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第七ニ話 割れたラスク

「絵里咲にはここから見える綺麗な夕焼けを見せたかったのですけれど。生憎ですわね」


 椿は、となりにいる絵里咲に向けて哀愁を込めて呟いた。

 カッコつけちゃって、と思いながら


「また来ればいいですよ」


 と返した。


 二人が立っているのは海沿いにそびえる崖の上だ。どこまでも果てしなく広がる雄大な大海原が見渡せる。

 本来なら太陽が水平線に沈み、美しい夕焼けが見える時間であろう。だが生憎、本日の空はどんよりと曇っていた。


「ところで、この人集(ひとだか)りはなんですの?」

「変ですかね?」

「変ですわよ!」

「そうですかねぇ……」

「そうですわよ! しかも、皆わたくし達から妙に間合いを取っていますし」


 椿が言い及んでいるのは、絵里咲と椿を囲っている大きな人垣である。老若男女問わず、総じて数百人もの人が海沿いに立つ二人の後ろを扇状に囲んでいる。人々はまるで半径五メートルに線が引かれたように距離を置き、半円の内側を一歩も侵さない。

 これを奇妙に思わないはずがないが、絵里咲は彼らがなぜ集まっているのかを知っていた。

 彼らはただの野次馬である。絵里咲が椿に求婚するという噂を聞きつけて集まってきたのだ。


――誰が言いふらしたのかしら……!

 

 不審に思って人混みを眺めてみると、その中に菖蒲(あやめ)が混ざっているのを発見した。彼女は商人風の薄い着物に水玉模様の頭巾を被って変装していた。すかさず睨みつけると、テヘッとでも言いたげに舌を出した。絵里咲がこの丘で求婚するという情報を漏らした犯人は、彼女で間違いない。これだけ噂が広まるのは想定外だったのかもしれないが。


「そうですか? 普通だと思いますよ」

「普通じゃありませんわよ。さすがのわたくしだって逢引の最中にジロジロ見られると恥ずかしいですわ!」


 この場で唯一事情を知らないのは椿だけである。


「逢引じゃないけど恥ずかしいですね」

「それに、なぜわたくしたちから妙な距離を取っていますの?」

「椿さまが恐いからですよ。近づいたら殺されるんじゃないかって」

「近づいたくらいで斬ったりしませんわ!」

「斬られることより射たれるのが恐いんだと思います」

「失礼な! 藩民は射ちませんわよ!」

「藩民以外も射っちゃダメです!」


 くだらないことで騒いでいると、後ろの藩民たちがケラケラ笑っていた。那古野は藩主と藩民の距離が近い。


 藩民たちは藩主の子どもたちに親心のような感情を抱いているという。椿が生まれたというニュースに大喜びした記憶が残る大人たちにとっては、結婚という大きな一歩を踏み出す彼女が可愛くて仕方がないのだろう。どれだけの年月が経っても、かわいい子どもはいつまでもかわいい子どものままだから。これから先、椿が藩主になったとしても彼らの感じ方は変わらないはずだ。


――あたしはこの曇天(どんてん)の海を見ながら求婚するのか……


 遠くの海を眺めていると、不思議な光景が見えた。町から数え切れないほどの光球がウミホタルのようにゆらゆらと浮かび上がり、それらは導かれるように西の空へ向かった。魔法のない現実世界ではあり得ない不思議な光景だった。


 光球は次から次へと現れ、やがて空を覆い尽くすような光の波になった。全天を光の波が踊る様子は、金色のオーロラという表現がぴったりだった。


 この世界に魔法があると知っていても、信じられない規模の奇跡だった。


 視界を埋め尽くすような光の波は西の地平線で収束し、まるで鉄の扉のように空を覆い隠していた雲の塊をこじ開けた。光によってこじ開けられた雲の隙間からは眩しいオレンジ色の夕陽が差し込み、世界の色が一変した。目に映るすべてのもの――海や町、そして椿の顔がオレンジ色に染まった。


「なんですの……? これ……」


 絵里咲は呆気にとられて、椿の言葉に反応することができなかった。事前に天気を操る呪術が発動すると知らされていたにも関わらず、実際に目にした呪術のあまりの規模の大きさに腰を抜かしてしまいそうだった。


――ああ! 言わないと!


 これだけ大きな天体ショーを起こすために、どれだけの労力が掛かったかわからない。たった一日の準備期間で空を晴れさせるだけの大魔術を発動させるためには、那古野に居るほとんど全ての呪術師の協力が必要なのではないだろうか。

 ということはつまり、椿の結婚を祝うためには自らの生命力である呪力を浪費することを惜しまないという呪術師が、那古野にはたくさんいるということである。

 海の向こうに浮かぶ、呪術によって人工的に創り出された幻想的な夕陽に、那古野における椿の存在の大きさを感じた。


 絵里咲は、自分の肩に重い重い責任がのしかかっていることを感じながら婚約者の名前を口に出そうとすると……


「つっ……」


 緊張で声が裏返ってしまった。


「……絵里咲? どうしましたの?」


 椿は困惑気味だったが、


「つっ……つばきさま‼」


 絵里咲がハッキリと名前を呼ぶと、まるで何かを悟ったように


「……はい」


 と返事をした。


 まるでおもちゃのラッピング紙を破るときの子どものように、唇を噛み締めて待ち望んだ瞬間が訪れたことを確信した椿の顔は、意外とかわいいなと思った。つり目気味の瞳は夕陽を反射して、いつになくキラキラしている。


――シンプルに……。シンプルに……。


「あ……」


 緊張して、過呼吸気味になり、いつもできていることができなくなる。自分って本当にダメだなと思いながら


「あたしと…………」

「あたしと?」

「あたしと………………」


――結婚してくださいって言うだけなのに!


