第六七話 英国語の授業
「I have a sword――復唱してくださいね。せ~のっ」
「「「――あいはばそーど!」」」
「よくできました~‼」
那古野港を眺める丘にある古い寺子屋の一室。
絵里咲が英国語の文を唱えると、教室から木霊が帰ってくる。学びの早い生徒たちに絵里咲は顔をほころばせ、拍手した。
教室を埋めるのは、15人の武人だ。武人たちは非常に勉強熱心である。アルファベットを教えた2日後に、彼らはもう簡単な文を覚えだした。
武人たちはあまりにも真剣なので、先生のことを射抜くように見てくる。その鬼気迫る熱視線が自分に集中して、絵里咲は顔の肌が照り焼きにされてしまいそうだと思った。
絵里咲は学校でも有数の優等生だったといえ、ここまで情熱的ではなかった。彼らがここまで真剣なのは、いち早く英国語を身に着けて、家族や友人、恋人が暮らすこの国のためになりたいと願っているからだ。お国のために命を燃やす彼らの熱い学習意欲は、せいぜい自分の将来のために勉強に遅れまいとしていた現代人の絵里咲には到底敵わない。彼らと競えばクラス1位の成績など取れようもないから、同じクラスにいなくてよかったと思う。
彼らの燃えさかる熱意に足るような授業をしなければと思うと、身が引き締まる思いだった。
「次はcanについて説明します。『I can blah-blah』で、『私はブラブラができます』という意味になります(※1)。ではさっそく例文を覚えていきましょう! ――『I can swing a sword』で、『私は剣を振れます』という意味になります。ここまではよろしいですか? ――はい。では次は、相手に剣を振れるか訊ねるときの文を教えますね」
生徒の大半は那古野藩の武人なので、武人に馴染みのある例文にしてみた。予想通りウケがいい。
だが、英国語を英国訛りを教えるのは難しかった。
この武人たちが実際に英国語で喋る相手は英国人なのだが、残念ながら絵里咲は英国訛りを使わない。英国訛りには特徴があり(※2)、例えばcanの場合「キャン」ではなく「カン」と発音するのだが、絵里咲がやると関東人が喋るエセ関西弁みたいになってしまい、正直痛い。
「せんせ~! 質問です!」
手を上げたのは一番前の真ん中に座って目を輝かせながら授業を聞いている生徒、神宮寺菖蒲だ。彼女は武人たちの中でも英国語の習得にいちばん熱心で、いつも質問攻めにしてくる。ちなみに、姉の悪役令嬢は英国語を勉強する気はないらしく、他の仕事をしている。
「はい、神宮寺さん。なんでしょう?」
「剣が振れない人はなんて言えばいいですか?」
「すみません。その説明を忘れてました。I can’t swing aswordと言います!」
「なるほど。あいかーんとすうぃんがそーど」
「うふふ。上手ですよ」
絵里咲はパチパチと手を叩いた。
彼女の存在は、那古野に来てから絵里咲の毎日が楽しい最大の理由だ。
「次に、『あなたは剣を振れますか?』と聞きたいときには、『Can you swing a sword?』みたいに、canと主語をひっくり返します! では、みなさん私の質問に答えてくださいね~。――Can you swing a sword?」
「「I can swing a sword!!!」」
「I can not swing a sword!」
※1――blah-blahは空欄を埋めるときに使われる言葉で、無理やり訳すと『ナントカナントカ』くらいの意味。
※2――本当に特徴があるのは米国訛り。
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「うわぁ~~! まるで異世界みたい!」
「あはは……」
ついに完成した外国人居留地を目にした菖蒲が漏らす驚嘆に、「そもそもここは異世界なんですよ」と言いたくなったが、ぐっと呑みこんで苦笑いした。
ダークチョコレートのような木組と、パステルカラーの壁が美しい洋館のことを、武人たちは〈異人館〉と呼んでいる。〈異人〉とは主観的に過ぎる呼び名だとは思ったが、200年も外国人と触れ合ってこなかった人々に現代人と同じような国際感覚を期待するのは酷なのだろう。
色とりどりの異人館が立ち並んでいる光景は、まるで本物の西洋の町のようだった。もし乙女ゲーム『肇国桜吹雪』のスタート地点がこの場所だったら、プレイヤーは白馬に乗った金髪碧眼の王子さまとの逢瀬を期待するだろう――弓好きな赤髪の極悪令嬢などではなく。
西洋風の石畳で整備された外国人居留地の路上で、武人と外国人が入り混じって歩いている。彼らは一見なんの問題もなさそうに見えるが、お互いに物珍しい視線を送っているし、まだお互いがすれ違う際にはかなりの距離を取っている。武人は背の高い英国人(しかもシルクハットを被っているせいでさらに大きく見える)に圧倒されており、英国人は武人の腰にぶら下がっている刀を恐れている。
こんな風にお互いに恐怖を感じているようだと、完全な国際交流が実現するのはまだまだ先の話になりそうだ。
基本的に、外国人居留地には和国人は立ち入ることができない。和国人が住むところに外国人が立ち入ることもできない。お互いに出入りするためには、藩が発行する許可証が必要だ。許可証が発行されるのは大商人や外交を担当する一部の武人だけで、基本的には入れないと思っていい。絵里咲が外国人居留地に入れているのは、菖蒲が一緒だからである。
現実の歴史でも開国から40年ほどは外国人の移動に制限があった。無用なトラブルを避けるため、当面はこの制度が続くだろう。
開国派の絵里咲も、それには賛成だ。トラブルが頻発すれば、通訳として余計な仕事が増えるから。
「ヘイ‼ I can’t swing asword(私は剣を振れません!)」
「...Sorry!?(なんて?)」
突然、菖蒲が道行く英国人紳士に話しかけた。彼は怪訝な顔をした。
シルクハットを被って、黒い外套を羽織っている彼は、茶色い口ひげを生やしてどこかひょうきんな顔立ちをしていた。
英国人は比較的シャイで礼儀正しく、そこまでフレンドリーではない人が多い。この時代は和人のほうがよっぽど厚かましいくらいだ。とはいえ、英国人も町ですれ違った知らない人と喋るくらいのことはよくある。
「Can you swing a sword?(あなたは剣を振れますか?)」
菖蒲は授業で覚えた英国語をさっそく実践に移したいようだ。先生として、向上心の高い生徒がいるのは何より嬉しいことだ――会話の内容が多少狂気に満ちていても。
英国人紳士も、菖蒲が拙いながらも自国語で話しかけてきているとわかり、笑顔になった。言葉の勉強中だということが伝わったのだろう。自国の言語を身につけようと努力している外国人を見るのは誰にだって嬉しいことである。
「I don't think I can... I shoot a gun though(どうだろうなぁ。でも銃なら撃つぜ)」
「彼、なんて言ってるんですか?」
「銃なら撃ちますよって言ってます」
「あはは。かっこいいですね~」
「She said you were cool(かっこいいと言われてますよ)」
「I know. Cheers my friend」
「知っているけどありがとう――だそうです」
「センキュー!」
口ひげの紳士は軽く挨拶すると、菖蒲とハイタッチして去っていった。
菖蒲はご機嫌だった。自分の言葉が本当に通じたことと、英国人と初めて意思疎通を図れたことが嬉しいのだろう。口ひげ紳士も同様に嬉しかったはずだ。




