第七一話 不安
那古野の海沿いは、たった一ヶ月で見違えるように変わった。
外国人居留地は小さな半島のように海へ突き出した陸地となっている。そこには、それぞれ数百人もの英国人・仏国人・普国人、そして僅かな米国人といったありとあらゆる国籍の商人や外交官たちが居を構え、通りは活気づいている。外国人商人のほとんどは、冒険意欲が旺盛な若者だ。困ったことに彼らは血気盛んだから小競り合いが頻発し、いつ国際問題になるかとヒヤヒヤしている。
那古野港の建築が急速に進んだのは、和洋双方に有能な建築家が揃っていたからである。以前、椿が手打ちにしかけた杉原という男の貢献も大きく、過酷な建築現場の精神的支柱だったという。
「(これはこれは、菖蒲お姫さま。ご調子はいかがです?)」
「(最高です! 今日はキャロットケーキを三つくださいな)」
「(毎度あり~。またいらっしゃってくださいね)」
「(ありがとうございます。いつも美味しいです!)」
ケーキ屋で働く英国人のおばさんと英国語で喋っているのは、神宮寺菖蒲である。絵里咲はその様子を見て目を丸くした。たった一ヶ月で、店で注文するくらいならお手の物になっている。違う言葉で話すのが楽しくなってきているようだ。吸収が早い。
「ようやくお休みですねぇ」
「ええ」
今日は、絵里咲にとって那古野に来てから初めて一日じゅう何も仕事がない日だった。那古野港における絵里咲の役割はこれで終わりだ。
今日から三日間は京への旅の準備をする時間となる。
三日後には京への帰路につき、七日後には夏休みが終わって朱雀門呪術学校の授業が始まる。
仕事から開放された絵里咲は、自由行動が許されている。めいっぱい羽根を伸ばすために街を散策していた。外国人居留地へ入るためには特別な許可証が要る。一般の和国人は外国人居留地にふらりと入ることができないのだが、実際に入ることができているのは菖蒲と一緒にいるからだ。
「でも、絵里咲お姉さまも姉上も、明後日には京へ行ってしまうのですね」
「残念です。ようやく那古野の雰囲気にも慣れてきたところなのに」
那古野に来たばかりのころ、絵里咲の目には那古野人が激情家で、乱暴で、他所者嫌いだという風に映っていた。毎晩浴びるように酒を飲み、肩がぶつかれば激しく怒り、外国人や他所者の絵里咲にはキツく当たる。そんな那古野の人たちのことが最初は苦手で、こんな土地に嫁ぎたくないと思っていた。
だが、いくつかの要因が重なったことで、絵里咲の気持ちは変わっていった。
激情家ということは、裏を返せばあらゆることを真剣に考えるということであり、排他的ということは、自分たちの仲間を大切にするということでもある。那古野の人々が苦手なのは変わらないが、時間が経つにつれて那古野人の良いところも見えてきた。
そんな絵里咲の心境の変化にいちばん大きく影響したのは、今、那古野で起きている大きな変化だ。
那古野の人々の生活に異文化が入り込んでからそろそろ一ヶ月が経つ。すると、最初は外国の文化を全否定していた那古野の人たちの中にも、外国の文化に興味を持つものが出てきた。一部の武人は実際に洋装を始めたりして、洋靴が出回りはじめた。そのおかげで、絵里咲も履き慣れた洋靴を履くことができている。また、写真館を訪れて自分の顔を記録に残そうとする者も現れ始めた。
一方、外国人たちにも変化が見られた。和人の写真を撮ったり、刀を興味深く観察したり(武人の誇りである刀を面白がると大抵怒られるが)、積極的に和国語を学ぼうと書物を集める外国人も現れてきた。和国語を学ぼうとする外国人たちに対して、我こそは先生をやろうと立候補し、港で教師として働きはじめた者もいる。
まだまだお互いの溝は深く、外国人というだけで喧嘩を売る輩がいたり、外国人が和国語を理解できないのをいいことに外国人相手のぼったくりが横行しているなど、小さなトラブルは尽きない。ただ、開港当初に想定していたよりも混乱は少なく、むしろ予期していなかった化学反応のほうが大きいとすら感じる。
二つのまったく違う文化が混ざり合って、急速に変わっていく街。その移り変わりを見るのは絵里咲にとって面白くてたまらなかった。
来てばかりの頃は毎日京に帰りたいと思っていたが、今では心境が変化して、もう少しだけ見ていたいなという気持ちになったのだ。
「絵里咲お姉さまは那古野に残ったらいかがですか? 開港の準備に忙殺されたせいでまだ那古野城すら見ていませんし……。せめて、那古野のなんたるかを知ってから帰るべきです!」
「それは無理ですよ~。あたしには学校もありますし、あと六日もしたら京の英国公使館で通訳の仕事が始まるんですから。予定通り三日後には京に戻らないと授業に追いつけなくなってしまいます。観光はまた次の機会にってことで!」
「そうですか……」残念そうにため息をつく菖蒲。「では、これを受け取ってください」
菖蒲は何の脈絡もなく、絵里咲に赤い棒を差し出した。それは、光沢のある赤い簪だった。簪には精緻な金の装飾が施されており、片側には矢羽根を模した白い飾りが付いていた。
「なんですか? これ」
突然のことに目を白黒させる絵里咲に、菖蒲は微笑んだ。
「贈り物です」
「あ、ありがとうございます。でも、どうして……?」
「絵里咲お姉さまにじゃありませんよ」
「え?」
「求婚に使っていただきます」
「――ええええぇぇぇぇぇ!」
「明日、綺麗な夕陽が見えます。絵里咲さんは夕陽が見える丘で、姉上にこの簪を渡して求婚するんです」
「そんなっ! 突然すぎますよ!」
「このあいだ約束したじゃないですか。三連休のあいだに求婚するって」
「……そうでしたっけ?」
「とぼけないでください! 覚えているでしょう?」
「……覚えてますけど」
まもなく婚約する。という響きは重々しい。他人事だと思っていたことが現実になって我が身にのしかかるのを感じて、急に先延ばしにしたくなってしまった。
絵里咲はこめかみに汗が伝うのを感じながら利発な脳をフル回転させ、必死に先延ばしにする言い訳を探した。
「ええっと……もし夕陽が出なかったら?」
「逃げようとしないでください! 夕陽は出ますからっ」
「なんでそう言い切れるんですか!」
「那古野じゅうの呪術師を集めて雲を打ち消すからです」
「いくら菖蒲さまとはいえ、そんな突拍子もない呪術を使えるんですか⁉」
「無理です。でも、那古野じゅうの呪術師の力を借りれば、数刻だけ天気を変えることができます。私が父上に相談したところ、父上は呪術師を集めてくださいました!」
「え? もう歳実さまにも話しちゃったんですか⁉」
「全面協力を約束してくださいました! もう逃げ場はありませんよ~」
「そんなぁ~~~~~」
「さあ、観念して求婚するのです」
幕府の大老である歳実は、和国のナンバー2である。
大老さまに国を挙げた協力(絵里咲がさせたわけではないのだが)をさせておいて、いまさら引き下がるわけにはいかない。
絵里咲は歯噛みした。
口約束を結んでしまったからには乗るしかないけど、こんな結末でいいのだろうか。不安で仕方がない。でも、そんな不安を吐露できる相手が那古野にいない。
その晩は考え事に明け暮れて、眠ることができなかった。




