第七話 京お花見道中
寒さも一段落した如月(旧暦二月)の末日。
旧暦の二月は新暦の三月。現代であれば卒業式の季節にあたる。
京の人々は現代人と同じように花見が大好きだ。学校の近くでも、町人たちが淡い色の花を開かせた桜の下で酒盛りをしていた。
連日の猛アピールが実ったのか、絵里咲は流々子と祇園社で花見デートすることになった。
祇園社というのは、現代の京都人が「お八坂さん」と親しむ八坂神社の古名である。現代でも桜の名所として名高い八坂神社は、明治時代の廃仏毀釈によって改名されるまで祇園社と呼ばれていたそうだ。
祇園社に隣接する公園には、京でいちばん見事な彼岸桜の大木があるのだという。
待ち合わせの場所は、流々子が住む鳰海邸となった。
鳰海邸に着くと、門の前に駕籠が置いてあった。その周りを囲むように12人の武人が並んでいた。流々子の家来であろう。
仰々しい刀を携えた武人は、人を寄せつけないオーラを放っている。怖くて声を掛ける気になれず、近くをウロウロしながら様子を伺っていると――
「そなたは客人のえりず殿であるか」
行列の一人、頭に笠を被った武人が畏まった口調で話しかけてきた。しかめっ面をしていて、冗談が通じなさそうである。
「えりずじゃありません」
「なにィ‼」
大袈裟に反応した。やはり融通が利かないらしい。
流々子の性格を考えるに、この男が混乱すると分かっていて「えりず」と吹き込んだのだろう。
いたずらが過ぎる。
「あたしは流々子さまの友人の古読絵里咲です!」
「えりず殿ではござらんのか?」
「なぜかよくえりずに間違えられるんです」
「さ、左様でござるか……。――それではお待ち申し上げていた。こちらへ参られよ」
「ありがとうございます」
頭に笠を被った武人はニコリともせず、絵里咲を駕籠へ案内した。
駕籠は貴人が移動のために使う乗り物で、小さな小屋のような形をしている。人間が数人がかりで担ぎ上げて運ぶ。要は、壁と屋根が付いたお神輿である。
実は、この乗り物を使う実利的なメリットはほとんどない。徒歩より遅い上、激しく揺れるから、普通に歩いたほうが効率がよい。それでも駕籠を使うのはプライドのためである。貴人は大勢の人を使って派手に移動することで、家の威光を示すのだ。
現代っ子である絵里咲が駕籠に乗るのはこれが初めてだ。
流々子が乗っている駕籠は二人乗りの大型タイプ。8人で持ち運び、4人で護衛するようだ。総勢12名。たかだか花見するだけでとんでもない人件費が掛かっているなぁ、と感心した。
運び手8人のうち、4人は絵里咲の体重を支えている計算になる。人に指図し慣れていない絵里咲は、四人もの武人が自分を運ぶために一日を潰すのだと考えると、いたたまれない気持ちになった。
彦根守家の駕籠は光沢のある黒に塗られ、ところどころに金の蒔絵がほどこされている。ゴージャスな塗装をほどこすために莫大な金が積まれたことだろう。駕籠のなかでも最高級品だろう。
絵里咲は駕籠の引き戸(入口のこと)を開いて、中の様子を覗き込んだ。
そこには、赤い着物に紅色の袴を合わせた流々子さまがひらひらと手を振っていた。いつもは落ち着いた色合いの着物を好む流々子だが、今日は花見とあって華やかだ。
――こっちの流々子さまもいいなぁ~
絵里咲は桜を見る前から胸が踊った。あまり当たらない勘が、よい一日になりそうだと告げていた。
「流々子さま、おはようございます! お待たせしてしまいましたか?」
「昨日から楽しみに待っていたわ」
「そっちの待ったじゃないです。でも、あたしも昨日からお花見楽しみだったなぁ」
花園時代には武家に生まれた女子も男子と同じく武人として育てられるから、街へ繰り出すときには袴を着て帯刀することになっている。華美な着物を着ないのは、いざというとき素早く動くためだ。この点は江戸時代とかなり異なっている。
絵里咲は雪駄を脱いで駕籠に乗り込んだ。二人乗りの駕籠とはいえ車内は狭く、隣りに座った流々子とは肩が触れ合う近さだった。
いつもより着飾った流々子は、近くから見るとより綺麗だった。
武人はそれほど派手な化粧をしない。それは流々子も例外ではないのだが、今日の流々子は華やかだった。唇には淡い紅をさし、まつ毛の陰を描いている。化粧のおかげで目鼻立ちがはっきりして見えた。
「流々子さまがおめかしなされた姿……桜よりもお綺麗です!」
「まだ桜は見ていないでしょう?」
「見なくてもわかります」
「世の中に見なくてもわかるものなんてないわ」
「確かに……。ではあとで見比べてみますねっ。まあ、芥子粒と泰山を並べるようなものでしょうけど」
「えりずは芥子粒を観に行くのねぇ。楽しんで。私は桜を観るわ」
「芥子粒は見ないしえりずでもないです。あたしは流々子さまと桜を楽しみます」
