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3 アシュウィンとマナサ

 アシュウィンは、糧のために惰性で働いている日雇いの仕事を午前中で済ませると、酒屋や飲食店が面している目抜き通りをそぞろ歩いていた。

 腰には使い込んで柄の部分がすり減っている剣を差していて、左手をその剣の鞘に添えていた。

 何か、人生がガラッと変わるようなことって起きないのかなぁ……

 アシュウィンはそんなことを漠然と思いながら何気に空を見上げた。

 昼下がりの夏の日差しは強く、アシュウィンは雲一つない空を見上げると思わず目を細めた。

 空よりも濃い瑠璃色のアシュウィンの瞳は、陽光を受けて輝いて見えた。


「泥棒ーっ!

 誰か捕まえてくれーっ!」

 通りに面した酒屋の店主が、叫びながら、大きなお腹をゆさゆさと揺らして店から現れた。


 店主が後を追っているらしい男は、ワインボトルを脇に抱えたまま、アシュウィンの横を通り過ぎようとしていた。


「おいおい、盗みは良くないぞっ!」

 アシュウィンはその男に声を掛けた。


 その男は、アシュウィンの言う事を聞くはずもなく、アシュウィンが目に入らないかのように走り去ろうとしていた。


 あ、そう。無視するんだ。

 それじゃあ、仕方が無いな。

「転べっ!」アシュウィンは小さな声で叫んだ。


 そうすると、その男は、何かにつまずいたり足を取られたりした訳でもないのに、突然、豪快に転んだ。

 まるでアシュウィンの声に操られているようだった。

 男が抱えていたワインボトルは、地面に激しくぶつかって、無惨にも粉々に砕け散ってしまった。

 中に入っていた高価そうなワインは、地面に吸い込まれるように染み込んでいった。


「はぁはぁ……この野郎。」店主がようやく追いついた。

「高いワインを盗みやがって!

 しかも、割れているじゃないか!

 弁償しろっ!」

 店主は転んでいる男の上に馬乗りになった。


「ごめんなさい。もうしません。」男は、店主に潰されそうになりながら、泣いて謝った。


 アシュウィンが男の顔をよく覗き込むと、まだ少年のようだった。


「酒屋のおじさん、その子の上にそのまま乗っかっていたら、その子、死んじゃうよ。」


 アシュウィンに言われて、酒屋の店主は我に返り、のそのそと少年の上から身体をどけた。


 アシュウィンは、少年に手を差し伸べて引き起こすと、服に着いた土を払ってやった。


「何でワインを盗んだりしたんだ?

 まさか自分で飲む気じゃないだろ?」


「……自分で飲むんだよ。」


「つくなら、もっとマシなウソをつけよ。

 ワインの味なんて分からないだろ?」


「味?そんなもの、どうだっていいだろ。飲めば一緒だよ。」


「飲めば一緒って、ミルクじゃないんだぞ。

 誰かに命令されたのか?盗んでこいって。」


「誰だっていいだろ。」


「やっぱりそうか……」


 アシュウィンと少年が酒屋の店主そっちのけで言い合っていると、店主が割り込んできた。

「ちょっとあんた、何なの?

 うちのワインが盗まれたんだから、口を出さないでよ。」


「ああ、すまない。

 この割れたワイン、いくら?

