第五七話 護衛
「あの、月成さま……」
「どうしたのだ絵里咲よ。苦虫を噛み潰したような顔をして」
午後の授業が終わったあと、絵里咲は朱雀門学校の7階にある月成の部屋に来ていた。
絵里咲は心底憂鬱だった。苦虫を噛み潰したような顔をするのも無理はない。
なぜなら、月成から与えられた任務を失敗したことを報告しなければならないのだから。
「――申っっっっっし訳ありません‼」
「なぜ謝るのだ?」
「鷹に変じて神宮字邸に入ろうと試みたのですけど……大っっっ失敗しました‼」
絵里咲は地面に対して水平になるまで深々と頭を下げた。失敗を告げれば首を落とされるかもしれないと思ったから、全力で声を張り、反省を示した。
報告とは違い、実際には神宮寺邸への侵入には成功し、主に鳥籠の中や椿の腕の中にも侵入したのだが――もし本当のことを言えば確実に首を落とされると思ったから黙っておいた。
月成はゆっくりと立ち上がって、絵里咲に歩み寄った。カツカツと近づいてくる足音に、絵里咲は震え上がった。腰の刀を抜いて首を落とすつもりかもしれないと思ったから。
目をぎゅっと閉じ、残り少ない呼吸を楽しんだ。
だが――月成は刀を抜く代わりに、絵里咲の肩に手を置いた。
「そう力むな、絵里咲」
「……え?」
「お前の任務は必要なくなった。神宮字歳実は潔白だったのさ」
「……そうなのですか?」
その言葉を聞くと、胸を撫で下ろした。
月成との会話では、常に死を恐れてしまう。自分の生殺与奪権を完全に握っている相手と話すのは落ち着かないものだ。
「ああ。――これを見よ」
月成は、机の上に置いてあった木の板を拾い上げた。それは次代将軍が触れるにはふさわしくないと思われるほど汚らわしい板だった。ちょうど月成の胴くらいの大きさの木材に、赤黒いシミが染み込んでいる。板の中心からは大きな金属の針が突き出ていた。そこに何かを刺して固定する用途があるものと思われる。
使いみちが不明だが、拷問器具だろうか。いずれにせよ、不吉な物であるのは間違いないと思った。
「なんですか? それ」
「昨晩、鴨川に流れてきたのだが――直茂を殺した犯人からの声明文が書かれていたのさ」
「声明文?」
「ああ」
「でも、どうやって犯人からってわかったんですか?」
「わかるさ。――この釘の先に、行方不明だった直茂の首が打ちつけられていたからな」
「そんな……‼」
島田直茂の首は暗殺された際に犯人によって切り落とされ、以来、行方不明だった。その首を板に打ち付け、川に流すとは……ずいぶんと人情味が薄い。
「そんなの……あんまりです」
「直茂の最期がこのようになるとは、俺も無念さ……。だから、俺は犯人を捕まえ、同じ目に遭わせるつもりさ」
「同じ目?」
「ああ。捕まえて――首を落とす。そして、板に首を打ち付け、鴨川に流すのさ」
「それは……」
「それは……なんだ?」
やめたほうがいいのではないか、と思ったが、次期将軍に物申すこともできない。
「それは……下流の人がびっくりしそうですね」
と言ってお茶を濁した。
――月成もそれなりに残虐だってことを忘れてたわね……
「そんなことより、板の裏を見てみろ。お前の知り合いの犯行予告が書いてあるぞ」
「あたしの知り合い?」
「そいつが次に殺される奴だそうだ」
「ええっと……『次なる天誅は……神宮寺にぞ下されん』……って、椿さまがっ⁉」
絵里咲は木の板に書かれた短い文字列を読んだだけで、たちまち息が詰まり、全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。
「ああ。つまり、神宮寺家を皆殺しにするということだろう。――歳実も、菖蒲も、椿もな」
「そのことを椿さまは知ってるんですか⁉」
「もちろん知っているさ。昨晩、犯行予告の内容は京じゅうの武人に知れ渡ったからな。――ところで絵里咲よ、やけに前のめりではないか。椿が嫌いではなかったのか?」
「嫌いですけど……」
「なら殺されようと構わないではないか」
椿が死ぬのはゲーム『肇国桜吹雪』の確定イベントである。エンディングまでの三年以内に、あらゆる形で訪れる椿の死――通称〈首落ちポイント〉はストーリーのフラグ判定にも使われるくらいプレイヤーにとって馴染み深いものとなっている。
肇国桜吹雪を何百周もプレイしてきた絵里咲は椿の死が近い将来訪れることを知っていたし、それについてとくに悲しいとは思っていなかった。つい昨日くらいまでは。
だから、『椿が死ぬ』と聞いたときの、やけにうるさい胸のざわめきが何なのかわからなかった。
「嫌いですけど……」
「嫌いですけど……何だ?」