 さきほどまで動物園のようにうるさかったギャラリーは、絵里咲の次の一言を待って、しんと静まっった。ただ、ザザーッという波の音だけが聞こえる。


 どうして惚れられた側の自分がこんなに緊張しなきゃいけないのよ、と不満に思いつつ、自分の気持ちがどこか高揚していることも自覚していた。


「あたしとけっ…………」


 運命の言葉を口に出そうとした、その瞬間――


「――姉上っっ! 危ないっっっ‼」

「えっ?」


 ギャラリーの中から一つの人影が飛び出してきて、勢いよく椿に覆いかぶさった。その人影が被っていた水玉模様の頭巾は、野次馬に紛れていた菖蒲が変装のために被っていたものだ。


 椿が地面に押し倒されたその瞬間――「パンッ」っと、まるで巨大なラスクを叩き割ったような音が響いた。どこまでも聞き覚えのある音だった。


「菖蒲………………」椿が深刻そうに言った。「――菖蒲ぇぇぇぇっ‼」


 菖蒲は崩れるように倒れ込み、椿はその体を背中から抱き支えた。

 彼女が纏っている水色の着物の背部から、血液が放射状に染み出していた。


「菖蒲さま……」


 その場にいる誰もが、状況を飲み込めないでいた。


「姉上……。お怪我は……ありませんか?」

「菖蒲……! ――貴女……血が……!」


 菖蒲は口からも滝のような血を吐くと、それから喋ることはなかった。

 椿は腹の底から突き上げるような声で、何度も菖蒲の名を呼んだ。その咆哮(ほうこう)は本物の獅子のようだった。



     ●○● ○●○ ●○●



 絵里咲は咄嗟に、銃声がした方を見た。そこに、いかにもといった風貌の人影があった――黒いマントに身を包んだ、シルクハットの男。

 絵里咲と黒マント男の目が合うと、黒マントは人混みに紛れて走り去ろうとしていた。


「――――待てぇぇぇぇぇ‼」


 絵里咲は持てる力を振り絞って地面を蹴り、人混みに突っ込んだ。男が消えた方へ野次馬を力任せに押し退けながら進むが、いかんせん人が多すぎる。銃声でパニックになった群衆は逃げ惑い、何度も足や腹を蹴られながら走った。男の足音を頼りに、人混みをかき分け続けた。


 人混みは末永く続いており、那古野の港あたりまで来ると、ようやく視界が開けた場所に出た。だが、黒マントの男の姿を見失ってしまった。


――どこだっ⁉


 辺りを見回しても、それらしき人影は見当たらない。何かヒントがないか、首を振って必死に探した。

 絵里咲のすぐ目の前には外国人居留地の入口があった。


――外国人居留地(このなか)か‼


 外国人居留地は小さな人工島になっており、そこへ続く橋から和人が侵入しないよう、二人の武人が警備のために立ちふさがっている。ただいまの警備にあたっているのは、洋装した和人だった。


 絵里咲は警備している男の脇を無理やり抜けて押し通ろうとしたが、太い腕で静止された。


「通して‼」

「許可証を見せろ」

「そんなの無いわよ!」

「なら通さないさ」

「緊急なのよ‼」

「駄目だと言っただろう! 例外はない」

「拳銃を持った黒いシルクハットの男を追いかけてるのよ! いまここを通らなかった⁉」

「外国人の男はほとんど拳銃を持った黒いシルクハットだ。帰れ」

「おねがい……時間がないのよ……!」


 こうしているあいだにも菖蒲を撃った犯人は遠くへ逃げている。これ以上警備に足止めされていれば、黒マントがどこか家の中へ隠れて、着替える余裕を与えてしまうだろう。


――……そんなことは絶対にさせない!


「――命令よ! 今すぐ通しなさい!」

「ダメだ。和人と外国人の争いが起これば、那古野港は閉鎖されるかもしれないんだぞ」

「もう争いは起こったのよ! 菖蒲さまが拳銃で撃たれたの……撃った犯人がこの中にいるのよ!」

「しつけえな。殺されてえのか⁉」

「……あたしは貴人だから中に入れるはずよ」

「何を言ってるんだ? 気でも触れたか?」

「最後通告をするわ。()()()()椿()()()()()()()()()()()()()――いますぐここを通さないと、あたし自ら手打ちにするわよ!」


 絵里咲はレイピアの(つか)に手を掛けると、ドスを利かせて言った。それはまるで、怒ったときの椿のような声だった。


「黙れ狂人‼ 椿殿はご成婚されてなぞおらん‼ 下卑(げひ)た妄想もいいかげんにしろ‼」

「通さないなら力ずくで――」


 絵里咲がレイピアを抜こうとしたその瞬間、後頭部をハンマーで殴られたような衝撃が襲った。耐え難い激痛が走るとともに体から力が抜け、視界が暗転した。

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