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第七〇話 求婚会議

 那古野に来てからの3週間は、絵里咲の人生の中でも(こと)に大変だった。那古野にたった一人しかいない和英両国語の話者である絵里咲には、あちこちから通訳や交渉の以来が集中し、一つしかない身体を引き裂かんばかりの勢いで連れ回されたのだ。


 開港したばかりの那古野港では、為替(かわせ)レートや金銀の交換比率など、決めなければならない取り決めが山ほどある。その一つ一つに絵里咲が呼ばれ、英国人と和人がくり広げる火花を散らすような激論の仲介をするのだ。


 同時通訳は脳を酷使(こくし)する仕事であり、プロの人は一時間ごとにチョコレートを舐めてブドウ糖を補給するという。一方からの言葉を聞きながら同時に全く違う言語で文章を再構成するためには、人間の限界を超えた計算能力が必要とされるのだ。通訳の仕事を経験したことがなかった絵里咲にとっては尚更(こく)である。早口で罵詈雑言を吐き合う彼らの同時通訳をしているうちに、視界の上下がひっくり返って失神したことが二度ほどあった。


 そんな、これまでにない疲労を溜めた絵里咲にとって、夜、激務に追われず一息つく時間はなによりも貴重である。

 束の間の休息。

 絵里咲は自室の座布団に座り、背もたれに寄りかかりながら、温かい緑茶を(すす)っていた。

 全身の筋肉に疲労を感じながら、思考に霧がかかったように何も考えられなかった。ただ、何をするわけでもなく、ぼーっと机の木目を眺めていると……


()ってますねぇ~。連日お疲れさまです」


 突然、背後から女性の高い声がして、絵里咲の両肩がムニムニと揉みほぐされた。

 ピンと張りつめていた肩の筋肉から緊張が抜けていって、連日の疲労が解かされていくようだった。


「あぁ゛~、きもち~れす。ありがたいなぁ~……」ぽかぽか気分の絵里咲は感謝を伝えるために揉み手を振り返ると、思わず腰を抜かした「――っっっって! 何をなさってるんですかっ‼」


 絵里咲は背もたれから飛び上がって、背後にいた女性に向き直った。そこには、長い黒髪とリスのように丸い目が美しい悪役令嬢の妹君がいた。


「何って、このとおり肩を揉んだだけですよ?」


 菖蒲(あやめ)はニッコリと微笑みかけると、両手を中空に浮かせて、指を開いて閉じるエア肩揉みを披露した。


「揉んだだけですよ? じゃないですよっ! いや、とってもとっても嬉しいんですけどダメなんです!」

「どうしてですか?」

「立場というか身分上というかっ、とにかく菖蒲さまのお手を煩わせるのはおそれ多いので!」

「私の手を煩わせなければよいのでしょう? 大丈夫です。楽しんでるから問題ありません!」

「楽しんでてもダメです! ただの百姓であるあたしが藩主の娘である菖蒲さまに肩を揉ませてところを家臣に見られたら、あたしの首が斬らかねれませんから!」

「平気ですよ。藩主の妻は藩主の妹とまったく同じ身分ですので」

「そうなんですか?」知らなかった。この世界の身分制度について慣れてきたつもりだったが、細かいことはまだちっともわかっていない。「――あっ……でも、まだ結婚してないからダメです!」

「ケチ~」

「ケチじゃないですっ」絵里咲は両手でエア肩揉みのポーズを作って、ニコニコしながら言った。「なので、代わりにあたしが菖蒲さまの肩をお揉みしますよ!」

「イヤですっ」

「ケチは菖蒲さまじゃないですか。気遣いはいりませんよっ!」


 こんどは逆に、絵里咲が菖蒲に襲いかかった。

 すぐにくすぐり合いに発展し、部屋に二人の悲鳴が響き渡った。


 絵里咲がこの世界に転生してまだ五ヶ月しか経っていないため、こうやって気を許せる相手は少ない。

 菖蒲とじゃれ合いながら、しみじみ思った。菖蒲はこの世界にできた、数少ない気を許せる相手だ。面白くて、可愛らしくて、賢くて、尊敬もできる。こんな人と義姉妹(しまい)になれるのなら、椿と結婚するのも悪くないかもしれない。どうせ、流々子も振り向いてくれないことだし。


