Last Day
その花はリンドウ。秋の花だ。この花を特別な花に変えたのは美香だ。美香はリンドウの青い花びらが大好きで、僕の花き圃場にリンドウ買いに来てくれたお客さんだった。僕の実家は代々仏花のリンドウに特化した花農家をしている。二十代の僕の周りの友達はみんな、色々な夢があって東京に出て行った。僕は岩手県から出るつもりがない。都会の方が娯楽も仕事もあるのだが、僕の関心は岩手県の自然に向いていた。小学校のころは、蝉取りからはじまった昆虫採集が僕の遊びだったし、仕事は代々引き継ぐから就職先も気にしなくていい。といっても、野菜農家になってみたかった。だが、花を葬儀の日に納品することがあって、母は納品だけでなくフラワーセッティングまでこなした。それを見て僕は、花の存在意義を考えるようになった。葬儀という悲しみの場に、花で何ができるのかということを。
美香はリンドウしか並んでいないビニールハウスに、同じ岩手県からとはいえ足を運んできた珍しいお客さんだった。
彼女は青色が好きだった。青い花がある圃場を渡り歩くのが趣味だと言った。
青い花といえばキキョウ、ネモフィラ、花束にするならデルフィニウム、ブルースターなんかが人気だ。
リンドウは八月のお盆が需要のピークで、やはり仏花としての人気が高く、それ単体で鑑賞する需要はほとんどないと僕は思っていた。
彼女はリンドウの何がそんなに好きなのだろう。
それから彼女は白血病だとも言った。「でも気にしないで下さい。リンドウの話がしたくて来たんです」と彼女が自分の発言をおかしな話だとでもいうように笑うので、とても病人には見えなかった。
美香は毎週日曜日にやってくる。僕らは自然と惹かれ合った。
今日もたなびく黒髪が朝日を受け、透き通って見える。彼女はヨーロッパ系のクオーターだ。その蒼い瞳が笑いかける。僕は何度射抜かれたことか。彼女は光をまとっていた。彼女を見つめていると晴れやかな気持ちになる。彼女の顔立ち、特に頬骨から顎にかけての輪郭は僕好みの流線形だ。
リンドウの一株ずつそれぞれ違う色の顔があるように、彼女は今まで出会った日本人の誰とも似つかない。そんな彼女が仏壇に飾る素朴な花、群青色のリンドウに魅せられていることが僕には意外だった。
「今から海にいっしょに行かない?」
それは彼女からの誘いだった。
空は快晴だった。僕らに覆いかぶさるコバルトブルー。僕はとりわけ青色に魅入られるようになっていた。リンドウからはじまり、僕は服も青いものを着ている。
「天気もいいしな。そうしよう」
花農家の仕事の最大のメリットは、勤務時間を自分一人で決められることだ。毎日が日曜日という大げさな言い方をする花農家の人もいるが、僕は美香が来てくれないと、働きすぎるきらいがある。花に水をやって、自分は水分補給を忘れて熱中症になりかけたこともある。
美香は日焼けした僕の手を握った。少し緊張して僕の手が湿っぽくなる。彼女にそのことを気取られまいかと不安になった。美香はそのまま勢いよく駐車場の車まで僕を引っ張っていく。彼女の足がぐらついた。
「美香。やっぱり、横になっていた方がいいんじゃないか?」
「平気よ。私、いつも枕元にリンドウを置いているから」
確か、リンドウが漢方薬にもなると聞いた。
「ねえ、知ってる? 私のお母さんが教えてくれたんだけどね……リンドウは」
息も切れ切れに美香は自分の車に乗り込む。僕は彼女の手が震えているのを目視する。彼女はシートベルトを締めるのに苦戦している。僕が締めてやると、美香は自分でやれたのにとぶつくさ言う。
「運転、代わるよ。危ないから。今度からは僕が迎えに行くよ」
「じゃあ、任せようかな。でも、自分で来たいの。ここ、落ち着くから」
「で、リンドウはなんて?」
「長寿の意味があるの。そばに置いておくだけで、お守りになるわ。病気が完治したという伝説も残っているらしいのよ」
そんなもので美香の後天的な病は治るわけはない。だけど、僕には彼女をモルヒネにつける勇気はない。あと何回だろう。彼女とこうして出かけられるのは。
昼前。海開き前の海はリンドウより淡い水色で、ビーチには僕と美香しかいなかった。
二人で浜辺を裸足で歩いた。足裏にまとわりつく砂と冷たい海の水。僕らは愚かにも歩き続けた。彼女はもう足の感覚がないらしい。
浜辺で二人とも寝転ぶ。
冷え切った彼女の足首からマッサージする。持参したリンドウの花びらを摘んで彼女の足に乗せる。海水で濡れて簡単に貼りついた。彼女の足を人魚の鱗で覆うイメージでどんどん埋め尽くしてみる。これがおまじないになればいい。
彼女がときどきくすぐったそうにするのが嬉しい。彼女は起き上がってリンドウの花びらを僕の肩に張りつけた。
「お返しよ」
彼女を抱き寄せる。彼女の肩が震えている。寒いのか痛いのか。美香はとても忍耐強く、何も言わない。そろそろ彼女は家で横にならないといけないのではないだろうか。
「私、生まれ変わったらリンドウになりたい」
僕は彼女の胸に残りのリンドウをばらまく。
「そんなこと――言わないでくれ」
彼女の唇にリンドウの青い花びらを乗せる。彼女は一瞬、戸惑ってはにかむ。僕はそれを指でなぞる。すると、彼女は花びらを口に含んだ。僕はその蒼い唇に吸い寄せられるように口づけする。僕らを永遠に繋ぎとめて欲しくて。
「美香を失いたくない」
口にしてみると、途端に不安が募る。僕が情けない声を出したので美香に不安が伝染する。
「あなたの好きにして欲しいの。私、あなたの想い、全部形にしてあげたい」
途方にくれた僕に美香が胸にばらまかれたリンドウを、指で摘まんで咥えさせる。それを二人でむさぼるように噛んで口づけする。苦い。苦くて苦しくて、狂おしい。狂おしいほど、僕らは抱きしめ合い、肌でリンドウを感じる。寄り合った僕らが肌をこすれば、リンドウは青く僕らを染めた。
エピローグ
「昨日未明。巨大化した樹木が都心部を覆いつくしました。あっ今、自衛隊の活動に動きがあった模様です。爆撃です! あの大きな木に向かって爆撃を開始しました」