 俺が弁償するから、この子のことは俺に任せてくれない?」


「お代を貰えるなら、こっちはそれでいいけど……

 あんたも物好きだね。」

 酒屋の店主は、アシュウィンから盗まれたワインの代金を受け取ると、なにくわぬ顔で店に帰って行った。


「余計なこと、するなよな。

 頼んだわけでもないのに……」

 少年は相変わらず強がっている。


「俺はお節介が好きなんだよ。」


「お礼なんて言わないよ。」


「別にお礼を言ってほしい訳じゃない。

 それより、本当のことを教えてくれ。

 誰に頼まれたんだ?」


「言ったら殺される。」


「俺は近衛兵じゃない。

 お前をそそのかしたやつをどうこうするつもりはないんだ。」


「じゅあ、何でしつこく聞くんだよ。」


「子供のお前にこんな事をさせるなんて、どんな事情があるのかと思ってさ。」


「……親父が酒を買う金が無くて、それで……」


「……そうか。まあ、事情は分かった。」

 それで子供に盗みをさせているのか。


「でも、そんなに悪い親父じゃないんだ。

 親父、今まで続けていた仕事を首になってしまって、新しい仕事を探しているんだけど、なかなか見つからないみたいで……

 それで、朝から酒を飲むようになって……

 今、景気が悪いんだろ?」


「そうだな。今の王政は最悪だ。

 みんな貧困にあえいでいるのに……」


「王様の悪口?捕まるよ。」


「王様じゃなくて、その取り巻きが悪いんだ。」


「取り巻き?」


「うん。そんなことはどうでもいい。

 いいか?もうこんなことするんじゃないぞ。

 今日はたまたま俺が見つけたから良かったものの、今度やったら近衛兵に捕まるぞ、本当に。

 分かったな?」


「うん、分かった。もう行っていいの?」


「ああ、いいぞ。

 あ、待て。ほら、酒代だ。これで酒を買って帰れ。

 じゃないと、親父に殺されるだろ?」

 アシュウィンはポケットから無造作に取り出した硬貨を少年に手渡した。


「えっ?ほんとにいいの?」

 少年は嬉しさを隠しきれずに自然と笑顔になった。


「俺の気が変わらないうちにさっさと行け!」


「うん。ありがとう!」

 少年は貰った硬貨を握りしめて小走りに去って行った。


 自分の子供にこんなことをさせるなんて、親としての自覚がなさすぎだ……

 まあ、元はと言えば今の王政のせいだな。

 アシュウィンは割れたワインボトルを眺めていた。


 そんなアシュウィンの行動を興味深げに建物の陰から見つめている二人の人物がいた。

 一人は20代半ばの女性で、スレンダーな肢体にベージュのワンピースのスカートを纏っていた。

 もう一人は40歳位の男性で、小柄ながら鍛え抜かれた身体であることはシャツの上からでも容易に分かった。


「隊長、人違いじゃないですか?

 さっきも転ばせたんじゃなくて、あの子がたまたま転んだんですよ、きっと……」


「どこを見ているのよ、イシャン。

 あれは立派な念動力よ。」


「そうですかぁ?

 足を引っ掛けて転ばせたんじゃないですか?」

 ラーマの麒麟第3隊副長のイシャンはあくまでも疑っている。


「違うってばっ!

 力は弱くて地味だけど、念動力は念動力よ。」

 ラーマの麒麟第3隊隊長のマナサは、話したこともないアシュウィンを必死にかばう自分が、何だかおかしくなってきた。

「まあ、いいわ。イシャンはここで待っていて。私が1人で行ってくる。」


「大丈夫ですか?気を付けてください。

 向こうは腰に剣を差していますよ。

 こちらは普段着で武器も防具も持ち合わせていないんですから。

 やはり戦闘服の方が良かったんじゃないですか?」


「別に戦う訳じゃないのよ。相手を警戒させたら面倒でしょ?

 第一印象はフレンドリーに行かないと。

 それに、私を誰だと思っているの?」

 マナサは自慢の長い黒髪を右手でかき上げると、アシュウィンに近づいた。


「ねぇ、ちょっと聞くけど、あなた、アシュウィン?」

 マナサは、何の前置きも無く、不躾に聞いた。


「えっ?そうだけど。どちら様?」

 アシュウィンは、突然目の前に現れた、黒髪ロングのスレンダーな美女に驚いた。


「私はマナサ。さっき、あなたのことをたまたま見ていたんだけど、あなたには何か不思議な能力があるみたい……」

 マナサは、懸命に瞳を潤ませて、羨望の眼差しでアシュウィンの顔を見上げてみた。


「うん?まぁね……

 目撃されたんならしょうがないけど、俺には普通の人間には無い能力があるんだ。

 ここだけの話ね。」

 アシュウィンは、満更でもないような表情で、人差し指を口元にもっていった。


「やっぱりそうなの?凄いわ。

 もう1回、見せてくれない?

