第九話 面倒な事態
「百姓」
学校の廊下。
少女漫画だったらドスンドスンという効果音が貼られるような大股でまっすぐこちらへ向かってきたのは、赤髪ウェーブの悪役令嬢。神宮寺椿だ。
率直に言って、いまいちばん会いたくない人だった。
それには複雑な事情がある。
昨日までの椿は絵里咲のことを目の敵にしており、弓を向けて殺そうとした。そのとき身を守るために主人公チャームを使ってしまったところ、惚れてしまったらしいのだ。
「百姓じゃなくて絵里咲って呼んでください。なんのご用ですか?」
周囲の学生たちがざわめき出した。
この学校で最も畏れられる女性である椿がただの百姓である絵里咲に話しかけたので、無駄な注目を集めている。
どんな罰を下されるのでしょうとか、どうやって殺すつもりなのだろうかとか、物騒なささやきが聞こえてきた。
だが、絵里咲にはこれから起こることをある程度予想できていた。
椿の目的は、絵里咲と逢引に行くことだろう。
主人公チャームによって恋に落ちた者が、初めにとる行動はおおよそ3パターンだ。
積極的に逢引に誘うか、逢引に誘ってもらえるように話題を誘導してくるか、好きすぎて回避するか。
絵里咲の見立てでは、椿は二番目のタイプ。逢引を誘われるように仕向けてくると見た。プライドが高い椿は百姓に惚れたという事実をまだ自分で呑み込めておらず、自分の口から逢引したいとは言うことができないだろう。そんな深層心理が働いて、絵里咲に誘わせようとする。いわゆる誘い受けといわれるタイプである。
だから、次の瞬間に椿の口から飛び出した言葉には度肝を抜かれた。
「明日、結婚しますわよ」
「……え? どういうことですか?」
椿は、結婚がさも当然であるかのように、鎖骨あたりに手を当てて言った。
ゆるやかなカーブが来ると待ち構えていたから、照れも恥じらいもないストレートの剛速球を顔面に喰らった格好である。ふらりと後ろに倒れそうになった。
「聞こえなかったのならもう一度申し上げますわ。結婚すると言ったのです」
「……ええぇぇぇぇ‼」
耳をそばだてていた学生たちがザワザワと騒ぎ出した。当然である。公衆の面前で貴人が百姓にプロポーズしたのだから。
「あなたは耳が遠くて?」
「聴こえたから驚いたんです!」
「なら呑み込みが遅いですわね。その頭の回転の遅さ、これから武人の家系に加わろうという者にとっては致命的ですのよ」
「武人の家系に加わるとは一言も言ってませんから!」
すると、椿は切れ長の目をぱっちりと開き、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、さも不思議そうに訊いた。
「な、なぜですの?」
もしかして天然なの? と疑った。
「いきなりすぎるからですよ!」
ゼェハァと肩で息する絵里咲。ツッコミ疲れてしまった。
「ならば来月にしますの?」
「そういう問題じゃないです!」
やっぱり天然だ。と思った。
「ではどういう問題なのです?」
「結婚はお互いの合意があって成り立つものです。あたしは椿さまと結婚するつもりはございません」
「な、なぜですの?」
「なんでそこで驚くんですか……」
もしかしてこの悪役令嬢はド天然なのか、と頭を抱えた。
だが、不思議なことに周囲から聞こえる話し声のほとんどは絵里咲を非難するものだった。曰く「椿さまとの結婚を断るなんてどうかしてる」「私だったら絶対受けるのに」「打首ものよ」。まるで、結婚は当然受けるべきとでも言いたげだ。
首をかしげて、自分がおかしいのかもしれないと思いかけたが、やはり絶対に違う。おかしいのは周囲だ!
