第五八話 銀十貫
「よく来ましたわね。絵里咲よ」
「来ますよ。大事なお話があるのでしょう?」
月成の部屋をあとにした絵里咲は、朱雀門学校を出て神宮寺邸にやってきていた。大事な話があるということで、悪役令嬢に呼び出されていたのだ。今日はやけに貴人と会う予定が多くて疲れる。
椿がわざわざ藩邸まで呼んで話をしたいということは、情報が外に漏れるのを防ぎたいだろう。
クラスメイトの前で婚約したりするくせに、いまさら何を内密にするのかと思ったが。
「ありますわ」
「求婚ならお断りしますよ~」
「その話ではありませんの」
「あら珍しい。では何のお話なんですか?」
悪役令嬢は絵里咲の皮肉にも眉一つ動かさず、言った。
「単刀直入に聞きますわ。――貴女が英国語を話せるというのは本当でして?」
「えっ…………」絵里咲は返答に窮した。まず咄嗟に思い巡らせたのは、誰が入れ知恵したのかということである。人前で英国語を喋ったことはほとんどない。外国人嫌いが多いこの世界で英国語を話せば災いを招くとわかっていたからだ。唯一、兵庫津を訪れたとき流々子の前で英国人と喋ったから、流々子が椿に教えたのかと思ったが、すぐにその線はないと思った。流々子は椿と喋らないから。「喋りません!」
困った絵里咲は嘘をついた。
「……いまのは余計な質問でしたわね」
「へ?」
「貴女が英国語を喋ることは分かっていますわ。確実な筋からの情報ですの」
「じゃあなんで訊いたんですか!」
「ただの確認ですわ。――朱雀門に英国語を喋る学生がいると教えてくれたのは父上ですのよ」
「歳実さまが⁉」
歳実とはまだ会ったことすらない。どうやって絵里咲が英語を喋れると知ったのか不可解だ。絵里咲は顎を撫でながら考えた。
流々子が歳実に伝えたとも考えづらい。那古野藩と鳰海藩の仲は非常に良かったが、16年前に戦ってからは敵も同然なのだから。
だとすると……
――もしかして、兵庫津で英語を喋っている姿を見た島田殿が密告したのかしら……。余計なことをしてくれるわね……
「ええ。もう一度訊きますわ。英国語を喋りますの?」
「……英国語が喋れたら首でも切るおつもりですか?」
「まさか。わたくしは英国語を喋れる人材を探していましたのよ」
「英国人なら誰でも喋れますよ」
「正確には英国語と和国語の両方が喋れる人材ですわね。父上にその学生の特徴を聞いたら、茶髪で、三編みの……困り眉と言っていましたわ。1人しか思い浮かびませんでしたの」
「困り眉で悪かったですね‼」
「悪いとは言っていませんわ。むしろ識別に便利で助かっていますのよ」
「別に識別を助けるために困り眉になったわけじゃないんですけど……」
「では、絵里咲で間違いありませんのね?」
「……ええ、残念ながら。で、あたしをどう料理するつもりなんですか?」
「絵里咲も、わたくしの父上が治める那古野の港が夷国へ向けて開かれることは承知していますでしょう?」
「もちろんです。開港会議にも参加しましたから」
「寝ていたでしょう」
「う……」
開港を決める会議は歴史好きにとって血沸き肉踊るイベントだろうが、政治にちっとも興味がない絵里咲には退屈すぎた。
侃々諤々の議論も、興味がなければいい子守唄だ。
「そこで、貴女に英国との通訳を任せたいと父上が仰っていますの」
「あたしが? ……学校はどうするんですか?」
「学校は8月から夏休みに入りますでしょう。わたくしや菖蒲も那古野に帰って開港を手伝いますのよ。――貴女には夏のあいだだけ、通訳と英国語の教育係を務めていただきたいのですわ」
「そんなの、誰かに任せればいいじゃないですか」