 私、不思議なことにすごく興味があるの。

 ねえ、いいでしょ?」

 マナサは甘えるような眼つきでアシュウィンを見つめた。


 その光景を離れたところで見ていた副長のイシャンは、肩をすくめて、顔を左右に振った。


 それに気づいたマナサは、アシュウィンに分からないように、イシャンの方に中指を立てた左手を向けた。


「さっきやったことをもう一度見たいって?」アシュウィンは嬉しさをひた隠しにしてマナサを見つめた。


「あなたの不思議な力って、具体的にはどんなことが出来るの?」


「見たら、きっと驚くよ。

 手も触れないで人を操ることが出来るんだ。念動力ってやつさ。

 さっきの少年には、俺が転ぶように念じたから、その通りに転んだんだ。

 凄くない?」

 アシュウィンは得意顔になっていた。


「うん、うん。なるほどね。他には?」

 マナサの反応はアシュウィンの想像を超えてそっけなかった。


「他には?そうだなぁ……

 動いている人に止まれと念じれば、一瞬止まって動けなくすることもできる。」


「ふーん。それって、ある程度離れていても効果があるの?」


「距離が2、3メートルくらいまでは効果があるかな。」


「超至近距離ね。」

 マナサは容赦なく言い放った。


「手も何も触れていないんだから、念動力を使うには、それくらい近づかないと無理なんだよ。

 君には分からないと思うけど。」


「その能力、いつ頃から使うことができるようになったの?」

 マナサは畳み掛けるように質問を続けた。


「いつ頃だろう……よく覚えていないな。

 ガキの頃に親父から使い方を教わったんだ。親父も同じような能力があったから。」


「いつの頃なのか、ハッキリ分からないの?」

 ツンデレマナサは少しイラッとした。


「何なんだよ、さっきから。君に関係ないだろ?」


 ……ところが大有りなのよ。

「あなたのお母様も不思議な能力を持っているの?」


「親父とは違って、母には無かったと思う。母は普通の人だから。

 ……って、もう、一体何なんだ、この状況?

 よくよく考えたら、俺の名前を知っていたよね?何で俺のこと知っているの?

 一体、君は何者なんだ?」


「ごめんなさい。一方的に……

 ちょっと、時間を貰えないかしら?

 あなたに説明したいことがあるの。

 立ち話もなんだから、近くのお店でお茶でも飲まない?」


「いいね!デートのお誘いかな?」


「違うわよ!」

 マナサは辺りを見回した。

「あ、あそこにある喫茶店でいいわ。

 ちょっと、先に行っていてくれる?

 すぐに行くから。」


「ああ、分かった。先に行っているよ。」


 マナサは、待機していた副長のイシャンのところに行くと、「本部に戻っていてちょうだい」と命じた。


「大丈夫ですか?」

 イシャンは心配そうだ。


「ええ、大丈夫よ。私1人で大丈夫。」


「分かりました。くれぐれも注意して下さい。」


「ありがとう。」

 マナサは、イシャンを本部に帰すと、アシュウィンが待っている喫茶店に入った。


 喫茶店の店内は薄暗く、煙草の煙で空気は淀んでいた。

 4人の男客はみな、昼間からアルコールを飲んでいるようだった。

 マナサが店内を見回すと、アシュウィンは奥のテーブルの席に座っていた。


 マナサがアシュウィンを見つけてテーブルに着くと、アシュウィンが待ちきれないように口を開いた。

「話したいことって何?」


「ええ、ちょっとその前にあなたの力を私に試してくれない?」


「試す?どういうこと?」


「そうねぇ。じゃあ、私がテーブルの上のあなたの手を叩こうとするから、私の手の動きを止めることができる?」


「ああ、できるよ。叩いてみて。」


「本気で行くわよ!」

 マナサは、右手を高く上げると、アシュウィンの左手を叩こうとした。


「止まれ!」アシュウィンが他の客に聞こえないように小さく叫ぶと、マナサの右手は、クランプにでも挟まれたかのように動かなくなって、アシュウィンの手に触れることが出来なかった。


「うん、これは本物ね。」

 マナサは嬉しそうに微笑んだ。


「だから、そう言っているだろ?」

 アシュウィンは得意げに言った。


「もう一度、試してもいい?」


「いいけど。何回やったって同じだよ。」


「じゃあ、お願い。」


 マナサは、右手の人差し指と中指を立てて胸の前で印を結ぶと、左手を振り上げた。

 そして、「オンキリキリバサラバサリ」とマントラを唱えながら、振り上げた左手を振り下ろした。


「止まれ!」アシュウィンは再び叫んだ。


 パシッ!

