第六九話 絶景風呂
「二人ともどうなさいましたの! 全身泥だらけですのよ⁉」
「こ……転びました!」
外国人居留地からの狙撃を受けた2人は、命からがら逃げ切ると、神宮寺家が所有する別荘に逃げ込んだ。
別荘は海辺の小高い丘の上に建っており、水平線や小島を見晴らすことができる。夜になると、岩に打ちつける波の音がよいBGMになって、すぐに夢の中に入ることができる。
那古野に来て以来、絵里咲たちはこの別荘で寝泊まりしている。
そんな別荘へ絵里咲と菖蒲がドタバタと踏み入るなり、奥から椿が飛び出してきて、2人を質問攻めにした。
2人を心配する椿に「襲われたんです! 助けてください!」と報告すれば、万全の警備体制を敷いて守ってくれるだろうが、そうすることはできなかった――菖蒲は、外国人に銃撃されたことを内緒にしようと提案したのだ。
「転んだだけで胸や顔まで汚れまして?」
「派手に転んだんです!」
「そうですの。ところで、なぜ絵里咲の髪は濡れていますの?」
「こっ…………転んだ先に水溜まりがありまして」
もちろん嘘だ。絵里咲の髪が濡れているのは、銃撃から身を守るために張ったシールドから泥水が飛び散ったからである。髪の毛に引っかかった砂がこすれて、気分は最悪だった。
「ここ数日雨なんか降っていませんわ」
「…………」
「まさか、襲われたのではなくて?」
――勘がいいわね……
「まさかぁ~。襲われたらあたしがやっつけてますよ!」
「あら。あのへっぴり腰で誰に勝てますの?」
「へっぴり腰ではありません! れっきとした剣術です!」
絵里咲が得意とする西洋剣術は、和国の剣術に比べて脚を広めに開く構えだ。椿にはそれがへっぴり腰に見えたのだろう。実際にはへっぴり腰などではなく、つねに膝を柔らかく使って前後に動きやすくする合理的な構えなのだが。
「臆病者はへっぴり腰になりがちのよ」
「二百年前からああいう構えなんです」
「では二百年前から使い手が臆病者ばかりなんですのね」
「違います! 攻撃と回避の両方を高速で行うために――」
「――はいはい。わかりましたわ」
「馬鹿にしてますよね!」
「まずは風呂で泥を落としてきなさいな。弁明はそれから聞きますわ」
「わかりました。――まぁ、椿さまにわからないのも仕方がないですよね。弓取りの方が剣術の構えを評価するのは難しいですから」
「何を! わたくしだって剣くらい振れますわ!」
「はいはい。弁明はお風呂に入ってから聞きますね~」
「――あとで覚えてなさいな」
遊び半分で悪役令嬢をからかってみた絵里咲だったが、脅迫する鬼の顔がわりと本気で怖かったので、軽率な発言を後悔した。
●○● ○●○ ●○●
「ふぅ~。極楽、極楽」
「湯加減はいかがですか?」
「至上無下ですよ。絵里咲お姉さまも早く入ったらいかがですか?」
先に湯船に浸かっていた菖蒲はすっかりリラックスして、蒸かしすぎたお饅頭みたいな表情になっていた。
泥だらけだった全身の(とくに髪の毛の)すみずみまで入念に洗い終わった絵里咲は、「失礼します」と言って湯に浸かると、身体の体積のぶんだけ水が溢れた。
神宮寺家の別荘に備わっているのは、水平線上で輝く夕陽を望む露天風呂だ。オレンジ色に染まる海を眺める極上の空間は、現代だったら「絶景風呂」としてSNS上で有名になり、予約困難だったに違いない。さらに、絵里咲は那古野に来てから頬や鼻がつるつるになったような気がしていたから、泉質も並大抵のものではないだろう。――眺め・泉質・適温と三拍子そろった秘湯を個人で独占するのは、藩主といえあまりに贅沢である。
そんな絶景風呂に浸かりながら、隣には大好きな菖蒲がいる。外からはあまりに満たされているように見える絵里咲だが、心の内はまったく安らいでいなかった。先ほど命を狙われたばかりである上、苦手な拳銃の音を聞いたのだから、致し方ないだろう。
「あの、菖蒲さま」
「はい~?」
「あの、さきほどの銃撃についての話なんですけど……」
「またそのお話ですか~? せっかくのお風呂時間ですし、ゆっくりしましょうよ」
「でも、誰が何の目的で狙ったのかすらわからないと気持ちが悪くて」
「深く考えることはありませんよ。誰かが藩主の娘を殺そうとするのは不思議ではありませんから。むしろ、よくあることです!」
あっけらかんと言う菖蒲に、目を丸くした。
「よくあること……ですか?」
「はい! いろんな人が、いろんな理由で私を殺そうとしますから。今は高位幕臣や奉行まで道端で殺される時代です。銃撃の一回や二回で大騒ぎはしませんよ」
「さすがに大騒ぎしたほうがいいですよ」
現代人の感覚とのあまりの乖離に、絵里咲は苦笑いしかできなかった。
「それに、私を狙った英国人の見当も付いています。たとえば武器商人です――武器商人が藩主の娘を殺せば戦争が起きます。戦争が起きれば武器が売れて儲かりますから、殺す動機は十分でしょう? 明日あたり英国の武器商人を呼び出してみたら、犯人の尻尾を掴めるかもしれません!」
「う~ん……」
「私の推理がご不満ですか?」
「いえ、武器商人がそこまで短絡的かなぁって思って……。もし自分が犯人だと知られればすぐに逮捕されますし、今まで築き上げてきた財は跡形もなく無くなります。そんな危険を冒してまで菖蒲さまを狙うとは思えません」
