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終わりから始まる物語(尾張から始めます)

【1】


信長さま出生の値、終わりから始めたいと思います。

尾張の国の支配勢力を簡単にまとめます


① 守護  斯波氏 

② 守護代 織田大和守家(清州織田家)

③     織田伊勢守家(岩倉織田家、織田家嫡流)

④     織田弾正忠家(清洲三奉行の一、織田信長の家系)

⑤     織田藤左衛門家(清洲三奉行の一)

⑥     織田因幡守家(清洲三奉行の一)



守護とは、室町幕府の職名で国単位で設置された軍事指揮官・行政官のこと。


守護代とは、守護の代理人です。守護は京都にいることが多く、任国を留守にする期間が長かったわけです。複数の国を兼任する場合は、任国に訪れることはさらに稀になります。そこ実際に地方に住み付き実務を行うのが守護代です。


さらに守護代の代理人を守護又代といいます。


尾張の守護・斯波氏は越前、尾張、遠江の三国の守護を兼ねる名家でした。

尾張の守護代を務めていたのが、織田氏です。

織田伊勢守家は、織田氏の嫡流で尾張の守護代を務めていました。

織田大和守家は、織田氏の傍流で尾張の守護又代を務めていました。しかし、あるとき斯波氏と手を組み、織田伊勢守家を守護代から引きずり落とし、自らが守護代の座に就きました。

その後、両家は和睦し、伊勢守家が上四郡を、大和守家が下四郡を支配することになりました。


嫡流に成り代わった織田大和守家ですが今度は斯波氏と争い、当主を殺されてしまいます。そして、弟が跡を継ぎます。

未熟な当主を支えるために清洲三奉行と呼ばれる家臣がこれを支えます。

織田弾正忠家、織田藤左衛門家、織田因幡守家。全員織田です。織田しかいません。

弾正忠家>織田藤左衛門家>織田因幡守家の順で、大和守家に近い家系になります。



【2】斯波氏


さて、今回は尾張守護の斯波氏について語っていきましょう


斯波義寛(1457~1513)

尾張守護。斯波氏(武衛家)12代当主。斯波義敏の子。別名:斯波義良、幼名:松王丸


シナリオ開始1495年当時の尾張の守護はこの方。3歳で家督を継いでいるので、応仁の乱以前の人物になりますね。

•長禄合戦の結果、父・斯波義敏が失脚、甲斐氏らにより擁立され、僅か3歳で家督と3ヶ国守護職を継ぎます(1459年)。しかし、足利義政から当主の座を廃され、相国寺に預けられる(1461年)。

このあたりはまさに応仁の乱に繋がっていく話ですね。でもここは大胆に割愛してすっ飛ばします。


シナリオ開始時点の直前に起こった大事件が「船田合戦」です。隣国美濃の後継者争い。

前年の1494年には今川氏親が遠江に侵攻を開始してきたのですが、運が悪いことに「船田合戦」が起こったことにより遠江出陣は不可能な状態となります。こうしてみすみす遠江を失うことに。

しかも、船田合戦の陣中で重臣である守護代・織田敏定が亡くなり、その跡を継いだ織田寛定も討ち死にするという不幸が襲う。

1501年ころ隠居、1513年に亡くなります。享年57。


斯波義達(1486~1569)

尾張守護。斯波氏(武衛家)13代当主。義寛の嫡男。

遠江奪還が彼のジャスティス。今川氏と争います。

守護代の織田達定は、遠江遠征には反対派。1513年、義達が今川氏に大敗すると反旗を翻します。しかし、義達はこれを返り討ちにして、自刃へと追い込みます。

これが斯波氏最後の栄光でした。ここからの選択肢を間違えなければ、斯波氏は戦国大名として生き残ったのかもしれません。

1515年、今川氏に再度大敗。このとき義達自身が捕虜となり、剃髪された上で送り返されるという恥辱を受けます。尾張国内での支持を失った義達は隠居します。

1569年ころまで存命したようです。


斯波義統(1513~1554) ★本作品登場済み

尾張守護。斯波氏(武衛家)14代当主。義達の子

父・義達が失意の隠居をしたため、わずか3歳にして新たな尾張守護となる

守護代(大和守家)に擁される傀儡的でした。大和守家と対立する弾正忠家とは友好的。

1554年織田信友が織田信長を謀殺する計画を企てたとき、信長にその計画を密告しますが、それが原因で信友の家臣・坂井大膳らに攻められる。最後は城に火をかけて一族30余名と共に自害しました。享年42。


斯波義銀 (1540~1600) ★本作品登場済み

尾張守護。斯波氏(武衛家)15代当主。義統の子。別名:津川義近

父の義統を尾張小守護代の坂井大膳によって殺害されたため、家督を継ぐ。織田信長の元へ落ち延び、信長に信友を討たせます。

1558年頃、信長追放を画策して今川の軍勢を引き入れようとしますが、それがバレて織田信長に尾張を追放されます。

その後、信長に許されて津川義近と改名します。

小牧・長久手の戦いで、羽柴秀吉に降伏し、最後は秀吉の御伽衆となりました。

時代に翻弄されながらも無事に戦国時代を生き延びることができました。

名家に生まれてラッキーでしたね。


斯波義康(??~??)

義銀の長男。別名:津川義康、羽柴義康


津川近利(1582~1642)

義銀の次男。


津川辰珍(1583~1658)

義銀の三男。

小倉藩のち熊本藩の細川氏の家臣。


津川近治 (??~1615)

義銀の四男。

大坂の役に豊臣秀頼方で参陣、討死。


斯波統雅(1524~1554)

義達の子。義統の弟

1554年、信友が兄・義統に対し謀反を起こした際、兄・義統や他の一族とともに自害した。享年31。


斯波長秀(1541~1593) ★本作品登場済み

義統の次男。別名:毛利秀頼

信友が父・義統に対し謀反を起こした際、織田信長の家臣である毛利十郎によって救助される。

数多の武功を上げ、最終的に伊那郡・信濃飯田城主(10万石)となった。


蜂屋謙入(??~1593)

義統の子。

弟の津川義冬が主君・織田信雄によって殺害された際、津川義近とともに伊勢松ヶ島城に立て籠もって信雄の軍と戦うが敗れる。その後、羽柴秀吉に仕える。


斯波義冬(1543~1584)

義統の子。別名:津川義冬。

織田信長に仕え、やがて次男・信雄の家老に任じられた。

1584年、秀吉は義冬・岡田重孝・浅井長時ら信雄の有力家臣が羽柴秀吉に寝返ったという流言を流し、この情報を信じた信雄によって3人共殺害された。


斯波寛元(??~??)

斯波義敏の子。義寛の弟。

兄である義寛に従い各地を転戦。


斯波義雄(??~??)

二俣城主、杜山城主。遠江守護代。斯波義敏の子。義寛の弟。

兄である義寛に従い各地を転戦。また、杜山城主として今川氏に対峙した。


斯波義虎(1511~1554)

義雄の子。

1554年、信友が従兄・義統に対し謀反を起こした際、義統や他の一族とともに自害した。享年44。


【3】まとめ


織田信長が尾張の統一を目指していたころは、傀儡的存在であった斯波氏ですが、その後、一族はそれぞれリクルートされて活躍していたようです。案外しぶとい。

プレ信長時代のシナリオでは、義寛・義達が、戦国大名として生き残れるかがポイント。部下に信秀、信長を取り込めば面白いifがありそうですねー


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