 マナサの左手は、何の支障もなく、アシュウィンの右手を叩いた。


「あれっ?」

 アシュウィンは叩かれた右手を見つめた。

「何で?」

 アシュウィンは、なぜ叩かれたのか理解できなかった。


「実はこれ、私が持っている能力なの。」

 そう言ったマナサの身体は緑色の光に包まれていた。

 その緑色の光はマナサが右手の印を解くと一瞬のうちに消えた。


「驚いたな。君が持っている能力?」


「そう、この世界には、あなたやあなたのお父さん以外にも特殊な能力を持つ人間がいるの。」


「まあ、俺と親父だけだとは思っていなかったけど……

 親父以外に特殊な能力を持った人に会うのは初めてだよ。

 その能力は、止めようとするのを止めさせない能力?」


「うーん、当たらずとも遠からず、かな。

 私は、自分の周りに結界を張って、相手のマントラを無力化することが出来るの。」


「マントラ?」


「そう。言霊って聞いたことある?

 人の発する言葉には力が宿っているのよ。

 あなたも、転べっとか、止まれって叫んで力を使うでしょ?それも同じこと。

 マントラを唱えることによって、自分の持っている能力を発動させて、その力を増幅させることができるの。」


「でも、俺はマントラなんて知らないし、普通に言葉を叫んでいるだけだけど……」


「そこが驚きなのよね。

 本来、マントラを唱えないと能力は発動しないはずなんだけど、あなたの場合には発動させることができる。

 それも、いとも簡単に。

 もし、マントラを唱えたら、とてつもなく強力なパワーを生み出すかもしれない。」


「そうなの?なんだかよく分からないけど……」


「ただ、マントラを唱える行為は、強い力を生じる反面、体力や精神力の消耗も激しいの。

 だから、短時間のうちに何度も使うことが出来ない。」


「それで、何、マナサさんは俺にそのマントラって言葉を教えに来たっていう訳?」アシュウィンは安物の赤ワインを一口飲んだ。


「私は、あなたにマントラを修得させるべきかどうかを見極めるために来たのよ。

 あなたのおじいさんに命じられて。」


「えっ?俺のじいさん?本当?

