第六六話 那古野港
「おい! そこの嬢ちゃん! 木箱をそっちに運んどいてくれ」
4日の行程を踏破した絵里咲たちは、さっそく那古野港にやってきた。
現代におけるこの場所は国内の貿易黒字の6割以上を稼ぐ主要港で、世界でもトップクラスの規模を誇るが、それは160年後の話。昔の那古野港は浅瀬が多く、小舟しか入ってこれなかったので、こぢんまりした普通の港だった。
20世紀初頭に人工島が作られたことで、貿易船のように巨大な船も乗り入れできるようになる。
今、那古野港で行われているのは、まさに人工島を作り、その上に町を作る工事だ。土地の埋め立てはほとんど終わっており、あとは家を建てるだけだ。最新の呪術を使った建築は異次元の早さで進んでいる。
絵里咲に話しかけてきたのは、そんな那古野港で作業をする男のうちの一人だった。大きな木箱の中には紅いレンガや大理石が積まれている。
絵里咲があたふたしながら箱を持ち上げようとすると、椿が割り込んで下ろさせた。
「誰にモノを申してますの? ここにいるのはわたくしの妻、神宮寺絵里咲ですのよ」
「まだ違いますけどね~」
まだプロポーズしてないから。椿は絵里咲の顔をちらりと見た。まだという前置きに反応したのだろう。
男は絵里咲を見ながら、口をポカンと開けた状態で固まった。そして次の瞬間――視界からフッと消えた。
「ハハァーーーっ! 大っっ変申し訳ないことを致しました‼ どうかご無礼をお許しください‼」
一瞬にして地面にひれ伏し、土下座の姿勢になったのだ。男の頭が地面に付くまでの時間は物体の自由落下より速かった。あまりの速さゆえ消えたように見えたのだ。
土下座したままガタガタと震えている男の腰を見ると、刀がなかった。刀を携えていないということは、身分は低い(絵里咲と同じくらい)ということだ。もし身分の低い者が藩主の妻に非礼を働けば、その場で首を切られてもおかしくない。恐怖に震えるのは当たり前である。
「大工さん。頭を上げてください。あたしも働きますよ」
「滅っっっっっっっ相~~~もございませぬ‼ 拙者めがお運び致しましょう‼‼」
男の話し方にはやたらとエクスクラメーションマークが多く、絵里咲の鼓膜は破けそうになった。
絵里咲は耳を指で塞ぎながら言った。
「お気になさらず、木箱の運搬くらい任せてください。菖蒲さまも働いていますからあたしも働きますよ」
菖蒲も呪術を駆使しながら屋根の敷設を手伝っていた。偉そうに現場監督だけしている椿と違い、大変謙虚である。彼女のほうが次期藩主に向いているんじゃなかと思った。
「いえいえ。拙者めにすべてお任せください‼ 藩のため、公のため、身を粉にして働きます。ですので、どうか命だけはお助けください‼」
必死に命乞いをする男の後ろに、続々と作業員たちが集まってきた。彼らは何のためらいもなく地面に頭を付けた。
「椿さまお願いです‼ どうか杉原さんを殺さねえでくだせえ‼」
どうやら、絵里咲に荷運びを頼んだ男は杉原というようだ。さん付けということは、この場でも高い立場なのだろう。
「杉原さんはこの辺りじゃ一番の建築士で、この人が居ねえと現場は成り立たねえんです‼」
「椿さまぁ‼ 杉原さんを殺すなら俺を代わりに殺してくだせえ‼」
「いや、ぜひ私を代わりに!」
「代わりに俺を!」
「代わりに俺を……いやこいつを!」
「なんでだよっ‼」
あっという間に20人もの大工が集まってきて土下座したので、地面が賑やかになってきた。どうやら杉原という男は部下に慕われているようだ。皆、必死に額を地面にこすり付けている。
椿はため息を吐いた。
「なにを仰いますの。これくらいで藩民を殺しはしませんわ」
さも当然という含みを持たせた一言に、部下たちの表情がパァッと明るくなった。
「「かたじけのうございます‼」」
――これくらいで殺しかねないくせに。
絵里咲は別の意味でため息を吐いた。
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絵里咲は日が傾くまで働いた。身体強化術が使えるから、力仕事では意外と役に立つことができた。
絵里咲が働いたのは、未来の外国人居留地となる小さな島だ。那古野とは細い橋でつながっており、普通に暮らす和人とは隔離されている。和人と外国人が顔を合わせて殺し合いに発展しないようにするためだ。外国人居留地に入ることができるのは、藩の許可を得た和人だけだそうだ。
そんな措置がなされるのも、外国人嫌いが多い那古野藩ならではである。
小島の上には和風の建物と洋風の建物がちょうど半々くらいの割合で並んでいる。和風の家にガラス窓が付いていたり、洋館の屋根に瓦が使われていたりと、和洋折衷建築の萌芽のようなものも散見される。二つの歴史が交わり、おもしろい化学反応が起きそうな雰囲気があった。