「さすがに……今すぐ死んでほしいとは思ってません」
月成は白い歯を光らせて柔和に微笑んだ。
「案ずるな、絵里咲よ。俺の前では良い子ぶらずに本音を言ってよいのだぞ。そう簡単には叶わんだろうが、俺も神宮寺が滅びるのを心から願っているからな」
まるで子守唄を歌う母親のように優しい口調だった。言っていることは物騒だったが。
「別に……椿さまのことが心配とかじゃなくて……。ただ……死ぬならあたしの気持ちの整理がついてからにしてほしいな~って……」
「はっはっはっ。甘いな、絵里咲よ」
「……なんで甘いんですか?」
「死は突然やってくるものさ。気持ちの整理がついてから死ぬことなどないぞ。お前も、お前の友も、お前の敵も同じように、お前の覚悟などできぬ間に死ぬ。覚悟が決まる前に死ぬから、俺たちは黒衣を纏ってその死を悼むのだろう?」
「はぁ……。なるほど」
月成の口から久々にまともな倫理観の言葉が飛び出したから、絵里咲は目を丸くした。月成の言葉のおかげで、現代人である絵里咲の死生観はあまりに平和ボケしすぎていると自覚することができた。
この時代の死は、現代よりもはるかに身近だ。老いも若いも、人はすぐに死ぬ。それが疫病か、殺人か、事故かはわからないが、どれも現代よりはるかに多い。『肇国桜吹雪』の主人公がゲームクリアまで生き残ることが難しいのもそれが理由だ。
「では、月成さまは椿さまをそのまま暗殺者に狙わせるおつもりなんですか?」
「それも名案だなぁ」
「名案って……」
月成の倫理観が平常運転に戻ったことで、逆に安心してしまう自分が怖かった。
「だが、今の俺にとってはもっと大事なことがある」
「大事なこと……ですか?」
「ああ。――直茂を殺した犯人を捕まえ、其奴の首を落とし、鴨川に流すことさ!」
「……そうでした!」
「そうだ。本質を見逃すな」
この人が将軍になったら世の中は大丈夫だろうか、と不安になってきた。
「……でも、どうやって捕まえるんですか?」
「簡単さ。直茂を殺した犯人と神宮寺に暗殺予告を出した奴が同じであれば、直茂を殺した犯人は神宮寺を殺すために椿の前に現れる可能性が高い。そうだろう?」
「そうですそうです」
「であれば、椿を狙う暗殺者を捕まえればよいのだ」
「なるほど。素晴らしい案だと思います! 月成さまに従う人に椿さまの周りに護衛を付けるんですね!」
「そういうことさ」
「さすが月成さまです!」
――よかったぁ~~
絵里咲はほっと安堵の息をついた。ひとまず、月成のせいで椿が死ぬのは少しだけ先の話になりそうだ。
と、胸をなでおろした絵里咲だが、月成の一言で再び凍りつくことになった。
「――だから、お前が椿の護衛となれ」
「……………………は?」
「聞こえなかったのか? ――お前が神宮寺椿の盾となり、町を歩いてこい。そして、直茂を殺した犯人を釣り出すのだ!」
月成が口にした『黒幕』は歌舞伎由来の言葉だ。絵里咲の記憶にある限りこの世界に歌舞伎は存在しないから、歌舞伎由来の語彙は開発時点で排除されるべきだっただろう――そんな、どうでもことが頭をよぎるくらい絵里咲は混乱していた。
「むりむりっ! むりですよ‼」
「なぜだ?」
「だってあたし、そんなに強くないですしっ!」
「嘘をつけ。春風が抱える若手ではお前が最強だろう?」
「最強じゃないです! 茶々乃といい勝負ですし!」
「茶々乃はダメだ。頭が悪いから作戦を理解できない」
「まあそれには同意なんですけど……」
「ならばお前しかいないではないか」
「ええ~~~!」
「俺から正式に幕命を下そうぞ――お前を神宮寺椿を守る家臣にすると。……明日にも聞くことになるだろうさ」
「いや、もっといい人がいますって……」
「俺の命令は絶対さ。よい働きを期待しているぞ。絵里咲」
「やっぱり茶々乃にしてください‼」
今回の月成の作戦は、なかなかよくできている。そこは素直に感心する。
護衛も付けずに町を出歩くのは椿くらいだから、ほぼ確実に、月成の思惑どおり直茂暗殺の犯人を引っ張り出すことができるだろう。
だが……
――早ければ明日にはゲームオーバーかしら……
以前、絵里咲が直茂を殺した犯人と対峙したときには、怖くて手が震え、剣も持てない有様だった。絵里咲は死を確信したが、間一髪のところでお雛の光呪術に助けてもらい、殺し合いに発展する前に生き延びることができた。
そんなわけで、犯人には絶対に会いたくなかったのだが……ついに、初めての本格的な殺し合いイベントが始まるようだ。
「……はぁ~~~」
「不服か?」
「いえっ。ぜんぜん! 失礼しますっ‼」
絵里咲は足早に月成の部屋を後にした。