 見たことも会ったこともないけど……生きているの?」


「ご存命よ……

 ラーマの麒麟という反王政の組織、知っているでしょ?」


「ラーマの麒麟?ああ、レジスタンスの?」


「ええ、信じられないかもしれないけど、実は私も所属しているの。これは秘密よ。」

 マナサはアシュウィンの真似をして人差し指を口元にもっていった。

「ラーマの麒麟に所属している一族は、みんなマントラの能力を使うことができる。

 一族以外の同志は、マントラは使えないけど、高い志に違いは無い。

 その組織の指導者があなたのおじいさん、アグリム大師なの。

 お父さんから聞いたことない?」


「親父から?」

 アシュウィンは子供の頃に思いを馳せた。


 ◇


 15年前


「おい、アシュウィン。ちょっとキッチンに行って、母さんからワインを貰ってきてくれ。

 もう空になってしまった。」

 長椅子に横になっていた父親のアジットは、無精髭が生えたあごを掻きながらアシュウィンに言った。


「あなた、アシュウィンはまだ7歳なのよ。そんなことをやらせないでちょうだい。」

 キッチンから出てきた母親のアディティは、アシュウィンを制して、アジットをたしなめた。


「そんなもんかな。

 悪かったな、アシュウィン。」

 アジットはそう言うと、横になったまま、「よっ!」と一声叫んで、アディティの持っているワインボトルを自分のほうに引き寄せるような仕草をした。


 そうすると、ワインボトルは見えない力に操られているかのように、アディティの手を離れて宙を飛び、アジットの右手に吸い寄せられた。


「よしっ。やっぱりこのワインは俺に飲まれたがっているんだな。」

 アジットは起き上がると、掴んだワインボトルをしげしげと眺めた。


「自分で取っておいて、何言っているのよ。

 だいたい、普通の人間が持っていない能力を神様から与えられているのに、こんなくだらない使い方をして罰が当たるわよ。」

 アディティは半ば呆れ顔になっている。


「別に望んで得た能力じゃないし……

 こういう能力はあまり大それたことに使わない方がいいんだよ。」


「ワインボトルを手繰り寄せるとか?」


「いや、まあ、これは、ついつい楽をしてしまう人の性というか……」


「そればっかりじゃないの?」


「そんなことはないさ。ここぞという時には能力フル稼働だ。」


「それはいつなの?一度も見たことありませんけど。」


「それは、やっぱり、家族の危機の時とか、ここぞっていう時に決まっているだろ。

 俺の親父みたいに、この国を立て直すために能力を使うとか、そんな大袈裟なことに自ら飛び込むような考えはさらさら無い。

 俺は、普通じゃない分、普通に生きたいんだ……」


「……そうね、それがあなただもんね。今のままでいいわ、変わらなくて。

 そんなあなたを好きになったんだから。」


「すまんな。」


「どういたしまして。

 でも、あなたのお父さんは、他の人が出来ないことをしようとしているんでしょ?

 それはそれで尊敬すべきことだと思うわ。」


「そうかな?

 ただの変わり者の理想主義者だけどね。」


「またぁ、そういうことを言わないの。

 協力はできなくても、応援ぐらいはしてあげたら?」

 アディティはそう言いながら、キッチンに戻って行った。


 アジットは、グラスに注いたワインを飲みながら、思い出したように口を開いた

「そうだ、アシュウィン。

 アシュウィンもそろそろ能力をコントロールできるように練習しないとな。」


「練習?」

 アシュウィンは首を傾げた。


「そうだ。せっかく与えられた能力だ。使いこなせるようになっておくのに越したことはない。

 でも、アシュウィンは俺と違って、物を動かすんじゃないんだよな。」


「僕は何ができるの?」


「アシュウィンは人を操ることができるんだ。」


「人を操る?」


「そうだ。父さんよりも凄いかもな。

 アシュウィンだって覚えがあるんじゃないか?

 ほら、友だちに『待って!』と言ったら、急に立ち止まったことがあっただろ?

 それとか、ふざけて叩いてきた友だちに『やめろっ』と言ったら、固まったように止まったこともあったし……

 覚えていない?」


「うーん、あったかも……」


「意識していないから、あまり覚えていないだけだ。

 アシュウィンは無意識のうちに特別な能力を使っていたんだ。」


「ふーん。」


「これからは、相手が自分の思い通りに動いているところを想像しながら、意識して言葉を発するようにすると、能力を上手く使えるぞ。」


「?

 父さんの言っていること、よく分からない。」


「ん?