「楽しみ方は人それぞれよねぇ」
桜の花びらのようにひらりひらりと甘言蜜語を躱す流々子に、絵里咲はキュンキュンしっぱなしだった。
引き戸の向こうから運び手たちの元気よい掛け声が聞こえると、腰のあたりを浮遊感がおそった。駕籠が持ち上がったようだ。
エッサホイサという掛け声とともに一歩ずつ進み、車内はガタガタと揺れ始めた。乗り心地が悪いとは聞いていたが、その酷さは予想を超えてきた。
「二人乗りの駕籠は狭くて申し訳ないわねぇ」
流々子はあまり申し訳なくなさそうに呟いた。
「そんなことないです! あたしは楽しいですよ」
「狭い場所がお好きなの?」
「好きな人の近くが好きなので」
何度か遊ぶうちに、絵里咲は流々子が好きだということをもはや隠さなくなっていた。応じてくれる気配はまったくないが。
「あら、好きなんて言葉は将来のお婿さんのために取っておきなさいな」
「殿方とは結婚いたしません」
「ならお嫁さんね」
「あたしの結婚相手は流々子さま以外に考えられま――」
「天地初めて発けし時~、高天の原に成れる神の名は……」
「やめてください! 古事記の一節を諳んじないでください!」
わかりやすくはぐらかされてしまい、絵里咲は臍を噛んだ。やはり主人公チャームがまったく効いていない……。
主人公チャームというのは、乙女ゲーム世界に転生した絵里咲が手にした「好意を見せただけで好かれる能力」を便宜的にそう呼んでいるものだ。その性能は強力無比で、好きと言った相手には老若男女問わず大抵の相手には好かれてしまう。
下手に使ったら背後から刺されてしまいそうな能力だけれど、好きな人が出来て悩んだことがある人類の皆様はこんな能力が欲しいと願った経験があるだろう。絵里咲もその例外ではなく、流々子さまを落とすために何度も主人公チャームを使っている。
しかし、流々子はびくともしない。もしかすると心の奥底では絵里咲のことが好きで好きでたまらず、胸の内にはキラウエア火山のマグマのように激しい慕情を抱いているのかもしれないが、少なくとも態度には現れていない。
「いまどのあたりですか~?」
流々子が右手で外見用の簾をまくり上げた。窓の外に京の街が見えた。
「烏丸通よ。花園のお城が明かね~」
桜と柳がこき混ざって春の錦となった石畳の道には、華やかな木造の楼閣が並んでいる。その向こうには、まるで雲のように白い外壁がまぶしい天守が神々しい威光を放っていた。京のシンボル・〈花園城〉である。
花園城はこの世界の将軍である石上家が治める花園幕府の大本丸。さまざまな思惑が入り乱れる和国の政治的中枢である。設定資料集によると、天守の高さは15丈(45メートル)にも及ぶという。ニューヨークにある自由の女神と同じくらいだと想像してもらえれば、イメージが湧きやすいだろうか。
「流々子さまの父君は今ごろ天守にいらっしゃるのでしょうね」
「ええ。老中になってからはちっともうちへ帰ってこないのよ」
流々子の父・彦根守上玄は花園幕府の老中である。老中というのは現代でいう大臣のような役職で、花園幕府は五人の老中と一人の大老(総理大臣みたいなもの)を抱えている。
「反対側にも何かありますかね。――うええええ!」
絵里咲側の窓を見ると見慣れない高層建築があって、思わず叫び声を上げてしまった。それは100メートル近い木組みの塔だった。
「あれは法勝寺九重塔よ。はじめて京に来た人はあれを見て腰を抜かすのよね」
朱色の屋根が九重にかさなった異様な塔は、驚くべきことに14世紀まで実在した法勝寺のものだという。1342年に火事で倒れてしまい、それ以来再建されることはなかったが、平安京では群を抜いて高い建物だったという。異様に建築技術の水準が高いこの世界では、倒れずに維持されていたようだ。
その高さはなんと80メートル。現代の建築基準法に照らしても超高層ビルの扱いになる。
しばし魅入られていると、駕籠の後ろの道からこちらへ向かって何者かが走ってくる足音がした。
足音は駕籠の横で止まり、外見窓の前に鉢巻を巻いた男が現れた。
「流々子殿! 流々子殿! 伝令です」
「あら、猿森。なにかしら」
猿森と呼ばれた伝令の男はなにやら慌てふためいている。まだまだ肌寒い時節だというのに、額に汗を浮かべていた。
「城にいる母君・皐月殿より、流々子殿に言伝を預かり仕りました」
「あら、母上からなんてめずらしいわね。読み上げて?」
彦根守皐月は流々子の母だ。
流々子は母親との関係が複雑である。だから言伝が珍しいのだろう。
「いえ、しかし読み上げるようなものではございません。内容が内容ですので……」
「気にしなくていいわ。読んでくれるかしら」
「本当によろしいので?」
「もちろん」