「残念ながら、夷国嫌いの我が藩には英国語を喋れる人材が一人もいませんの」
「そうですか……」
絵里咲はどうやってお断りしようかと考えていると、悪役令嬢の一言に度肝を抜かれた。
「報酬は銀10貫ですわ。頼んでもよろしくて?」
「銀ジュっ貫⁉ 高すぎませんか?」
思わず声が裏返るのも無理はない。銀10貫を現在の価値に直すと330万円ほどだ。たった一ヶ月の仕事が町人の年収に相当する。茶々乃が欲しがっていた鎧も買えてしまう。
「京で英国語を喋れる人材はただ一人。流出を防ぐためにも、適正だと思いますけど」
「10貫かぁ……」流々子に頼まれた公使館における通訳の仕事は、ちょうど九月から始まる。それまで、那古野で身銭を稼ぐのはまったく悪い案ではない。絵里咲は少し考えて、結論を出した。「でも、お断りします」
「――なんですって⁉」
椿は素っ頓狂な声を上げたのも無理はない。絵里咲だって、330万円の仕事を断ったことに自分で自分に驚いているのだから。
しかし、絵里咲には懸念事項があった――いくら報酬が魅力的だとはいえ、椿と夏のあいだずっと一緒にいるのは避けたかったのだ。
ここ、神宮寺邸に鷹として忍び込んだあの日、額に口づけを受けて以来、椿とまともに目も合わせらることもできない。太陽と同じで、直視したら目が灼けてしまうような気がする。そんなわけはないのだが。
「報酬が惜しくありませんの?」
「お金は欲しいですけど……」
「では、なぜ――」
「夏休みは楽しみたいんです。京に来て初めてまとまった時間が取れますし、花火大会とかお祭りとかにも参加してみたくて……」
「……若いですわね」
「椿さまも同級生でしょう?」
「絵里咲は那古野を甘く見ていますのね。でも、那古野だって京に負けず劣らず面白い土地ですのよ。花火大会もお祭りも、那古野でできますの」
「でも、京には気の合う友人がいますし……」
絵里咲は苦渋の言い訳を絞り出した。京にはお雛や茶々乃、流々子はいるが、別に一月くらい会えなくたってどうってことない。とにかく、那古野に行きたくないのだ。
「問題ありませんわ。友人にも宿と食事を用意しますの」
「いえ、それは結構です」
「どっちですの」
友人が必要といったのは断るための言い訳である。もし本当に茶々乃と一緒に旅行するとなれば、ストレスで円形脱毛症になりそうだ。
「絵里咲。冷静に考えなさいな。那古野は夷国嫌いがもっとも激しい藩の一つ。貴女のように英国語を話せる者がいないまま開港すれば大きな齟齬が生ずるでしょう」
「生じそうですね~」
「もし、そんな勘違いから藩士が怒って、英国人を殺人する事件でも起きたらどうなるとお思いですの?」
「……戦争が起こります」
ゲームのストーリー分岐の一つに、そんなバッドエンドもあったなあと思い返す。英国との全面戦争をすれば、必ず敗北してバッドエンドに繋がるのだ。
プレイヤーの全く関係ないところで始まった戦争で勝手にバッドエンドになるのは理不尽だと思ったが、むしろ世界は理不尽なことがまかり通っているので逆にリアルと言えるかもしれない。
「ええ。戦争が起こるでしょう。そうなれば、夏祭りも花火大会も中止。それどころか、貴女や友人の命も危険に曝されますわ――それを防ぐと思って、来てくれませんこと?」
「ああ~もう。わかりました! 行きます! 行けばいいんでしょうっ!」
「最初からそう言えばいいんですのに。素直じゃないんだから」
「余計なこと言わないでください! 行きたくなくなるので!」
悪役令嬢は満足げに頷いた。
「――それと、重要な用事はもう一つありましてよ」
「も……もう一つ……ですか?」