旧套墨守の和国に新しい風が吹いて、新しい歴史が始まるんだ――そう感じさせるような光景だった。
未来の外国人居留地は、日進月歩のスピードで形になってきている。着工は15日前の7月中旬だったそうだが、早くも8月の中旬までには外国人の入居が始まり、本格的な貿易が始まるそうだ。
「とっても綺麗だと思いませんか? 椿さま」
椿は工事の進捗を見るために、海辺の長椅子に腰掛けていた。
荷運びの仕事を終えた絵里咲は椿の隣に座った。
「和洋がこき混ざってちぐはぐしていますわ。景観は統一したほうが美しくなるものですのよ」
「これでも建築家たちは和洋を折衷する苦労を重ねているんですよ?」
「折衷などせずとも、和だけで統一すれば苦労などせずに済みますのに」
「あはは。仕方ありませんよ。英国人は畳の生活に慣れていませんから。彼らにも住みよい部屋にしませんと商売が捗りませんよ」
「わたくしだってそれくらい理解していますわ」
悪役令嬢と徒然に話をしていると、一人の家来が椿に近づいてきて話しかけた。
「椿さま。拙者は居留地の警護でございます。――いまのところ、和人と夷人の諍いは起こっておりません。歳実公や椿さまが外国を受け入れる姿勢を示したことで、藩の者たちも恭順な姿勢を見せているようです」
「結構ですわ。引き続き警戒に当たりなさい。一度でも斬りつけ事件が起これば英国との戦争は免れませんわ」
「御意!」
そこにあったのは、外国人嫌いの悪役令嬢がちゃんと外交のことを考えている光景だった。悪役令嬢が英国人の命を守ろうとするなんて、ゲームで遊んでいたときには想像もできなかった。
椿はゲーム『肇国桜吹雪』の作中とまったく違う行動を見せている。思い上がりかもしれないが、こんなふうに他国に寛容な姿勢を見せるのは自分のためでもあるのだろうか――絵里咲はそんな風に思った。
「椿さまは外国人がお嫌いでしたよね?」
「もちろん。大嫌いですわ」
思った以上に明快な回答をいただいた。
「では、どうして開港を認めたのです?」
「……仕方ありませんわ。それが藩のためになるからですのよ」
椿は噛み締めた。まるで、開港は苦渋の決断だと感じているように見えた。
差し出がましいかもしれないと思ったが、絵里咲は口を開いた。椿の判断に自信を持たせてあげたかったから。
「椿さま。外国人も悪い人たちばかりじゃないですよ」
「……なぜそう思いますの?」
「――今、米国では国が南北に分かれた内戦が起こっています」
「花園の乱みたいですわね」
「ええ。花園の乱みたいです。――ところで、その内戦の理由をご存知ですか?」
「知りませんわ。どうせ、くだらない後継者争いでしょう?」
「いえ。それは花園の乱です」
「それなら……民族同士の戦いとか?」
「違います」
椿は顎に手を当てしばらく考えたが、観念したように訊いた。
「……教えてくださる?」
「――奴隷を自由にするためです。奴隷を自由にするために、奴隷でない人たちが戦っているんです」
椿が一瞬、絵里咲の方を向いた。
「奴隷解放を巡って、南部の奴隷賛成派と北部の奴隷反対派が争っています。米国が和国に手を出せないのは、奴隷を解放したいからなんです」
絵里咲が話しているあいだ、椿は頷きもせず、相槌も打たず、ただ水平線を眺めていた。その横顔に向かって絵里咲は話し続けた。
「みんなは和国以外の国のことを夷国だ賊国だと呼びますが、あたしは和国以外にも素敵な国があると思います。そんな彼らと手を組むのはそれほど悪いことじゃないと信じているんです」
夕陽に照らされて緋色に染まった椿の横顔が綺麗だと思った。
「だから、椿さまが開港すると言ってくださったとき、あたしはとても嬉しかったんです。これをきっかけに、違う国とも理解しあっていけるんじゃないかなって思えて」
「……夷国は夷国ですわ。見た目も言葉も違う者たちと分かり合うことなんてできませんの」
椿は素っ気なく言った。
「それでは……」
「――ただ、公平な貿易は約束しますわ。外国人だからといって斬り殺しもしませんし、不利益を被らせたりもしませんの」
「椿さま!」
「貴女の好きなコッヒーも好きなだけ入ってきますわ」
「わ~~い! ありがとうございます!」
絵里咲は椿に抱きついた。絵里咲としては、椿ではなく珈琲に抱きついている気分だった。
「ええ。遠慮はいりませんわ。いくらでも飲みなさいな」
椿は絵里咲の髪を撫でながら言った。絵里咲は目をパァッと輝かせた。
「……あたし、本当に那古野藩に来てよかったです! ……以前いただいたコッヒーが無くなりそうだったので」
「――那古野に来たのはコッヒーが目的でしたのね⁉」