 あっはっはっ!そうだよな。アシュウィンには、まだ難しいよな。

 だんだん分かってくるようになる。

 忘れちゃいけないことは、力を悪いことには決して使わないことだ。

 これだけは必ず守ること。約束だ。」


「うん、約束だね。」アシュウィンはコクッとうなずいた。


「それだけ守っていれば、父さんを操って、たくさん練習したらいい。」


「分かった。それじゃあ、いくよ。」

 アシュウィンは早速練習しだした。

 アジットの顔を真っ直ぐに見据えて、「父さん、立って!」と叫んだ。


「おっと……」長椅子に座っていたアジットの体が、一瞬前のめりになった。

「いいぞ。その調子だ、アシュウィン。

 父さんを立たせることはまだまだ難しいけど、さすがに俺の子だ。いいセンスしている。」

 アジットは酔いも手伝って上機嫌だった。

「でもな、アシュウィン。その能力以上に大事なことは剣術を覚えることだ。

 こんな時代だ。人を操る力だけでは充分じゃない。

 アシュウィンも大人になったら、大切な人を守らなければならない時が来るからな。

 今は分からなくてもいい。

 とにかくそういうことだ。いいな?」


「うん……」


 アジットは長椅子から立ち上がると、壁際に立て掛けてあった模造の剣をアシュウィンに手渡した。

「ほら。

 剣はいつも自分の近くに置いておくんだぞ。剣が自分の体の一部になるように普段から身に付けておいて、いざという時に自然と操れるようになるのが剣士ってもんだ。」


「剣士?かっこいい。」

 アシュウィンは剣を頭上に掲げた。


「かっこいいだけじゃなくて、実力も身に付けないとな。

 よし、上段に構えて素振りだ。」

 アジットは剣術の型をして見せた。


「こう?」

 アシュウィンは見よう見まねで素振りをした。


「いいぞ。剣の軌道がブレていない。将来は大剣士になるかもな。

 アシュウィンが剣士として一人前になったら、本物の剣を渡すからな。」

 アジットは笑いながら、嬉しそうにワインを飲み干した。


 アシュウィンが一心不乱に素振りをしていると、暫くして、横からイビキの音が聞こえてきた。

 振り向くと、アジットが豪快にイビキを立てながら寝入っていた。


 アシュウィンが半ば呆れて、アジットの無防備な寝顔を見つめていると、母のアディティが現れて、アシュウィンに声をかけた。

「アシュウィン、お友達よ。」


 アシュウィンがアディティの方を見ると、アディティの背後からアシュウィンと同じ年頃の少女が顔を覗かせていた。


「あ、イーシャ。来てたの?」


「うん。今、来たとこ。

 アシュウィン、遊びに行かない?

 アシュウィンのお母さんもいいって言ってくれたわ。」


「行く、行く。」

 アシュウィンは模造剣を持つと上着を羽織った。


「その剣、持って行くの?」

 イーシャが不思議そうに聞いた。


「うん。僕は大人になったら大剣士になるから。」

 アシュウィンは剣を肩に担いでポーズをとって見せた。


「ふ~ん。何だか、カッコいいね。」

 イーシャはつぶらな瞳を輝かせてアシュウィンを見つめた。


「よーし、冒険に出発だっ!」


 2人は手をつないで家の外へ飛び出した。


「アシュウィン、何して遊ぶ?」


「う~ん、そうだなぁ。

 ちょっと、河原に行かない?」


「川遊び?いいよ。」

 イーシャは楽しそうにうなずいた。


 2人は、アシュウィンの家の裏の方を流れている小さな川の川原に着くと、岩を飛び渡るようにして川岸を走り回った。


 その後、アシュウィンは、持ってきた模造剣を使って、川に向かって素振りを始めた。

「エイッ、エイッ。」


 イーシャはアシュウィンが素振りをしている姿を楽しそうに眺めていた。


「イーシャもやってみる?」


「えっ?いいの?」


「いいよ。やってみて。」


「うん。こう?エイッ!」

 イーシャも見よう見まねで模造剣を振り回した。


 しばらくして、イーシャが模造剣を振りかぶった時、剣を自分の額に誤ってぶつけてしまった。

 そのぶつけどころが悪かったのか、額の傷口から出血して、真っ赤な血が流れ出てきた。


「イーシャ、大丈夫?」

 アシュウィンが心配そうに駆け寄ってきた。


「……うぇーん。」

 イーシャは痛さよりも顔に流れてきた血に驚いて泣き出した。


「早く家に帰ろう。」

 アシュウィンは泣きじゃくるイーシャを背負って歩き出した。


 ◇


 現在


「アシュウィン、聞いている?」

 マナサの透き通った声が、アシュウィンを現実に引き戻した。


「え?うん。

 そう言えば、俺が小さい頃、親父はよく、じいさんが変わり者だとか何とか言っていたよ。

 この国を変えるだとか、もっといい国にするとか、絵空事をよく言っていたって、親父はボヤいていたっけ。

 俺からすると親父も負けず劣らず変わっていると思うけど……

 だけど、ラーマの麒麟に入っているとか、そんな重要なことを俺なんかにしゃべって大丈夫なの?」


「これが私の答え。

 あなたがマントラを使えるようになったら、どの程度の能力が発現するのか、この目で見たくなったわ。

 あなたは、今、お父さんと一緒に住んでいないの?」


「ああ。親父は、俺がまだ小さい頃にどこかへ行ってしまった。

 つくづく無責任な親父だよ。」


「そうなの……

 ねえ、アシュウィン、この国を変えたくない?

 あなたのお父さんはアグリム大師が絵空事を言っているって思っていたみたいだけど、決して絵空事なんかじゃないわ。

 私たちは本気でこの国を変えようとしているし、変えることができると信じて戦っている。

 あなたは、あの少年に王の取り巻きが悪いんだと言っていたけど、今の王府についてどう思っているの?」


「王府について?

