第七五話 追及
京へ帰った絵里咲は、朱雀門学校の七階にある流々子の部屋に来ていた。
絵里咲が来たのはこれで四度目だ。いつもこの部屋の敷居をまたぐときには胸を踊らせていたのだが、今回は状況が違う。絵里咲の顔はいつになく曇っていた。
流々子と再会するのは、実に一月ぶりである。彼女は、菖蒲の葬儀に現れなかったのだから。
「流々子さま」
「……」
入口から呼びかけても、流々子は答えなかった。
美しい黒髪を垂らした背をこちらに向けて、ただ掛け軸をじっと眺めている。
「流々子さま。聞こえてますよね」
「……」
「菖蒲さまがお亡くなりになりました」
再三の呼びかけにも、返事はなかった。
不自然なほど整った部屋に、ただ重い沈黙が流れる。
「……菖蒲さまは、流々子さまを本当の姉のように慕っていたんですよ」
「……」
絵里咲は痺れを切らし、
「――こっちを見てください‼」
と叫んだ。
「あの世で安らかなるよう祈るわ」
「あの世なんてありませんよ。死んだら終わりなんです」
「見てきたように言うのね」
「ええ。知ってますから」
ここはゲームの中の世界だと、絵里咲は知っている。死んだ人間は、記憶領域から人格データが削除されるだけ。魂も無ければあの世もない。
「それは博識ね」
「……訊きたいことは一つです。それが終わったら帰ります」
「どうぞ」
「どうして葬儀に来なかったんですか?」
数秒間の沈黙。
菖蒲の葬儀に来なかった流々子には、正当な理由があった。絵里咲はかすかにそんな期待をしながら、答えを待った。
だが、沈黙が数十秒になっても、流々子は質問に答えなかった。
答えの代わりに一言、「絵里咲」と呼びかけられた。
「はい」
「昨日、英国公使館が完成したわ」
「そうですか」
「明日から業務が始まるそうよ」
「それ……今の話に関係ありますか?」
「もちろんだわ。貴女にも明日から働いてもらうのだから」
「はぁ?」
「厭かしら」
「……厭に決まってるじゃないですか」
「どうして?」
「わかってるでしょう! そんな気分じゃないからです!」
まるで流々子を責めるような口調になった。流々子を責めるような気持ちでもあった。
それに気付かない流々子じゃない。
ただ、質問して真正面から答えてくれないのも流々子だ。
「絵里咲。貴女がいなければ、英国人と蘭国語で交渉することになるわ」
「そうらしいですね」
「蘭国語で話せば、擦れ違いがたくさん生まれるの」
「英国語で話したって……和国語で話したって、擦れ違いがたくさん生まれるじゃないですか」
「そうね。でも、蘭国語で生まれる擦れ違いはもっともっと大きいわ。大きな擦れ違いが積み重なれば、簡単に戦争が起こるの。――貴女の気が乗らなかったせいで椿や茶々乃、お雛が死んだとき、後悔するのは誰かしら」
「……その上等な話術であたしをけしかけるおつもりですか?」
絵里咲の声には低い怒りが滲んでいた。それは、百姓が藩主の娘に対する態度として許されない、打首になってもおかしくないほどのものだった。絵里咲にはその覚悟があった。それほどまで、流々子が菖蒲の葬式に来なかったことを責めたかった。
だが、流々子の態度は一貫していた。
「――それに、いまの貴女に必要なのは英国人の知人ではなくて?」
「……どうしてですか」
「和国人は拳銃を使わないでしょう」
菖蒲を撃ち殺したのは拳銃。それを使う人々は――
「――ああっ。そっか」
「明日の正午に私の屋敷から駕籠が発つわ。老中以下の藩士一同、通訳の到着を待っているわね」
ずっと掛け軸を見ていた流々子が、初めて美しい顔でこちらを振り向いた。その表情のどこにも悪意があるように見えなくて、それ以上責める気持ちにもなれなかった。
絵里咲が部屋に入るときには、流々子と初めての口論に発展することを覚悟したが、やはり丸め込まれてしまった。




