第四二話 開港会議
鳰海藩の彦根守邸から菖蒲の残り香を追いかけると、那古野藩の神宮寺邸にたどり着いた。二つの藩邸は隣同士だが、大規模藩の藩邸であるため隣といっても2町(約200メートル)くらいの距離がある。
名を名乗って神宮寺椿に会いたいと申し付けると、座敷に案内された。那古野藩邸を訪れるのは地味に初めてである。
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座敷には五十余名の藩士達がずらりと並び、ガヤガヤと賑わっていた。彼らは那古野藩に領地を持つ武家貴族の家長たちであるが、白髪のご老人から菖蒲より若い少女まで様々いることに絵里咲は驚いた。
最上座に座る椿は那古野藩の家来に囲まれて、いつもどおり不遜な笑みを浮かべていた。「表情がワンパターンだなぁ」と呆れる。
椿は絵里咲の顔を見るとパッと目を輝かせ、話しかけてきた。
「あら絵里咲。主人を焦がれるあまり訪ねて来ましたの?」
「主人なんていませんよ」
「目が見えないのならそう言ってくださる?」
「目は見えます。主人はいません」
椿が余計なことを言ったせいで、家来たちの視線が絵里咲に集中した。
藩主の娘に想いを寄せられているとバレれば面倒なことになるからなるべく伏せたかったのだが、そうはいかないようだ。
「菖蒲さまはどこですか?」
「さぁ、どこかで仕事をしていると思いますわ。ご覧の通り、那古野藩士は従士から藩主まで足袋が擦り切れるような忙しさですのよ」
「なにがあったんです」
「さきほど、和英修好通商条約が正式に締結されましたの」
「通商条約が?」
「黒船上で交渉に臨んだ島田直茂という幕臣が勝手に条約に印を押したという報せが、今しがた届いたんですのよ」
「勝手に押したんですか⁉」
「ええ。将軍の許可もなく勝手に」
「それは荒れますね……」
「ということで、いまは未来の妻といえど貴女に構っている余裕がありませんの」
「ご安心ください。椿さまに用があるわけじゃないので」絵里咲は椿の護衛を努めている男の一人に訊いた。「あの、菖蒲さまはいらっしゃいませんか? ほんの少しのあいだだけでもお話できればって思うんですけど」
そのとき、ズサーッという擦過音とともに入り口の襖が開いた。奥から現れたのは菖蒲ご本人だった。
「あれ、絵里咲お姉さまじゃないですか。どうなさったんですか?」
菖蒲はあこがれの人である流々子と久しぶりのご対面で、冷たい歓迎を受けた直後である。去り際には涙目にもなっていた。さぞ落ち込んでいるかと思ったのだ。
だが、実際に顔を見せた菖蒲はケロッとしていた。
「菖蒲さま! いえ、先ほどの件でお話しようかな~っと思ったんですけど、今はタイミン……ご都合が悪いですよね~」
「そうですね。今どころか、今日から数日は修羅場です!」
菖蒲はお国の一大事だと知って、即座に仕事モードに入ったのだろう。
武人は気持ちの切り替えが早いなぁと感心した。ぜひ見習いたい。
上座で二人の会話を見ていた椿が、絵里咲に話しかけてきた。
「絵里咲。今日は家に帰りなさいな。わたくしの寝室で待っていてもよろしいのですけど、夜半まで帰れないかもしれませんわ」
「言われなくても待ちませんよっ!」
道徳的にはどうかと思うが、大勢の家来の前で下ネタを振る図太さは藩主に向いているのかもしれない。
「椿お姉さま」
「なんですの?」
「提案があるんですけど、絵里咲さんも話し合いに参加させたほうがよろしいのでは?」
「はい?」
「絵里咲を? この者は百姓ですのよ。藩の一大事を決める談義に百姓を参加させるなんて前代未聞ですわ」
「いまは百姓ですが、いずれ椿お姉さまの妻となるんです。藩主の妻として、今後こういった政治的な話し合いに参加することもあるでしょう。この機会に経験を積んでいただくことも重要だと考えます!」