 ラムダン王は別に悪人じゃないと思う。

 と言うより、側近の操り人形になってしまっている。

 側近が利権を独占して私腹を肥やしているんだ。」


「そう、その側近がバジット卿を始めとした近衛兵団の幹部。

 私腹を肥やしているどころか、実質的にこの国を支配している。

 そして、厄介なことにバジット卿たちもマントラを使うの。

 私たちラーマの麒麟は、バジット卿が君臨している近衛兵団を壊滅させるために命を懸けている。この国を人民の手に取り戻すために。

 包み隠さずに言うわ。

 私たちの目的を成し遂げるためには、あなたの力が必要なの。

 アシュウィン、どう?

 マントラを習得して、私たちと共に戦う気はある?」


「この国のために?命を懸けて?」

 確かに今の俺は生き甲斐を求めているけど……

 これがその答えなのかな?

「マナサさん……

 突然、俺の目の前に現れて、じいさんがどうだとか、近衛兵団を壊滅させるだとか、そんなシリアスな話を聞かされても……

 俺の頭の中はとっちらかって整理が付いていない。」


「……そうよね。言われてみれば、その通り。

 事があまりにも大きすぎるものね。

 じゃあ、よく考えてみてちょうだい。

 私たちと共に戦う覚悟があるのか。

 また今度、その答えを聞きに来るわ。

 でも、私たちにもあまり時間がないの。悠長にしてはいられない。

 怪我人も出ているしね。

 日々、この国の人民は苦しみにあえいでいる。

 バジット卿たちが富を独占しているせいで。

 ……

 何か、私の都合だけで急に目の前に現れて、一方的に話をしちゃって申し訳なかったわ……

 ごめんね……」

 マナサは、席を立ちながら、これでもかっていう位に落胆した表情を作って、無念さを全身で醸し出してみた。


「……ま、待ってくれっ!」

 アシュウィンも立ち上がった。

「じいさんやマナサさんは俺を見込んでくれているんだろう?

 生まれてこの方、こんなに期待されたことなんて無かったし、この国を取り戻すために俺の力が役に立つなら、望むところだよ。

 今日、こうして来てくれたのに、もう一度来てもらうのも悪い……

 マナサさんを信じるよ。

 その話に乗った!

 俺もマントラを覚えて、この国のために戦う!

 なんだか口に出して言うと、俄然、やる気が湧いてきた。」


「本当にその覚悟は出来ている?一時の感情に流されないでよ。

 アシュウィン、やれる?」


「ああ、大丈夫だ。

 後悔はしないし、マナサさんに後悔もさせない。」


「そう、よかった。アシュウィンを信じるわ。

 じゃあ、握手。

 ラーマの麒麟にようこそ!」

 マナサは右手を差し出した。


「よろしく!」

 アシュウィンはマナサの右手を力強く握りしめた。


 その後、2人が喫茶店を出ようとすると、酔っぱらった男客が立ち上がって、2人の前に立ちはだかった。

「なぁ、ねえちゃん。そっちの男の用が済んだなら、俺たちと遊ばねぇか?」


 連れの3人の男たちも立ち上がって、ニヤニヤと笑っていた。


「おっさんたち、酔ってんのか?

 俺が……」

 アシュウィンが酔っ払いの相手をしようとするのをマナサが制した。


「何して遊ぶの?」

 マナサは笑みをたたえながら、目の前の酔っ払いに尋ねた。


「楽しけりゃ、何でもいいさ。お姉ちゃんの好きなことで。」

 酔っ払いは舌なめずりした。


 連れの3人もマナサの前に集まってきた。


 アシュウィンは成す術がなく、ただ成り行きを見守っていた。


「お店の中じゃ迷惑がかかるから、外で遊びましょうか?おじさんたち。」

 マナサはアシュウィンの袖を引っ張って喫茶店の外に出た。


 喫茶店の外へ出ると、マナサは酔っ払いの方を振り返った。

「じゃあ、おしっこ、しましょうか?」


「へっ?お、おしっこ?

 お、お姉ちゃん、昼間から過激なこと言うね。」


「……なんか勘違いしているんじゃない?

