第六八話 神宮寺菖蒲銃撃事件
それは、絵里咲と菖蒲が外国人居留地から那古野城へ帰る途上のことだった。
「絵里咲お姉さま‼ 危ないっ‼」
「えっ⁉」
突然、絵里咲は菖蒲に突き飛ばされ、地面に倒れた。地面に倒れた絵里咲の上に、菖蒲が覆いかぶさった。
その直後――甲高い破裂音が響き、絵里咲の目の前にあった民家の壁に穴が空いた。恐怖で心臓が縮み上がった。
「何⁉」
「拳銃です! 遠くに拳銃の銃口が見えました!」
「……拳銃⁉」
「千里眼越しに銃口が見えたんです。外国人居留地の岸からでした‼」
絵里咲は咄嗟に菖蒲が指差す方向を見た。遠く海の上に、外国人居留地と呼ばれる人工島が浮かんでいる。しかし、遠すぎて絵里咲の目には見えなかった。
外国人居留地の岸はここから300メートルほど離れている。絵里咲の目に見えないということは、茂みに身を隠しながら撃っているのだろうか。
「絵里咲お姉さま。ここに居ては危険です。逃げますよ!」
絵里咲は、現代の拳銃で300メートルの距離から狙われてもまず当たらないことは知っていた。風や重力の影響を受けて、まっすぐ飛ばないからだ。この時代の拳銃は射程が100メートルにも満たないから、当たる確率はさらに下がるだろう。
とはいえ、もし運悪く当たってしまえば死ぬ可能性は十分にある。対抗手段がない以上、すぐにこの場から逃げたほうがいい。
そんなことはわかっていたのだが、絵里咲は立ち上がることができなかった。
「……はぁはぁ……。……はぁ……はぁ……」
「どうしたんですか? 絵里咲お姉さま! しっかりしてください!」
銃撃に驚いた絵里咲は一度に大きく息を吸いすぎてしまって、過呼吸になってしまったのだ。
「……はぁ……息が…………できない……」
「身体を起こしてください! 撃たれてしまいますよ!」
本来の絵里咲はちょっとしたことで動じない子だったが、転生してからは爆発音を聞くだけで蛇に睨まれた蛙のように怯えるようになった。そうなるのも無理もない。拳銃は絵里咲の命を奪った武器なのだ。拳銃の乾いた破裂音を聞くだけで、感覚が現実感をともなって蘇ってくるのである――拳銃の弾があばら骨を砕いて、肺に突き刺さった激痛。そして、呼吸ができなくなり、死が近づいてくる感覚が。
絵里咲は襟元に両手を当てて、激しく息を吸い込んだ。しかし、吐き出すことができない。無限に空気を吸い込み続けた肺が、膨らみ切った風船のように爆発しそうだった。まるで、胸部を撃たれて窒息したときのような感覚だった。
地面に伏しているあいだも、二、三度、銃声が響いた。そのあいだも絵里咲は耳を塞いで、頬を涙が濡らした。ほとんどパニックといってよい取り乱しようだった。
「絵里咲さん! 逃げないと殺されてしまいますよ!」
「はぁ……あやめさまだけでも……はぁ……隠れて……!」
「ああもう。擦り傷御免ですよ!」
菖蒲は絵里咲の襟を掴むと、強引に民家の裏へ引きずり込んだ。
民家の裏に隠れてしばらくすると、絵里咲はやっと落ち着くことができた。涙でぐしょぐしょになった絵里咲の顔を、菖蒲が手拭いで拭いてくれた。
「一体どうしたんですか! いつも冷静なのに!」
「あたし……拳銃が恐いんです……」
「そんなの誰だって恐いですよ! でも、逃げないともっと恐い目に遭います! 武人たるもの精神はのようでなくてはなりません!」
「……おっしゃる通りです。ごめんなさい。でも、あたし、拳銃で撃たれたことがあって……そのときの痛みとかが蘇ってきて……」
菖蒲は、弱々しく呟く絵里咲の胸ぐらを掴むと、今まで見たこと無いような剣幕で怒鳴った。
「刀で斬られた武人が刀を見て泣くようになれば武人ではいられなくなりますよ! 気を強く持ってください!」
「……おっしゃる通りです」
おっしゃることがおっしゃる通りすぎて、おっしゃる通りですとしか返事ができない人形になってしまった。
年下に説教されて目が醒めたのか、絵里咲の手の震えはピタリと止まった。
そのあいだにも、銃声が響き、銃弾が民家を直撃した。民家の内から悲鳴が聞こえた。