「だから妻になりませんからっ!」
「そうですわね……」
悪役令嬢は顎に手を当てて考える素振りを見せると、菖蒲に言った。
「絵里咲はまだ会議に不慣れですわ。わたくしは司会進行をしますから、貴女が面倒を見てあげなさいな」
「もちろんです! 未来のお義姉さまですから! ――ささ、絵里咲さんはこちらにお座りください!」
菖蒲は自分の隣の座布団をポンポンと叩いた。
絵里咲は帰りたくてしょうがなかったが、大勢の家来が見ているなかで「帰りたい」と言えば菖蒲に恥をかかせる気がして、断ることができなかった。
藩主の次女である菖蒲が座っているのは椿の近くであり、家来たちの注目を浴びる位置だ。その隣りに座った絵里咲も、同じくらい目立つ席だった。
那古野藩士50名の視線が、新顔である絵里咲に集まった。
絵里咲は地獄耳だから、「あの者が椿殿の妻か」「神宮寺が百姓妻を娶ることにゃ賛成できんなぁ……」といったヒソヒソ話もばっちり聞こえていた。会議が始まるまで、「娶られるわけないでしょう!」と言い返してやりたい衝動が絵里咲を襲った。
だが幸いなことに、絵里咲が衝動を行動に移すまえに会議は始まった。
「静粛に! ――すでに噂を耳にした者が多いと思いますが、先ほど和英修好通商条約が受理されましたわ。只今より執り成す談義においては、通商条約の要点について各士に伝え、その処理について我が藩の決定を皆に申し伝えたいと存じますの。藩主・神宮寺歳実公は現在花園城で将軍に意見を申し上げておられるので、この場は長子であるわたくし椿が藩主の代理として意見をとりまとめましょう」
朗々と演説する椿。藩主の娘だけあって、人前で話すことには慣れているようだ。
「まず、御用学者の天白勘閲殿。通商条約の要旨を簡潔にご説明なさってくださる?」
勘閲殿と名指しされて反応したのは、椿のとなりに座っていた老齢の女性だった。短く切り揃えられた美しい白髪と、深く刻まれた豊齢線からは、圧倒されるような貫禄を感じた。
「はい。――このたび結ばれました通商条約には実に多くの論題がございますが、我々が決めるべきことはたった一つ。英国は貿易を開始するため、五つの港を外国に向けて開くことを求め、幕府はそれを受け入れる決定を下しました。まず幕府直轄となる港が三つ――倉樹(横浜)、兵庫津(神戸)、赤間関(下関)。そして藩の管轄となる港は火護、そして那古野でございます」
那古野藩士達のどよめきが起こった。
話についていけない絵里咲には、なにがどよめきを起こしたのか理解できなかった。
「このうち、長崎港と那古野港は藩の管轄になります。頑なに開国を拒んできた我が藩に港を開かせようとするのは、おそらく幕府側による我が藩への譲歩でございましょう。もし、我が那古野港が国際的に開かれるのならば、貿易にかかる関税をいくらか掛けることができるのですから、藩政が大きく潤うことは確実とみられております」
不平等条約と呼ばれた通商条約も、当初は不平等だと理解されていなかったという。特に関税自主権が不平等だと知られるようになるのは条約締結から二十年近く経ったあとだ。
「助かりますわ、勘閲殿。――以上のような条件を、我が藩は受け入れるつもりでいますわ。何か言うべき意見がある者は、今この場で発言しなさい。この場でいかなる意見を言ったとしても、この場限りに収めることを約束しますわ。明日以降の反論は聞き入れませんの」
「――まず拙者からよろしいか」
椿が言い終わってから最初に発言したのは、絵里咲の左斜め前に座っている中年の男だった。五十代後半だろうと推測する。白髪交じりの髪の毛は薄くなっており、眉間には気難しそうな皺が寄っていた。
「倉康殿。続けなさい」
