第六二話 お暇(いとま)
「それでは流々子さま。夏のあいだ一月は那古野に行きますので、しばらくのあいだお暇をいただきます」
この世界に転生して5ヶ月近く経つ。最初は彦根守邸でおそるおそる呪術の練習をしていた絵里咲だが、いまでは京でもっとも快適な居場所になっていた。
そんな彦根守邸の縁側に座る流々子に向かって、絵里咲は深々と頭を下げた。
「雇った覚えはないので、お暇は好きなだけあげます。あと、羊羹もあげます」
流々子は皿に乗った羊羹を差し出した。砂糖が貴重な花園時代で、羊羹はとんでもなく価値が高い。1棹で銀5匁(現在の価値で6000円)もする。
「あっ、ありがとうございます」
絵里咲は卒業証書を受け取るときよりもおそるおそる手に持った。
この時代の羊羹は亭主が儀礼的に出す菓子であって、客が食べるためのものではない。京では「羊羹を 素直に食べて 睨まれる」という川柳が詠まれるように、家に招かれて羊羹を出されたときには、それを素直に食べてはいけないという暗黙のルールがあるのだ。
客として招かれた家で羊羹を出されたときには礼だけ述べて手はつけず、そのまま帰るのが礼儀である。亭主が羊羹を連日客に出して、数日経つと砂糖が吹き出して白く変色してくるので、その頃になってようやく亭主の口に入るのだ。
しかし、流々子はそのような回りくどいことをするほど金に困っていないだろう。絵里咲はそう信じて恐る恐る一口齧ると、奥深い甘味が舌に染み込んで、つい口元がほころんだ。
一口味わってから上目遣いで流々子を見ると、ニコッと笑いかけてきたので、やっと安心してパクパク食べ始めた。
「流々子さま。もしあたしに会えなくて寂しくなったら手紙を送ってくださいね。あたしもたくさん書きますので!」
「送るわ。飛脚だと1~2往復が限界でしょうけれど」
「飛脚って意外と遅いんですね」
「遅いのよ。もう少し早くならないかしらね」
スマホでメッセージを送ると届くまで1秒も掛からないが、花園時代には10日以上かかるのがザラだ(地方によるが)。京―那古野間は近いから、だいたい5日くらいだろうか。
「そういえば、お手柄だったそうじゃない。えりず」
「絵里咲です。お手柄っていうのは……椿さま襲撃事件のお話ですよね?」
「勇敢に戦って大将格を仕留めたと聞いたわ」
まだ現代の感覚が抜けきっていない絵里咲は、刃物で人を刺して褒められているという状況に激しい違和感を覚えた。
あの日、絵里咲が暗殺者を縛り上げてから寮に帰ったとき、茶々乃は悔しそうに歯噛みしていたのを覚えている。真の武人を目指している茶々乃は、絵里咲のほうが先に武人としての功績を上げたことに嫉妬したのだ。対する絵里咲は、レイピアで肉を突いたときの感触がまだ手に残っていたから、吐きそうなほど嫌な気分だった。茶々乃はぎゃーぎゃー喚いていたけど、それを無視して寝込むとひどい悪夢を見た。翌朝、寝不足で苦しみながら二度と戦いなどしたくないと思った。
だが、これから戦闘イベントの度にそんな逡巡をしていては自らの死――ひいては大切な人の死に繋がる。
この世界で生きていれば、いずれは自らの手で人を殺さざるをえない日が来るだろう。その前に絵里咲自身が殺される可能性の方が高そうだが。
「流々子さまに頂いた若水のおかげです! 骨を斬っても刃こぼれ一つありませんでした」
絵里咲は腰の細剣――〈若水〉を抜いてみせた。血糊まみれになったときは剣身に血糊の生臭いニオイが染み付いてしばらく気持ちが悪かったが、磨き上げてピカピカにすると愛着が戻ってきた。
「調整が必要なときには東行に頼むといいわ」
「流々子さまに頼みますよ。春風さまに頼んでも、どうせ流々子さまに渡すだけでしょう?」
「じゃあ、東行が留学から帰ってくるまでは私に渡しなさい」
「いい加減、細剣をくれたってことを認めたらいかがですか」
「嫌よ」
「そうですか」
ちなみに、東行春風は清国に留学しているが、3ヶ月近く経ってもまだ帰ってこない。手紙の一つも寄越さない。それでいいのか乙女ゲームの攻略キャラ。
「ところで、貴女が戦った浪士たちがいまどうしているか知っていて?」
「知りませんけど、取り調べは進んでいますか?」