――結婚を決めるのに、そんな理由じゃダメなのかもしれないけど。


 結婚という言葉の響きは絵里咲にとって重すぎて、まだ自分が当事者になるかもしれないということを実感できずにいた。実感できずにいるからこそ、流されるままに結婚するなどと言ってしまったのだ。

 一度決めてしまったあとでどれだけ後悔するかとか、そういったことをもう少し熟考しなければいけないのだろうけど、今の絵里咲は忙しすぎて、朝、服選びに迷う余裕すらない。将来の自分はきっと後悔するだろうなぁ、と、まるで他人事のように思っていた。


 そんなとき、部屋をノックする音が響いた。


「菖蒲さま、失礼いたします。頼まれていたお品をお持ちしました」


 (ふすま)の向こうから女性の声が聞こえた。


「持ってきて~!」


 菖蒲が応答する。


「頼まれていたお品って何ですか?」

「そりゃあもう、私が頼んだお品です」

「答えになってませんよ?」


 なんだろう、と思いながら襖の方を見ると、中年の女性が入ってきた。手に持ったお盆には、湯呑みが二つ載っている。


「まさか……」


 湯呑みの中身を見る前から、絵里咲を誘惑するように芳醇(ほうじゅん)な香気が鼻腔(びくう)をくすぐった。その液体に含まれる成分の依存症である絵里咲は、もはや中身を見るまでもなく正体がわかった。


「そ……その飲み物は……!」

「じゃじゃ~~ん!」

「コッヒーじゃないですか! どこでこんなに貴重なものを……」

「絵里咲さんがお好きだと聞いたので、英国商人から分けていただいたんです!」

「で、でも、あたしに内緒で注文はどうやったんですか? 英国語を喋れる人なんていないでしょう?」

「もちろん私が」


 菖蒲はパンっと胸を叩いてドヤ顔した。


「菖蒲さまが⁉」

「はい! 絵里咲お姉さまから教わった英国語を駆使して……ぶらぁぁっく! ぶらっくわたープリィィィィズ! って感じで」

「あはは……」


 生まれつき簡単なアルファベットに囲まれている現代人は、小~中学生くらいになれば誰でも「A」という文字を読める。だが、この時代に生きる人たちは生まれてこの方アルファベットすら見たことがない。「A」も「C」も、まるで暗号のように見えていることだろう。

 文字にも発音にも文法にも見覚えがない言語を習うのは、死ぬほど難しい。例えるなら、現代の日本人にヘブライ語を教えるようなものだ。


 そんな彼らに絵里咲が教えることができたのは、挨拶に毛が生えた程度である。菖蒲はそれだけの知識を駆使して、商品を発注してみせたのだ。


――この調子ならすぐに喋れるようになるわね。言語は度胸だし。


 さすが武人はコミュニケーション能力が高いなぁ、と感心していると、菖蒲はコッヒーに口を付けて「熱ぅっ」と叫んだ。

 しばしの間、コッヒーを冷ます息が部屋で唯一の音になった。


 猫舌でない絵里咲はひと足先に芳醇な黒い液体に口をつけると、疲れで曇っていた頭の中がクリアになった。頭が冴えてくると、自然、菖蒲がわざわざコッヒーを発注して、自分の元に持ってきた理由に思いを巡らせた。