「まずいです……家の中に人がいます! ここから離れなましょう! 犯人が狙っているのは私ですから、藩民を危険に晒すわけにはいきません」
「でも……」
「行きますよ!」
「だめです。そうすると今度は菖蒲さまが危険に曝されます!」
「民家の住人を危険に晒すわけにはいきません」
「菖蒲さまは藩主の娘なんですから、万が一にも撃たれてはいけません!」
「藩主の娘は撃たれてでも藩民の命を守らなくてはいけないのです! 飛び出しますよ!」
菖蒲が建物の影から出ようとするので、絵里咲は必死に引き止めた。
「待ってください! せめて……なにか防御壁みたいなものを築けないんですか?」
「だめです。呪術で作れる防壁は、銃弾を防ぐほどの強度がありません。流々子お姉さまみたいに水晶の防壁が使えればいいんですけど、あれを使えるのは流々子お姉さまだけなので……」
この世界の銃器には西洋の爆破魔術が使われているから、史実よりも威力が高い。呪術は他国との戦争を繰り返して、戦いに勝つための進化を遂げていったのだ。
それに対して、長く平和な時代が続いた和国の呪術は戦闘向きではない。古来より進歩の少ない呪術は、儀式的な術が多いため実用性が低い。実用性が低いせいで、瞬時に拳銃の弾ひとつ処理することも難しいのだ。
西洋諸国の戦いは魔術革命によって銃器や魔術が主役となり、戦場において剣はほとんどお飾りになったが、和国では刀が現役ばりばりで使われている。それも呪術が古い時代から進歩していないせいである。
「どうしよう……」
とはいえ、今この場で頼りになるのは菖蒲の呪術しかない。
絵里咲は必死に頭を働かせた。
「――あっ!」
「どうしたんですか?」
「水晶なんか使わなくても水を使えばいいんです! 菖蒲さまも得意でしょう?」
「水……ですか?」
「はい! 水があれば弾丸を止められます。遠くから飛んできた威力の低い弾丸ならなおさらです!」
昔、絵里咲がテレビで見た実験を思い出した。直線状に並べられた数十個の水風船に向けて銃弾を発射する実験だ。使われた銃はバッファローをも撃ち殺すマグナム拳銃である。
この実験で、マグナム銃の一撃は何個の水風船を割ることができるだろうか? 絵里咲は、爪楊枝でつついただけでも簡単に割れる水風船がバッファローを仕留める一撃の前に為す術もないと思っていた。
しかし、結果は予想を超えるものだった。射ち出された弾丸は、まず一つ目の水風船を簡単に割り、二つ目で勢いを落とし、三つ目を辛うじて破り、四つめで薄いゴムの弾力に負けて弾き返された――マグナム弾の威力はたった4つの水風船によって抑え込まれてしまったのだ。
絵里咲は、マグナム弾すら水風船で抑え込むことができるなら、原始的な拳銃の狙撃はぶ厚い水の膜で止めることができると思ったのだ。
「わかりました。水を盾にして逃げましょう!」
「ただ……問題は近くに水がないことなんですけど……」
「大丈夫です! ここは日陰なので地面が湿っていますから、呪術で地中から水分を吸い上げれば十分な水が確保できるはずです!」
「……植物みたいな呪術ですね」
「絵里咲お姉さまも準備してくださいね。水の防壁ができたら飛び出しますから」
「わかりました!」
「いきます――早水分!」
菖蒲が呪言を唱えると、水中から数え切れないほどの細かい水滴が浮かび上がった。それはまるで、地上から天へと逆さに降る雨のようだった。その様子を神秘的だなぁと思いながら見惚れていると、水滴はみるみるうちに菖蒲が掲げる手のひらの前に集まってゆき――やがて、ひとつの巨大な泥水となった。畳3畳ぶんに広がった水塊はまるでカフェオレのように濁っていた。触りたくないと思った。
菖蒲は空中に浮かせた大量の泥水を外国人居留地の方向へ向け、二人は建物の影から飛び出した。
民家の陰から飛び出した2人めがけて、3発の銃弾が撃ち出された。そのうち2発はむち打つような音とともに泥水の防壁に着弾したが、泥水は弾丸の勢いを完全に殺してみせた。絵里咲の面目躍如だった。しかし、土臭い水が絵里咲の顔に掛かった。
命拾いした2人は2里(8キロメートル)を走りきり、神宮寺家が所有する海辺の別荘へ逃げ込んだ。