 ほら、こうして向き合って立って、両手を使って、相手の手を押したり、引いたりして、足が動いたら負け。

 やったことあるでしょ?

 押しっこ。」

 マナサはアシュウィンを相手に見本を見せた。


「いや、子供じゃないんだからよ。」


「私の好きなことでいいんでしょ?

 もし、あなたが私に勝てたら、あなたがしたいことをさせてあげる。」


「本当だな?たっぷりと可愛がってやるぜ。」


「私に勝てたらね。

 じゃあ、用意して。」

 マナサは酔っ払いに向かって手招きした。


「後悔させてやるっ!」


 さすがにアシュウィンは心配になってきた。

「マナサさん、そんなこと言って大丈夫?」


 マナサはアシュウィンを見て、ニコッと笑った。


 酔っ払いは目をギラつかせて鼻息が荒くなっている。

 俺様が華奢な女に負けるわけがない。

「よし、いいぞ。いつでもかかってきな。」


 マナサは両手の手のひらを広げて自分の両肩の前あたりに持ってきた。

「はい、スタート。」


 酔っ払いは右手でマナサの左手を力任せに押してきた。

「おらっ!」


 マナサは、即座に反応して、左手を後ろに引いて酔っ払いの右手をかわした。


 酔っ払いは、すかされたせいで前のめりになってバランスを崩しかけた。

「うおっと、あぶねぇ。」


「次で勝負がついちゃうかも……」

 マナサは酔っ払いの耳元にささやいた。


「なめるなよっ!」

 アルコール臭い息を吐いた酔っ払いは、左手で押すと見せかけて、もう一度右手でマナサの左手を押そうとした。


 マナサは、冷静に左手を引きながら、右手で酔っ払いの左手を絶妙なタイミングで外側に押し出した。


「ドカッ!」

 その瞬間、酔っ払いの体はコマのように縦に回転しながら、3メートルくらい後ろに飛ばされて、積み上げられていた木箱の山に激突した。


「えっ?」

 アシュウィンと酔っ払いの連れ3人は同時に声を上げた。

 マナサが酔っ払いの左手を押しただけなのに、酔っ払いがあんなに飛ばされたことに我が目を疑った。


「痛たたた……」

 酔っ払いは木箱の中から這い出してきた。

「このアマァ、何しやがるっ!」


「何って、遊んでいるだけでしょ?」

 マナサは楽しそうに言った。


「ふざけてんのかっ!」

 おちょくられていると感じた酔っ払いは、勢いに任せて、マナサに襲いかかってきた。


 マナサは、慌てることなく、殴りかかってきた酔っ払いの右腕を掴むと、右足で酔っ払いの右足を勢いよく払った。


 すると、酔っ払いの体は一回転して路上に倒れた。

「ぐっ!」


「あまり手荒なことはしたくないわ。そろそろお開きにしましょう。」

 マナサは踵を返すとアシュウィンの方へ歩き始めた。


「おいっ!逃げるなっ!」

 酔っ払いと連れの3人がマナサを追いかけてきた。


 マナサは、背後から抱き抑えようとする酔っ払いを、身を屈めてかわした。

 かわされた酔っ払いは、勢い余って、転がり倒れ込んだ。

 そして、後から来た連れの3人を次々と投げ飛ばした。


「まだ遊び足りないの?」

 マナサは真顔になって言い放った。


「か、帰るぞっ!」

 酔っ払いたちは、這いずるようにして逃げて行った。


「ふっ。」

 マナサは軽く息を吐いた。


 アシュウィンは、口を半開きにしたまま、そんなマナサをじっと見ていた。


「ん?何?」

 マナサは笑顔に戻ってアシュウィンを見た。


「……いや、さすがにお強いですね。」


「えっ?これでも訓練しているから。

 筋力の差があっても、相手の力や反動を利用することで、その差を埋めることが出来るのよ。それが戦闘術。

 アシュウィンも、マントラだけではなくて、戦闘術や剣術も体得しなくちゃね。」

 マナサは嬉しそうに言った。


「が、頑張ります……」

 アシュウィンは軽くめまいがした。


次回、マントラのトレーニングを始めます。


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よろしくお願いいたします。

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