「よろしくて? 百姓。わたくしの家ではわたくしの言うことが絶対。物言いは許されませんのよ」
「ここは学校です。椿さまの家ではございません。あと、百姓じゃなくて絵里咲って呼んでください」
「絵里咲。百姓風情がわたくしとの結婚を断れるとお思いですの?」
「断ります。何人にも結婚を強制する権利はありません!」
「ありますわ。わたくしは大老の娘。百姓一人を殺すも生かすも結婚するも、お茶の子さいさいでしてよ」
「お茶の子さいさいって……」
――話が通じないわねぇ……
だが、話を聞いているうちに、椿がなぜ当たり前のように結婚できると思っているのかがわかってきた。
この世界の人々にとって身分制度は絶対で、上の人が言ったことには逆らえないのが当たり前なのだろう。武人が未婚の百姓に結婚すると言ったら、もう結婚は確定なのだ(現実の江戸時代で百姓と武人は結婚できなかったが、花園時代では違うらしい)。
それに、ひとつ上の身分階級と入籍すれば、その家族の身分も上がる。だから、家族にとっても結婚を断る理由も無い。この時代の結婚は本人のためではなくて家族のためだから、本人が武人を好こうが好かまいが結婚は成立する。
そんな常識で生きている人たちから見ると、異常なのはむしろ絵里咲のほうなのだろう。
と、そこまで推察したところでようやく状況が呑み込めた。意見を譲るつもりはまったく無いが。
「結婚する覚悟は固まりましたの?」
「いや全然……」
「驚かしてしまいましたわね。ではゆっくり考える時間を差し上げますわ」
「わかりました。たぶんお断りしますけど」
「三日待ちますわ。それまでに婚籍書に名前を書きなさいな」
「書きませんよ⁉ さり気なく選択肢が一つしかないじゃないですか!」
「諦めなさいな。どのみち結婚はしますのよ」
う~~んと唸りながら頭を抱えた。
どうすればこの無理矢理すぎる結婚を断ることができるのだろうか。
「でも、椿さまは嫌がっている相手と結婚するのって楽しいんですか?」
「嫌がっている相手と? ――ふむ。それも悪くありませんわね」
「ヒィィィ――」
椿はまるで萌えシチュエーションを妄想する腐女子のように頬に手を当て、悪辣な笑みを浮かべた。絵里咲は思わず両手で自分の肩を抱き、身を守る姿勢を取った。
「と……ともかく。誰かと無理やり結婚させられるくらいなら殺されるほうがマシです」
「死より苦しいことなどそうそうありませんのよ」
「じゃあ気軽に弓で百姓を殺さないでください!」
「そうですわね。絵里咲がやめろというなら、次から急所は外しますわ」
「人を射つ前提で話さないでください! そもそも人を射っちゃだめですからね‼」
「場合に依りますわ」
「依りません! 絶対依りませんから‼ まずは弓で人を射つのをやめてください」
「う~~~ん……」
「そんなに悩むことですか? 悩みますかね?」
椿はたっぷり五秒考えて、言った。
「やめたら結婚しますの?」
「し~ま~せ~ん!」
「やかましいですわね」
「な……なんですか」
椿は絵里咲の目と鼻の先まで歩み寄った。その目線は絵里咲よりも拳一つぶん高く、近付かれると肉食動物に見下されているリスのような気分になった。
――なによ……。脅すつもり?
身構える絵里咲。だが、戦っても勝ち目がないのは分かっている。
睨みつけるのは精一杯の虚勢だった。
「もう一度言いますわ。わたくしと結婚しなさい」
視界いっぱい大迫力になった椿は、低い声で言った。最後通牒とも受け取れるような言い方だった。
「……お断りします」
椿は鋭い眼光で絵里咲を睨みつけた。断られ続けて、我慢の限界なのだろう。
負けじと絵里咲も睨み返す。悪役令嬢と結婚なんてぜったいにしないから! という決意を込めて。
睨み合って数十秒もすると、怖いと思っていた椿の顔にだんだん見慣れてきた。まず最初に目についたのは鼻だった。典型的なローマ鼻で、スッと鼻筋が通っている。顔の輪郭は卵型で、顎は細く締まっている。まともなスキンケア用品も無い時代なのに、頬の肌はこれ以上くらいきめ細やかだ。これだけ綺麗だと肌トラブルとは無縁なのだろうと羨ましくなる。
観察しているうちに、無駄に顔が怖いのは口を引き結んだ表情と怒り眉のせいだとわかった。それさえ無ければ絵になる顔立ちだ。表情さえ緩めれば、雑誌の表紙を飾るかもしれない(この時代に雑誌なんて無いが)。
――やばいかも……。これ以上見てたら……
じっと見ているうちに、いちばん怖いと思っていた目すらも、二重がぱっちりとしたアーモンド形だということがわかった。かっこいいとかわいいという形容詞が両方似合いそうな紅色の瞳をずっと見ていると、吸い込まれそうになった。
大っ嫌いな悪役令嬢の顔を見ていただけなのに、だんだん顔が熱くなってきた。それでも、目を逸らしたら負けだと思って椿の顔を見続けた。
敵意が籠もった睨み合い。先に目を逸らしたのは椿だった。
そっぽを向いたまま言う悪役令嬢。その頬はやや紅潮していた。
「その挑戦的な態度、おもしろいですわ。簡単に手に入らない財こそ、手にした喜びは一入ですの」
おもしろがられてしまった。
「う~ん。でも、なんであたしにそこまで執着するんですか? ほかに綺麗な人がいっぱいいるじゃないですか」
「絵里咲が誰よりも美しいからですのよ。その美貌は天下の神宮寺たるわたくしに相応しいですわ」
「え、あたしそんなに綺麗ですか?」
そこまで聞いて、椿が自分に惚れたのは乙女ゲームの呪いのせいだということを思い出した。褒められたのは素直に嬉しかったぶん、なんだか悲しくなった。
「不安であればわたくしの部屋にいらっしゃいな。どれくらい綺麗だと思っているか教えて差し上げますわ」
「いえ結構です。……もうそろそろ授業始まりますよ! 教室に向かわれたらどうですか?」
「そうやって厭と言うのも今のうちだけ。明日にでもわたくしに夢中になりますわ」
「絶対なりませんから」
椿が踵を返して教室に向かうのを見送ると、絵里咲は深いため息を吐いた。
主人公チャームを使ったせいで、とんでもなく面倒な事態に発展してしまった。これから毎日のように熱烈すぎるアプローチをされるくらいなら、主人公チャームを使わずに射殺されていたほうが楽だったかもしれないとすら思った。
呪術の授業で椿と教室が違うのは幸いだった。一緒だったら邪魔されて集中できなくなるだろうから。