「では失礼して……『田舎百姓を同じ駕籠に乗せるなど、彦根守の家紋に泥を塗る言語道断の暴挙。今すぐ降ろして引き返しなさい』……とのことです」
田舎百姓――つまり『絵里咲を駕籠に乗せるとはどういうことだ。帰ってこい!』と怒っているようだ。
藩主の娘と百姓では身分が違いすぎる。分を弁えない百姓を増やさないためにも、百姓とは仲良くするなと言いたいのだろう。現代人の感覚では身分で付き合う相手を選ぶなんて最低だと感じるが、ここは旧套墨守の花園時代。身分によって差別する意識を武人も百姓も当たり前のように持っている。
――あたしが居ても流々子さまに迷惑をかけるだけよね
「流々子さま。あたしは降ります」
せっかくの祇園社デートを楽しめないのは残念だが、推しに迷惑をかけるよりマシ。
そう思って提案したのだが、
「その必要は無いわ」
「え?」
「えりずは予定通り、駕籠に乗って花見に行くのよ」
「でも、お母君が……」
流々子は絵里咲には見向きもせず、伝令の猿森に話しかけた。
「猿森。貴方は城へ戻りなさい。そして、その手紙の内容を父上にも伝えなさい」
「上玄殿にですか?」
「ええ。そして母上にはこう伝えて――『父上には同乗の許可を頂きました。この同乗を暴挙と呼ぶのは、父上が暴挙を許す人間であると誹るに同じ』と」
流々子は母親からの宣戦布告を受け、それを真っ向から迎え撃った格好だ。彦根守家では父親が藩主であるという立場を利用して、彼の言葉を根拠に母親の主張をへし折ってしまった。
なにより、絵里咲と花見へ行くことにそれだけ心血を注いでくれたということ。
絵里咲は嬉しくて感極まってしまった。
「皐月殿はお怒りになると思うのですが……よろしいのですか?」
「事の委細については父上から話していただきましょう。私は予定どおり祇園社へ向かいます」
「しょ、承知いたしました……」
親子戦争に巻き込まれた伝令の猿森は、狐につままれたような顔をして走り去ってしまった。
「流々子さま……あたしを庇っていただいてありがとうございます。けれど、母君のご意向に沿わなくてよろしいのですか?」
軽やかに母親の追及をかわし、反撃を食わせる流々子はかっこよかった。絵里咲は例のごとくキュンキュンしっぱなしだったけれど、あのように撥ねつけられて母君としてはおもしろくないはず。本当にあれでよいのだろうか。
「母上は別に絵里咲と一緒に花見へ行くのが気に入らないわけじゃないのよ」
「そうなのですか?」
「こうやって私の邪魔をするのが母上流の楽しみ方なのよ。だから、絵里咲が田舎百姓なことは関係ないわ」
「田舎百姓で悪かったですね……。でも、お母君はいつもそうやって流々子さまをいじめるのですか?」
「ええ。昔からそうなの。友だちができれば嘘で仲を引き裂いたり、風邪を引けば水風呂に入れられたりされたわね」
「ひどい……」
絵里咲はいつもクラスの学級委員だったから、こうやって他人の複雑な家庭事情を聞く機会は何度もあった。でも、どんな反応をするのが正解なのかいまだにわからない。
「でも、どうしてそんなことを?」
「母上が私を好いていないのよ」
「そんなことはあり得ません! ――痛ぁっっっ!」
絵里咲は興奮気味に立ち上がると、駕籠の天井に頭を勢いよくぶつけた。大きなたんこぶができた。
流々子は絵里咲の頭を撫でで、「落ち着きなさいな」と言った。
「だって、流々子さまのような娘がいたら誰だって誇らしく思うはずです! 流々子さまは優しいし、賢いし、面白いし、お美しいじゃないですか! 誰にとっても自慢の娘なはずです!」
絵里咲は座ったまま、そう捲し立てた。
「母上が私を嫌いな理由は、私がどうにかできるものじゃないわ」
「え?」
「私の生まれが問題なのよ」
「……生まれですか?」
「ええ。私は母上の子じゃないの」
「それって……」
「父上がどこかの遊女と不義理で設けた落とし子なのよ。嫌われるのも仕方がないわ」
「仕方ないなんて……」
流々子はずっと辛かったはずだ。と思った。
世界で一番の味方であるべき親が、敵になるのだから。
複雑な家庭環境は、流々子に人格形成に大きく影響しただろう。流々子が人一倍落ち着いているのは、子どもじみたいじめをする母親に育てられて、他人よりも早く大人にならざるを得なかったからかもしれない。
味方は少なかったはずだ。
絵里咲は流々子の味方になってあげたいと思った。
「仕方なくなんてないです……。仕方なくなんてないですよ! 娘が実の子どもじゃないからっていじめるなんて絶対に間違ってます!」
絵里咲は悲しくなって、涙が出てきてしまった。流々子は指で涙を拭ってくれた。
「親も人間なのよ、絵里咲。義理の子を憎んでしまうのは仕方がないわ」
「仕方なくなんかないです」
「仕方ないのよ。だから泣かないで?」
――……あれ? なんであたしが慰められているのかしら……?
