洲方と和睦。尾張を半分にして、伊勢守家は尾張上四郡(春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中島郡)を支配することになりました。
1479年には岩倉城を築城し、岩倉城を居城とします。
最期は1481年3月、大和守との和睦が破れて再び戦闘に。敏広は戦死または敗北後に病死します。
織田寛広(??~??)
織田伊勢守家当主(1481~??)。
広近の子。敏広の養子。
1495年時点での織田伊勢守家当主です。
1481年、養父の死後に家督を継ぎ岩倉城主となります。
父・広近とともに織田敏定に帰順、尾張に再び平和が訪れます。
1487年の足利義尚による六角高頼征伐(長享の乱)には、斯波義寛の下、大和守家と仲良く従軍。
1495年に起きた大イベント「船田合戦」(隣国美濃の守護土岐家の後継者争い)では、斎藤妙純(斎藤妙椿の養子)サイドに付きます。養父・敏広と斎藤家は縁戚関係にあったためと、大和守家が小守護代・石丸利光方に付いたことが理由です。これが伊勢守家と大和守家の最後の戦いになりました。
合戦は石丸利光らが自殺して石丸方が敗北、織田大和守家の惨敗に終わります。
やったぜ大勝利、再び伊勢守の時代到来かと思いきや、同じ年、伊勢守家の後ろ盾でもあった斎藤妙純が戦死してしまいます。
以後、織田伊勢守家は衰退。1504年ころには記録から姿を消します。
織田広高(??~??)
織田伊勢守家当主(??~??)。敏広の実子。
ほとんど情報がありません。
織田信安(1502~1591) ★本作品に登場済み
織田伊勢守家当主(1517?~1558)。大和守家の敏信の子。
織田宗家の伊勢守家もとうとう大和守家から養子を取ることになってしまいました。いや、養子なのか?寛広と信安を繋ぐ時期のことはほとんどわからなかった。
信安の妻・秋悦院は織田信長の父・信秀の妹。そういうこともあって、織田弾正忠家とは仲が良く、幼少の信長とは猿楽などを楽しんだ仲だった。
しかし、信秀の死後、犬山城主の織田信清と領地を巡って対立。信長とも疎遠となる。
1553年には家老の稲田大炊助が信長と内応していると疑い、殺害。
1556年、長良川の戦いで斎藤道三が死ぬと斎藤義龍に呼応して、信長と敵対する立場を明らかにする。稲生の戦いでは織田信勝に味方する。
1555年、織田大和守家当主・織田信友が殺害され、1558年に信勝が謀殺されると、尾張国内で信長に敵対する最後の勢力となる。だが、長男・信賢を廃し次男・信家を後継にしようとしたため、かえって信賢により岩倉城から追放されてしまう。
その後、信安は斎藤義龍の家臣となり、その子・龍興にも仕えた。斎藤氏が滅亡すると、京都に逃れた。
ところがなんとその後、信長より罪を許されて同族の誼で美濃に所領を与えられ、1591年まで生きた。信長は同族には甘いなぁ。
織田信賢(??~??)
織田伊勢守家当主(1558~1559)。信安の長男。
父・信安が信賢の弟・信家を寵愛し、跡継ぎに定めようとしたため、居城岩倉城から父と弟を追放。その後、浮野の戦いで信長に敗れ、1559年には岩倉城を包囲される。数ヶ月の篭城戦ののちに降伏し、追放処分となった。
織田信家(??~1582)
信安の次男。
父・信安が長男・信賢を廃し次男・信家を後継にしようとしたため、父とともに追放されてしまう。その後、父が信長に許されると、信家は信忠の家臣に任じられた。
1582年、甲州征伐。信濃国高遠城攻略の際に武田方に討ち取られる。
津田正盛(1583~1661)
信安の四男。
1594年から秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは東軍に従軍する。
織田広近(??~1491)
郷広の子。
1459年、尾張国丹羽郡小口に小口城を築城し、居城とした。
1469年、張丹羽郡に木ノ下城(後に改修され犬山城となる)を築城。拠点を移す。
1475年、嫡男・寛広を兄・敏広の養子としたため、もう1人の子・寛近(津田武永)に家督を譲り、隠居。
津田武永(??~??)
広近の子。別名:織田寛近
木ノ下城主の織田広近の子として誕生。織田寛近を名乗る。
1475年、父・広近の隠居により、家督を継ぎ、小口城主となる。後に尾張川村北城を築き居城とする。
1495年、船田合戦では兄・寛広と石丸利光を攻めるため、美濃に出兵する。「織田大和守家」の織田敏定の布陣中の死を知り尾張に引き返し、「織田大和守家」の進軍を妨害していた弟・広忠に加勢し寛定を討ち取った。
1547年(天文16年)7月頃に出家。
織田七郎左衛門
岩倉織田氏の四家老の一。信安の弟・織田信有のこと?。
織田源左衛門
岩倉織田氏の四家老の一。
山内盛豊(??~1557)
岩倉織田氏の四家老の一。尾張黒田城代。
山内一豊の父親。1557年、黒田城が夜討され、子・十郎と共に戦死した。
堀尾忠助
岩倉織田氏の四家老の一。
前野時正 (1425~1484)
岩倉織田氏の重臣、軍奉行。前野家十代目当主。前野綱宗の子
前野長義 (1447~1512)
岩倉織田氏の重臣、軍奉行。前野家十一代目当主。長義の嫡男
前野正義 (1489~1556)
岩倉織田氏の重臣、軍奉行。前野家十二代目当主。長義の次男。
しばしば川並衆として描かれる。
前野宗康
岩倉織田氏の重臣、軍奉行。前野家十三代目当主。長義の次男。
明智城の戦いで、兄が戦死したために家督を継ぐ。
前野宗吉
宗康の子 。
修験者であった覚然坊から棒術を習う。身長約180㎝の大男だったといわれている。
後に、織田信長に家臣として仕える。
前野長康(1528~1595)
宗康の子。別名:坪内光景
蜂須賀正勝の義兄弟。しばしば川並衆として描かれる。
後に豊臣氏の宿老となる。
前野勝長 (??~1585)
宗康の子。坪内忠勝の養子。別名:坪内勝長
後に佐々成政の家臣となった
坪内忠勝 (1502~)
前野長義の三男。坪内昌家の養子。別名:前野時氏
稲田修理亮
岩倉織田氏の重臣。 信賢と信家の兄弟が争った際、信賢に味方する。
稲田貞祐
岩倉織田氏の重臣。稲田修理亮の子。別名:稲田大炊助。
1553年、主君・信安に織田信長への内通を疑われ、切腹させられた。
『太閤記』などでは蜂須賀小六ら野武士の一味として描かれているがフィクションであろう。
大河ドラマ秀吉では、梶原善が演じた。
稲田植元
貞祐の三男。
父が主君信安から織田信長への内通が疑われ切腹させられると、蜂須賀正勝に預けられた。
のちに蜂須賀氏の筆頭家老となる。
続く