「では、政治家かもしれません!」
「政治家⁉」
「はい。和国を植民地にして英雄になりたい政治家は、普通に攻撃しては英国内で反対に遭います。だから、藩主の娘を襲うことで那古野側から戦争を仕掛けさせて、侵略の口実にするのです! ……この場合、私が騒ぎ立てるのは相手の思うツボになりますね」
「それもあり得ないと思います! 世界最強の英国とはいえ、印国や清国といった植民地を統治しながら和国と全面戦争をすれば国力が疲弊しますから。英国は賢いので、侵略するより交易をしたほうが得なことくらいわかっているはずです」
「絵里咲お姉さまは英国の内部事情にもお詳しいんですね」
「あはは……」
――ただ、歴史の教科書で読んだだけなのよねぇ……
絵里咲が喋った事情は英国の極秘情報でもなんでもなく、他の国であれば一般市民ですら当然のようにわかっていることだ。しかし、和国では幕府の最上層部ですら理解していないと思われる――和国と英国は、言葉が通じないせいでお互いについての理解が圧倒的に足りていないのだ。
「それに、ひとつ気になることがあるんです」
「なんですか?」
「遠くから拳銃で狙ってきたことです。――拳銃は有効射程が短いし、そもそもの命中率が低いから遠くを狙いにくい。2町も離れた場所から狙撃を図るなんて、殺す気が無いか、拳銃を使い慣れてないとしか思えないんです。……犯人は本当に英国人なのでしょうか」
「射撃手はきっと、まともな訓練も受けていない下っ端だったんだと思います。私を殺したあと、切り捨てられるくらい地位が低い場合、拳銃の扱いに慣れていなかったとしても仕方がありません」
「ともかく、菖蒲さまは危険ですから外出を控えられたほうがよろしいかと思います。ただでさえ攘夷派にも命を狙われているのに、英国人にも命を狙われているんですから」
「できません」
「なんでですか!」
「藩主の娘には使命がありますから。おちおち家に籠もることなんてできません!」
「命がなければ使命も果たせませんよ」
「私は大丈夫ですよっ。千里眼があれば銃撃を先読みできますから、次も水の防壁を張って防いでみせます!」
水の防壁を張るよりも、拳銃の引き金を引くほうが圧倒的に早い。だが、絵里咲はそれを指摘することができなかった。遠回しに、菖蒲の特技である呪術は拳銃より遅いというニュアンスに伝わってしまうような気がして。――当然、菖蒲の安全のためには口に出すべきだったのだが。
「では、せめて銃撃の件を椿さまに報告したほうがいいですよ。報告して、菖蒲さまに護衛を付けてもらったほうが――」
「――だめです。内緒にしましょう」
「どうしてそこまで内緒にしたがるんですか?」
「那古野のためです。何者かが銃で私を狙ったということが露見すれば、姉上や父上は交易を止めるでしょう。那古野と幕府の仲が決裂したとき、頼りになるのは英国との交易で手にする莫大な金銀と最新の武器です。その恩恵を、私の命を守るためだけに捨てるわけにはいきませんから」
「でも、那古野のためになるのは菖蒲さまが健在でいることです。だから――」
「――この話は終わりです! 夕陽が沈んでしまいましたよ。お風呂を楽しみましょう?」
「……わかりました」
湯加減は最高だったが、暗いせいで菖蒲の表情がよく見えないことが少し残念だった。
●○● ○●○ ●○●
「二人とも。伝えておくべきことがありますわ」風呂から出た二人の前に、神妙な表情の悪役令嬢が立ちふさがった。「――今日、外国人居留地に銃声が響く騒ぎがあったそうですけれど」
「「えっ。ホントですか?」」
「なんだか二人とも白々しいですわね」
「「いえいえ、そんなことは!」」
「…………二人とも、なにか知っていまして?」
「超初耳です!」
「あたしたちは早めに帰りましたからね~!」
絵里咲の言葉に、ブンブンと首を縦に振る菖蒲。動揺が隠しきれていなかった。
椿はジト目で二人の様子を観察していたが、もともと感情の機微に敏感なほうではない。特にそれ以上追求することはせず、続けた。
「今回の事件では誰も傷つかなかったとはいえ、もし藩士が一人でも殺されれば那古野港は閉じざるを得なくなりますわ。英国の出方次第では戦争になり、藩士も多く死ぬでしょう」
「そんな大事だったんですね……」
「それで……今回の騒ぎを受けて、英国に外国人居留地で銃を持つことは禁じるようにという要請をしたところ、英国側からの交換条件として帯刀をすることを禁じてほしいと申し伝えられましたの。貴人以外の全員が対象だそうですわ」
「ああ、なるほど。つまりあたしは刀を持っていっちゃダメってことですね!」
「つまり……そういうことですわね。――〈武人の魂〉を置いていけとは断固受け入れがたい提案だとわかってはいますけれど、今回は藩のために受け入れていただけなくて?」
いつも尊大な椿が、やけに丁寧な態度でお願いしてきた。武人にとって、刀を纏うなというのはそれだけ屈辱的な提案なのだろう。
とはいえ、絵里咲にとって武人の魂とは――
「ぜんぜん平気です!」
火星の経済と同じくらいどうでもいいことだった。