「流々子さまはなんでそんなに平気そうなんですか?」
「もう慣れたからよ」
「慣れませんよ。誰かに傷つけられることに慣れることなんてありません」
「そうね。でも、平気なのよ。今は味方もいるし、さっきみたいに撃退もできるわ」
「あはは……。撃退してましたね」
「時々、母上がかわいそうに思うのよねぇ」
「なんでですか?」
「だって、不倫されたのに、憎い子どもで憂さ晴らしもできないじゃない」
「かわいそうですかね……。むしろ16歳の娘に同情される母親はどうかと思いますけど」
何の罪もない流々子をいじめている時点で、尊敬できるような人ではないと思った。
かく言う絵里咲も母親をあまり尊敬していない。絵里咲の姉と母親はトラブルが絶えなかったが、その原因の大半は母親の見栄っ張りな性格だった。
死んだときのショックであまり詳しいことは覚えていないが、現世で最後に見た顔も白煙で霞んだ母親だった。死の瞬間、なにがあったのかよく思い出せないのが不思議だが。
「あの、流々子さま。答えたくなければ答えなくていいんですけど……」
「なに?」
「流々子さまは本当の母君が誰だかご存知ですか?」
「さぁ。きっと屋敷の下人か、遊郭の女でしょうね。もう死んでいると思うわ」
「生きているかもしれませんよ?」
「いえ、死んでいるわ。わかるのよ」
「お父君に訊ねたことがあるんですか?」
「ないわ」
「でも、訊ねたら生きてるかもしれませんよ?」
「死んでるわよ」
「そうですか……」
つい訊いてしまったあとで、訊くべきではなかったと思った。
複雑な話題にどう反応すればいいのか、正解がわからない。白々しいかもしれないが、驚いたような、悲しいような表情を作ることしかできなかった。
人間関係に正解などないけれど、きっとこれは近似解からもほど遠い。
楽しいはずの花見の前なのに、重い話になってしまった。
でも、最後に一つだけ言っておこうと思った。自分は、辛い幼少期を送ってきた流々子の味方でいたいと。
「流々子さま……。あたしなどのような一般人にはとても心中を推し量ることができませんが、一つだけ言えることがあります――これからはあたしが片時もお側を離れないということです。だから、いつでも頼りにしてくださいね。もう、流々子さまに寂しい思いをさせることなんかありま――……って、あれ?」
長演説の途中。
隣にいた流々子は、いつのまにか消えていた。
「――流々子さま⁉」
駕籠の引き戸が開いて、外の景色がのぞいていた。そこは緑色とピンク色があざやかな公園だった。いつのまにか、目的地だった祇園社に到着していたらしい。
絵里咲は慌てて駕籠の外に出た。流々子は、満開の桜を背景にして気持ちよさそうに伸びをしていた。
「あぁ……あたしの名演説が!」
「あら、えりず。いつまでその鼠小屋に閉じ籠もってるのかしら。今日の桜は十二分咲きよ」
「鼠小屋って……金箔貼りで綺麗じゃないですか!」
「金箔貼りの綺麗な鼠小屋よ。さあ、行きましょ」
流々子はいちばん綺麗に咲いている桜の方へ、スタスタ歩いていってしまった。
「って、流々子さま~~! 待ってくださいよぉ~~!」
まったくこの人は信じられないほど心がお強いなぁ、と感心した。普通なら折れてしまいそうなくらいの重荷を背負っていても、柔らかく受け止める柳の枝のような強さがある。
けど、どんなに強い人でも無限に重荷を抱え込むことはできない。いつか耐えきれないほどの重荷が流々子にのしかかったときには、側にいてあげようと思った。