「我々の主君・歳実殿は夷国嫌いで知られるお方。通商条約の締結にも強硬に反対しておられました。大老である歳実殿の提言を差し置いて締結されたに違いない通商条約、忠義を誓った我々が受け入れるのは如何なものかと」
「確かに、父上は通商条約に反対しておりました。しかし、一度調印されてしまった条約を受け入れると決断したのも父上です。貴方が真に忠義を誓ったのなら、むしろ主の決定に従うべきでございましょう?」
「ですが、調印したのは島田直茂による事故などではございませぬ!」
「では何が起きたと?」
「椿殿。私は歳実殿の護衛として何度も花園城に出仕しております」
「存じております」
「恐れながら、私の言葉を信じてくださいませ。――此度の調印は策略でございます」
不穏なざわめきが起こる。誰もが息を静め、彼の次の言葉に注目した。
「どういった策略があるというんですの? 信じるかどうかは、まず貴女の言葉を聞いてから決めますわ」
「かたじけなく存じます。……調印したのは島田直茂殿でございますが、彼は浄瑠璃のように操られていただけにございます」
「誰に操られていたと言うのです」
「金鳥藩主・西大寺弥生殿をはじめとした新花園派の面々です。歳実殿のご意向を無視した調印は……金鳥藩を始めとした〈新花園派〉の裏切りにございます!」
新花園派という単語が出た瞬間、屋敷は紛糾した。あちこちから嵐のような怒号が飛び交い、自分の声すら聞き取れないほど騒がしくなる。
騒ぎは、痺れを切らした椿が「――――静粛に‼」と叫ぶまで続いた。
のちのち何度も出てくることになるが、那古野藩士が新花園派という単語に過剰反応するのは、那古野藩が〈旧花園派〉だからである。
十六年前、和国の藩が大きく〈旧花園派〉と〈新花園派〉の二つに分かれて二百年ぶりの戦争が起こった。〈花園の乱〉と呼ばれているこの戦いは、先代将軍が死んだとき、その後継者を巡って始まったものだ。旧花園派は先代将軍の長女だった石上花虎を擁立したが、新花園派は女性である石上花虎が将軍に就くのはけしからんと言って、傍系である石上虎金こそ真の将軍だと主張した。
最後は石上花虎が暗殺されたことによって決着したが、新旧両派の禍根はいまだに根深い。
「噂話を始めるのにこのような場は不適切ですわ。証拠も無いのに追求できるとでもお思いですの?」
「噂話ではございません! 我が主君を貶めるための陰謀。歳実殿がまだ貴女ほどの歳だった頃から敬っていた身として真実を話さずにいられましょうか」
「倉康よ、此度の通商条約が歳実殿を貶めるための陰謀だと決めつけるのは早計にございましょう」
口を挟んだのは御用学者である勘閲。それに続いて椿も発言する。
「わたくしも勘閲殿と同じ考えですわ。貿易による利益を分けようと提案なさっているのですから、お上は那古野に少なからぬ敬意を見せていますの。特に、那古野港が開かれれば莫大な金銀が我が藩に入ってきますわ――それは一藩の領分を超えるほど。幕府としても、那古野が強大になるのを避けたいなら、なんとしても関税の徴収権を幕府が確保したはずですわ」
「椿殿、勘閲殿、おそれ多くも我が言に耳を傾けてくださり光栄に存じます。ですが、実情は私の申し上げた通りです」
「ご忠告に感謝いたしますわ、倉康殿。ですが、開港すれば我が藩はさらに強大となりますの。いくら相手が夷国とはいえ、通商を拒むのは愚かと言えましょう。むしろ、夷国と渡り合う力を付けるためのいい機会になりますわ。――それでは、他に述べるべき意見を持つ者は申し出なさい」
侃々諤々の様相を呈した談義は深夜まで続いた。
絵里咲は眠くて後半の内容をよく覚えていなかったが、「那古野藩は開港の要求を受け入れる」という結論が出たということを、翌日菖蒲から聞かされた。