「全員死んだわ」
「ぜ……全員ですか? 椿さまは2人しか殺してませんでしたよ」
「ええ。椿の矢で2人死んだわね。そのあと、太腿を撃たれた1人は失血死したそうよ」
「それは残念ですね……」
いくら自分たちを殺そうとした奴らとはいえ、一言二言交わしたことのある人間がもう死んでいると知るのはよい気分ではない。
「残りの2人は奉行所で島田直茂の殺害について拷問を受けたわ。大将格の加東という男は島田直茂の腹に剣を突き立てたことを自慢気に喋ったそうよ」
「あたしにも自慢してきました」
「ただ、加東はそれ以上のことを話す前に舌を噛み切って死んだわ」
「自殺だったんですね……。もう1人の男は何を喋ったんですか?」
「もう1人の男は暗殺に関わったことを否定した上で、水を掛けているうちに息絶えたそうよ」
「そいつも関係者です。あたし、暗殺現場の近くで5人全員の顔を見ました! というか、暗殺事件の日にあたし達を襲ったのは6人組なんですけど……」
気がかりなのは、路地裏で斬りかかってきた黒バンダナ男があの場に居なかったことだ。
黒バンダナ男の刀には血糊がべったり付いていた。刀を拭きながらこちらを睨んでいた鋭い目元が脳裏に浮かんだ。人を殺した直後の、興奮した肉食動物のような目だった。――島田直茂を殺したのはあの男で間違いないだろう。
「もちろん関係者でしょう。ただ、加東が舌を噛み切って死んだということは、誰かを恐れているのよ。口を割れば死よりも恐ろしい目に遭うと分かっているから」
「死より恐ろしい目……ですか?」
「たとえば、恋人や家族を人質に取られているとか……ね。えりずだって、もし愛する人が人質に取られていたら自白する前に死ぬでしょう?」
「……そうですね。あたしも流々子さまが人質に取られていたら命なんか投げ出します」
ああ言っちゃったー、と一人で盛り上がった絵里咲。流々子が嬉しそうな顔をすればいいと思ったのだけど、返ってきたのは想像と違う答えだった。
「きっと、椿も同じことをするわね」
「へ?」
「椿も、絵里咲のためなら命を投げ出すはずよ」
そう言われた絵里咲は、頭の中で妙にリアルな想像をしてしまった。
――絵里咲が横断歩道を歩いていると、大型トラックが突っ込んできた。絵里咲が死を覚悟すると、どこからともなく現れた椿が絵里咲を突き飛ばし、自分自身は轢かれてしまった。
――なんで現代風なのよっ!
ツッコミどころ満載な映像を脳内から振り払うため、頭を左右にフルフルと振った。
「……そうですかね」
しかし、想像してみるとやはり命がけで守ってくれそうと思う。それどころか、菖蒲のことも流々子のことも、身を挺して守る気がする。
流々子は、そうと分かっているような口ぶりだった。幼い頃の2人は仲がよかったらしいから、椿の行動原理はよく理解しているのだろう。
「椿はそうよ」
流々子は椿を悪人だとは信じていないのに、椿を避けている。絵里咲の目にはそれが不思議に映った。
「あの、流々子さまは椿さまのことがお嫌いってわけじゃないんですよね。――なのに、どうして椿さまに冷たくするのですか?」
「夏だからよ」
「そうですか」
「そうよ」
――やっぱり相手にしてくれないわよね……
菖蒲も椿も、流々子と話したがっている。
いつか流々子が椿を避ける理由を知って、あわよくば解決できればと思うが……
――そう簡単な問題ではないかぁ、人間だしね
と、心の中でマセたことを呟いた。
「絵里咲。寒天でもどうかしら?」
「寒天……?」流々子が差し出した皿の上では、水色のゼリーが絵里咲を誘惑するようにプルプル震えていた。寒天と聞いて、今は亡き寒天タクゾウ殿の顔を思い出していたたまれなくなった。だが、脳が糖分を追い求める本能は抗いがたい。この時代、糖分は金のように貴重なのだ。「寒天に罪はない……寒天に罪はない……」
ぶつぶつとそんなことを呟いていると、
「寒天に罪はない、寒天に罪はない」
事情を知らない流々子が悪ノリを始めたので、絵里咲は両手をパチンと打ち合わせて、
「いただきます」
と言った。
楊枝の先でプルプル震えるタクゾウ……ではなく寒天は美味しくいただいた。