――誕生日は教えていないし、異世界転生記念日は七ヶ月後。だとすると、考えられる理由は……


「――ところで絵里咲お姉さま」

「はい。なんでしょう」

「姉上との結婚はいつになさいますか?」

「やっぱりその話ですか!」


 菖蒲は十分に冷めたコッヒーに口をつけた。

 絵里咲の大好物であるコッヒーを持ってきたのは、結婚の話をしたかったからと考えて間違いないだろう。現代のビジネスマンも、大事な商談は美味しいものを食べながら行う。その方が成功率が上がると科学的に証明されているからだ。きわめて古典的な作戦だが、コッヒーの香りにちょっぴり心が揺らいでしまう自分が悔しかった。


「苦ぁっ……もちろんです! いつやいつやと心待ちにしているんですから!」

「そうですねぇ。今は忙しいので……落ち着いたら考えます」

「なるほど。その落ち着いたら、っていうのは具体的にいつぐらいですか?」

「う~ん。ぐいぐい来ますね」

「姉上の妹ですから!」

「あはは……」


 神宮寺姉妹は顔も性格も正反対だと思っていたが、多少の共通点もあるらしい。


「確か、(みやこ)へ帰る二日前からお休みがありましたよね? その日に言おうと思います」

「わ~~~い! じゃあさっそく求婚の台詞(せりふ)と~、あとは場所とか雰囲気も考えないとですね!」

「そうだった……」

「姉上をときめかせて、人生最高の瞬間にしてあげるんです!」

「っていうかあたしから求婚するってことは、あたしが恥ずかしい思いをするってことじゃないですか!」

「そうですねー」

「うわぁ……どうしよ~~」

「私が手伝うから大丈夫ですよ。あつあつのコッヒーを飲みながら作戦会議しましょ?」

「お願いします」


 やはり、絵里咲はこれでいのかなぁと迷いつつ、菖蒲の言葉に乗せられてしまっていた。


 とはいえ、人生にはサーフィンみたいなところもある。計画を立てて実行するばっかりじゃつまらないから、流れに任せてみれば意外な楽しみを発見できるかもしれない。……なんて考えが頭の片隅にでも浮かんだ時点で、すでに菖蒲の術中に(はま)っているのだった。


「絵里咲お姉さまはなにか作戦を考えていらっしゃいますか?」

「ぜんぜんいらっしゃいませんよ。まだ椿さまと人生を添い遂げる覚悟ができているわけでもないんですから……」

「姉上が立派な武人だということは私が保証します!」

「立派な武人なのはイヤというほど知ってるんですけど……」この世界に転生してきて間もないころ祇園社(ぎおんしゃ)へ花見に出かけたとき、椿にあやうく弓で殺されかけた記憶が脳裏に浮かぶ。もしあのとき主人公チャームを使ってなかったら、今ごろ絵里咲は墓石の下に埋まっていただろう。人を殺すのが立派な武人の条件であるのならば、椿は立派すぎて迷惑なくらいだ。とはいえ……「あたしにとって大事なのは立派な無人かどうかじゃなくて、立派な伴侶(はんりょ)かどうかってところなんですよねぇ」

「そ……そこも保証しますよ?」

「なんでそこは自信なさげなんですか!」

「大丈夫ですよ。……裏切らなければ」

「怖くなってきたんですけど!」

「怖がらなくていいですよ。いくら秋霜(しゅうそう)な姉上といえど身内には優しいですから。……いきなり手討ちにしたりはしません」

「優しいの基準が低いんですよ!」


――この歳で結婚の話が具体的になってるって冷静に考えたらすごいことよねぇ


 絵里咲は菖蒲の口車に乗せられて、夜が更けるまで求婚のシチュエーションについて議論を煮詰めていった。煮詰めるといっても、菖蒲があれもいいこれもいいと盛り上がりながら次々と挙げるアイディアを、絵里咲が全力で断り、無難な台詞やシチュエーションで妥協してもらうという程度のものだったが。


 絵里咲の中では、実感がわかないまま人生で最大のイベントが進んでいくことに一抹(いちまつ)の……いや、一抹どころではない迷いもわだかまっていた。

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