第五六話 熱い眉間
椿の屋敷から帰った絵里咲は、袴に着替えると、何事もなかったかのように朱雀門学校に登校した。
午前中の授業を何事もなく終えると、お昼ごはんを食べるために食堂へ向かった。
その途上で――
「そこな百姓」
「……絵里咲ですけど」
いま一番会いたくなかった人に出くわした。
「どうして不満そうですの?」
「だってぇ……」
つり目がちな目元を隠す長いまつ毛と、世界のすべてを手に入れたように恐れを知らない高圧的な表情。細長い指で真紅の髪をかき上げて耳にかけた。
引き結ばれた桜色の唇を見ると、昨日の感覚が鮮明に蘇ってしまい、顔が熱くなってきた。
目の前にいる武人の唇がちょうど眉間のあたりに触れて、離れたあとはちょっぴり湿っていた、あの感覚。
――う~~~ん…………
人差し指と中指を揃えて、眉間を撫でる絵里咲。
椿と目も合わせられなかった。
「? ――顔が赤いですわ。風邪でも引きましたの?」
「風邪っていうか、怪我はしましたけど」
具体的には骨を折ったりした。翼の。
「お間抜けさんですのね」
――同じこと、一昨日も言われたなぁ
「二回も言わなくていいですよぉ」
「一度しか言ってませんわ。耳までおかしくなりましたの?」
椿はキスをした鷹の正体が絵里咲だとは知らない、ということを思い出した。
「おかしくなったのかもしれないです」
「肯定されても困るのですけれど……」
絵里咲は椿を困らせたことに少しばかり愉悦を覚えた。
「絵里咲よ。今日の授業が終わったあと、那古野藩邸に来なさい」
「なんでですか?」
「貴女に大事なお話がありますの」
「お話……?」
――鷹に変身して神宮寺邸を見張っていたのがバレたのかなぁ。
どのみち、ろくなお話ではないだろう。
「怪我しているので今日はお部屋でゆっくりしたいんですけど……」
「どこを怪我したんですの?」
「二の腕です」
「見せてみなさいな」
「――ああちょっと!」
椿は絵里咲の左腕を掴んで、荒々しく袖を捲くった。それだけのことで、なぜかドキドキした。本格的に頭がおかしくなったのかもしれないと思った。
二の腕の肌には傷も痣もない。
「――って、なんとも無いじゃありませんのっ!」
「治しましたし」
椿さまがね、と心のなかで付け加える。
「治ったならいらっしゃいな」
「う~~ん……行きますけど~」
断れなかったが、絵里咲はこれ以上椿と一緒にいたくなかった。
これ以上椿の顔を見ていると、なんとなく自分の中で何かが変わってしまう予感がしていたから。
「不満そうですわね」
「いつもじゃないですか?」
「……失礼な態度もいまは許しますわ。今に、わたくしには最高の礼儀を以て接したくなりますの」
「なりませんからっ‼」
椿が立ち去ってしばらくしても、眉間がジンジン熱かった。




