第七四話 真の友人
「椿よ」
そこに現れたのは、大老・神宮寺歳実だった。銀色の癖毛が印象的な初老の男性だ。頬や額に刻まれた皺が貫禄を放っているが、白い眉毛の下の目はエレガントな丸みを帯びており、彼が若いころは相当な美形だったことがうかがえる。
椿は、絵里咲の肩に回していた右手を離して、申し訳無さそうに言う。
「父上……。わたくし……守れませんでしたわ」
「菖蒲が御前を守ったんだろう? 銃口を向けられていた御前の前に、菖蒲が飛び込んだそうじゃないか」
「ええ。――死ぬべきは菖蒲ではなく、わたくしでしたわ」
「死ぬべきだったのは菖蒲だ。姉を守って立派に死んだ。その名誉に能うのがこの子だ」
歳実は棺桶の中の菖蒲を見遣った。
「……その通りですわ」
武人の世界では、早逝を悲しむ一方で、死ぬべきときに死ねないことを残念に思う習慣がある。
「……千里眼ですの」
「ああ」
ゲームをプレイした絵里咲は千里眼を知っている。
『肇国桜吹雪』の千里眼は、一般的に使われる意味とは少し違う。神宮寺に生まれた者に受け継がれる、超自然的な目のことである。千里眼を持った者は、周囲をあらゆる角度から見ることができるという。千里眼を持つ者は壁の裏に隠れている敵を見つけたり、背後から迫る敵に気付いたりといった危機察知が得意だ。
「菖蒲には千里眼がありましたの。だから、わたくしを庇ったんですのよ」
「そうだ。菖蒲は神宮寺だからな」
「わたくしにはありませんの。……神宮寺の長子でありながら、千里眼も、呪力も受け継ぎませんでしたのよ」
「私にもないさ。元は神宮寺ではないからな。それでもこうして那古野を治めている」
神宮寺歳実は、神宮寺家に生まれたわけではない。椿の母である神宮寺巴の家に婿入りしたのだ。
先代藩主だった神宮寺巴が死んでからは、正当な後継者である椿の準備が整うまで、歳実が藩主となっている。
「御前には弓がある。千里眼はなくとも、鷹の目がある。手にした札を能く使いなさい」
「はい。父上」
歳実は椿の震える肩を優しく抱きしめた。
「……門前には参拝客たちが集まっている。雨の中、日夜馬を鞭打って駆けつけてくれた真の友人たちだ。那古野の次期藩主として、厳かに妹を悼みに来た客たちを迎えてきなさい」
「……お任せなさいな。父上」
椿は血まみれになった左手を手拭いで包むと、出口へ向かった。
絵里咲もついていこうとするが、
「御前にも話がある」
歳実に引き止められた。
「あたしにお話ですか? ……いったいなんの御用でしょう」
「御前は古読絵里咲だな? 椿に求婚を試みたという」
「あ……はい。その節は、ご協力いただき誠にありがとうございます」
「娘のためなら天気くらい変えるさ」さらっとすごいことを言う歳実。娘を溺愛しているこの父親は、椿が傍若無人に育った原因と無関係ではないだろう。「激動の時代、椿に降り注ぐ艱難辛苦はこの一件だけでなかろう。あの子にはこれからも数多くの厄災が降りかかるはずさ」
さらなる艱難辛苦が降り注ぐというのは本当だ。なんたって、椿はあと二年半以内に死ぬのだから。
「……そうですね」
「御前はそれでも椿を守る覚悟はあるか?」
「……はい。最後まで守りきります」
「そうか」
歳実の言う「守る」がどれくらいの範囲を含んでいるのかわからなかったが、絵里咲は少なくとも何割かは本気だった。
絵里咲が力強く答えたのを見ると、歳実は満足気にうなずいて出口へ向かった。
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葬儀が始まった。
結局、銀代神社には千名を超える者たちがお悔やみを告げるために集まった。
『肇国桜吹雪』の世界は、神社で葬式が行われる。仏閣の勢力が弱いためだ。
神前葬では、お経ではなく祝詞が読み上げられる。
黒い服を着た神官が大きな声で祝詞を唱えるのを、絵里咲は心ここにあらずといった様子で聞いていた。
祝詞の詠唱が終わると、次は弔文を読む時間になった。弔文というのは、生前に関わりのあった人々が天界へと登る霊に向けて伝える別れの挨拶である。
「菖蒲殿を慕う那古野藩士たちはもちろん、遠くは火護、みちのくまで、天下中より集まった貴人・勇士の面々が菖蒲殿が生前に築いてきた功徳を象徴しているといえよう」
月並みな追悼文を読み上げるのは、次代将軍である石上月成。
菖蒲の葬式に参列するため、京から馬を走らせてやってきたのだ。
次代将軍が直々に参じるというのは、幕府が最高レベルの敬意を表していることを意味する。
「菖蒲殿は利発にして闊達。勤勉にして無欲。その呪術において並ぶものなしとの名声は、天下に余さず轟いていた。なによりその人格において彼女より立派な者を、我々の誰も知らない」
「回帰の果に再び見えんことを」
「「回帰の果に再び見えんことを」」
次から次へと、弔文が読み上げられる。各地の将軍や、各藩主から届いていた。
だが、他のことに気を取られていた絵里咲には、彼らが読み上げる感動的な言葉がまったく頭に入ってこなかった。
次代将軍が話している最中も、不敬であることを意にも介さず、絵里咲はずっと首を振って会場内を見回していた。あの人を探し続けた。
菖蒲はあの人と幼馴染で、いつも憧れていた。
菖蒲はあの人に褒められるため必死に呪術を練習した。
菖蒲にとって、世界の何割かはあの人だった。
そんな彼女が、どこにもいない――会場のどこにも、流々子がいない。




