第四九話 次期将軍の求婚
「流々子よ。今日も美しいではないか」
「光栄だわ」
流々子の屋敷。
月成と流々子はなにもない座敷で向かい合っている。
何の関係もない絵里咲は、頭から紗(ベールのようなもの)を被って顔を隠し、家来のふりをして流々子の隣に座っていた。どうしても月成に会いたくないと流々子に直訴したところ、流々子は顔を隠してくれたのだ。離席はさせてくれなかったが。
「そなたは幼いときから国中に美貌で知られていたな。城の男たちは、口を開けばそなたの話ばかり。そなたが齢を重ね、髪型を変えるたびに、ますます美しくなっていくという噂を伝え聞いたものだ」
「大袈裟よ。月成殿こそ、国が肇まって以来の色男だと女たちは噂しているわ」
「それこそ大袈裟さ」
大袈裟だ、と思った。
月成はまんざらでもなさそうだ。
「折り入ってそなたに話がある」
「なんでしょう」
「近ごろ、神宮寺や豊泉が不穏な動きを見せているな。特に神宮寺は那古野に港を開き、幕府にかわって関税をせしめる気だ。英国と取引すれば奴らはますます潤い、増長するだろう。――流々子よ、そなたも神宮寺の伸長を見るのは気分が悪いだろう?」
「そうね。最悪よ」
「神宮寺歳実の発言力も日増しに強くなっている。奴も、口を開けば高慢で鼻をつまむような発言ばかりさ」
「まったくだわ」
神宮寺家の悪口大会が始まって、それを隣で聞いているのは居心地が悪かった。椿はどうでもいいとして、善良な菖蒲まで貶められているのだから。椿はどうでもいいが。
「事情は切迫している。いまこそ彦根守家と石上家を束ね、国賊に立ち向かう時だとは思わないか?」
「それは、どういうことかしら」
「賢いそなたならわかっているだろう? 」
「つまり、求婚かしら」
「そうだ。――俺と結婚しろ」
まるで時が止まったように、流々子の表情が固まった。
絵里咲が求婚したときと違い、流々子は古事記の一節を諳んじなかった。
だから、受けるのだろうと思ったが――
「光栄よ」
「当たり前さ。天下一の男が求婚しているのだからな」
「でも――そんなもったいないお話、受けるわけにはいかないわ」
「……なんだと?」
「もっと適した人を見つけるべきではないかしら」
きっぱりと言う流々子。
「そなたは美しい。賢く、心も強い。家の格も歴史も申し分ない。国中探しても、お前ほど俺にふさわしい女はいないさ。――未来の将后となり、共に国を支えてくれ」
将后というのは、この世界の専門用語で将軍の妻のことである。花園幕府の女君は江戸幕府でいうところの御台所だが、それよりずっと権限が強く政にも大きく関わることになるから、第二の大老と呼ばれるほどの権限がある。
流々子が将后。正直、お似合いだと思ったが――
「残念だけど、私はそんな器にないのよ」
本人の返事はつれなかった。
「未来の将后としてそなたほどの適役はいない」
「それは過大評価だわ」
甘言蜜語をひらりひらりと躱す流々子。褒め言葉はときに弾丸のごとく人を傷つけるが、彼女はそれを避けるのが上手い。
「過大評価とな。それは俺の目を疑うということか?」
「いいえ。――ただ、自分のことくらい弁えているのよ」
「だとしたら、そなたが一番知らないのは自分自身だな」キマった、とでも言いたげに両目を閉じた――と思ったら開いた。「俺の妻になれ」
「……まずは父上に相談するわ」
「そなたの父上に相談したのだが、快諾してくれたぞ? 事前にそなたにも申し伝えておくと約束したのだがな」
「……」
「将軍との約束を破れば、秋霜な処分は免れぬが……。そなたの父――彦根守上玄は俺との約束を守らなかったということか?」
場に緊張が走った。
先ほどの口調から察するに、流々子は月成の求婚を知っていたはずだ。
(ここまではよい気がする)
「ねぇ絵里咲」
いきなり流々子が話を振ると、絵里咲は身を竦ませた。
紗で顔を隠して俯いていたのに、突如名前を呼ばれてびっくりしたのだ。
しかも、流々子が「絵里咲」と呼ぶのはなにげに初めてである。本名で呼ばれるのは嬉しいが、こんなところで呼ばないでほしかった。
「なっ……なんでしょう流々子さま」
「そういえば貴女も私に求婚してくれていたわよね?」
「……してます」
月成を敵に回すのはイヤだったが、求婚しているのは事実。嘘はつけない。
「ほう」
流々子は、片手で絵里咲の肩を抱き寄せた。
好きな人と密着できる幸せに、絵里咲のふっくらした上頬が真っ赤に染まった。
「この子、私の友人の絵里咲っていうの」
「顔を隠していて見えなかったが、この女なら知っているぞ。俺とこいつは因縁の仲だからな」
「……そうですね」
――因縁の仲というか、一方的に因縁をつけられた仲だけど
「あら、知り合いだったのね。紹介の手間が省けてよかったわ」
――知っていたくせに
「それで、絵里咲からの求婚が何だというのだ?」
「この子、熱心にも会うたびに求婚してくれるのよ」
「恥ずかしいですよ!」
「私はまだお返事ができていないわ。どうしようかしら」
絵里咲は流々子を睨みつけた。
――あたしをこの場に呼んだのは、こうやって盾に使うためだったのね!
流々子は後ろに回した手で脇をこちょこちょとくすぐった。よろしくね、ぐらいの意味合いだろう。それに怒った絵里咲は晩秋のリスのように頬をぷっくらと膨らませたが、流々子はちっとも見ていない。
「面白い。百姓と将軍を比べるつもりか」
「この子、私の前ではなかなか可愛らしいのよ。ねぇ?」
「あ……ありがとうございます」
とはいえ、流々子に褒められると素直に嬉しかった。心にもないのは分かっていたが。
「おまえたち……そういう関係だったか」そういう関係になれないから困ってるんだよなぁ、と頭を掻く絵里咲の目を、月成は射抜くような視線で見据えた。「ところで絵里咲よ――そもそもお前は椿の婚約者ではなかったか?」
「それは誤解です!」
「左様か」
「左様です」
「そうか。――では、そなたは椿と結婚せよ」
「なんでですかっ! 厭ですよ!」
「俺は流々子と結婚するからな。流々子を諦めれば、代わりに椿をあてがってやろう。――どうだ?」
「どうだじゃないです! 好きじゃない人をあてがわれても全然嬉しくないんですけど!」
絵里咲がぎゃーぎゃー騒いでいると、ふと、右耳にぞわっとした感覚が走った。流々子の指が耳たぶを撫でたのだ。
そういえば、流々子の父である彦根守上玄への追及はすっかり流れてしまった。
耳を撫でたのは、話題をそらしてくれてありがとう、程度の意味合いだろうか。
月成はふと右手を顎に当てて考える仕草をした。「椿といえば……」などと呟いている。
「どうかしましたか」
「なあ絵里咲よ。……そういえばお前に用事があったのだ」
「あたしに用事……ですか? ただの百姓ですよ?」
「流々子。絵里咲を借りてよいか?」
「どうぞ。――ただ、できれば殺さないでいただきたいわ。」
「殺すっ⁉」
「私の大切な玩具なのよ」
「いま漢字おかしくありませんでした⁉ どうやったんですか⁉」
「はっはっは。安心しろ。未来の妻の友人を傷付けたりはしないさ」
「安心したわ」
「――? ――?」
一介の百姓にすぎない絵里咲は、勝手気ままな貴人2人に振り回されて目が回りそうだった。




