第七三話 神前葬
「……椿さま」
墨で染めたように黒い喪服をまとう悪役令嬢は、棺桶の前で立ち尽くしていた。その細い背中は、絵里咲の呼びかけにも微動だにしなかった。
那古野城の近くにある銀代神社の御堂は三百人を収容できる。那古野藩の神社の中でも最大の収容人数を誇るため、那古野で死んだ大抵の武人や貴族の葬式はここで行われる。だが、菖蒲の葬儀には広い和国じゅうから数多くの貴人たちがやってくるため、参拝客を全員収容するのに十分な広さではない。
絵里咲は何者かに後頭部を殴られて失神したが、数時間後に目を覚ました。目を覚ましたときには、菖蒲の遺体は呪術師による防腐処理が始まっており、対面することはなかった。
絵里咲は棺桶の中を覗き込む。
菖蒲が撃ち殺されてから三日経ち、初めて見る菖蒲の亡骸。
呪術によって新鮮なままに保たれたままの体が、棺の中に横たわっている。彼女の肩を叩けば、瞼が開くような気がした。遺体を目の前にしても、心のどこかで菖蒲が死んだという事実を疑っていた。
「まるで眠っているみたいです」死化粧をほどこされた菖蒲の顔は、あまりにもいつもどおりだった。「肩を揺すったら目を覚まして冗談を言い出しそう」
椿はなにも言わず、沈黙が続いた。
安らかに眠る菖蒲の顔を見ていると、視界がぐにゃりと歪んだ。目頭から壊れた水道のようにぽろぽろと涙がこぼれ、過呼吸気味になってしまった。
慌てて手ぬぐいで目元を抑えた。
菖蒲が死んで以来、絵里咲の精神は極度に不安定だった。
夜、仰向けになると、暗い天井に口から血を吹き出す菖蒲の顔が映るようになった。深夜には銃声が聞こえて叫び声を上げることもあった。
幻覚や幻聴は、精神が酷く蝕まれているサインである。たとえここが呪術の世界であっても、よい兆候ではない。
――ぴちゃっ ぴちゃっ
水が滴る音が聞こえた。
絵里咲は涙をこぼしていない。
椿も泣いていない。
また幻聴か。そう思った。
――ぴちゃっ ぴちゃっ
音は止まなかった。
椿の足元に水が滴っていた。
固く固く握りしめられた椿の左手から水が滴っていた。
白い肌は真っ赤に濡れていた。
「椿さま……ダメですよ。痛いですよ……」
絵里咲は椿の左手をとって、固く握りしめた指を一本ずつほどいた。
爪が掌に食い込んで、血が染み出していた。
椿の指をほどくと、絵里咲の手も血まみれになった。
絵里咲は椿の手の甲を握った。
「絵里咲」
「はい」
「わたくしは菖蒲の命を奪った夷人をこの手で捕らえますわ」
「……」
菖蒲は拳銃で殺された。和国で拳銃を持っている者はほとんどいない。犯人は外国人であろうと噂されていた。
「その首を、この手で斬り落としますわ」
絞り出すように、消え入りそうな声で言った。
「椿さま……」絵里咲は姉を失ったことがある。同じように拳銃で撃たれて死んだ。同じような経験をした身として、気持ちは痛いほどわかった。「あたしが犯人を捕まえます。捕まえて、椿さまの前に首を引きずり出してみせます」
「……絵里咲。貴女にそうする義務はありませんのよ」
椿は絵里咲の肩に手を回した。血が滴っている左手の血が絵里咲の服につかないように、右手だけを。
「開港したのが間違いでしたわ……。武人として、藩主として、わたくしは夷人を大切な人から遠ざけるべきでしたのに……」
「開港は間違いじゃないです。菖蒲さまも楽しみにしていたでしょう?」
楽しそうに英国語でケーキを買っていた菖蒲が、絵里咲の脳裏に浮かんだ。
「その菖蒲はもういませんの。もう、夷人にはわたくしの土地は踏ませませんわ」
「椿さま……」
那古野では攘夷論が高まり、武人が外国人を襲う事件が相次いだ。外国人たちは刀で殺されることを恐れ、母国に帰るか他の都市に移るかして、全員が退去してしまった。栄えていた外国人居留地は、もぬけの殻となった。
再び那古野を開港することは不可能だろう。




