第三七話 弓返り(ゆがえり)
「ところで、わたくしはこれから弓道場で菖蒲に稽古をつけますの。絵里咲もいらっしゃいな」
胸元に宝貝の首飾りをぶら下げている椿が言った。
「そうですねぇ。このあとはちょっと忙しいので、次の機会にしましょ?」
特に予定はなかったが、これ以上椿に付き合って疲れるのは避けたい。部屋に行っても茶々乃がうるさいから、しばらく京の商店街でも散策しようと思っていたのだ。
「え~。私、絵里咲お姉さまともっとお話したかったのにぃ~」
「菖蒲さまにそう言っていただけるのは光栄ですけど」
「貴女も武人の妻なら弓術も嗜みなさいな」
「だから武人の妻じゃないし」
「私は悲しいです……。那古野からの途上はずぅ~っと、絵里咲お姉さまと仲良くなることばっかり想像していましたのに。でも、予定があるならしょうがないですよね……」
菖蒲はそう言って、リスのような目で絵里咲を見遣った。絵に描いたような上目遣いだった。
「……予定を変更します」
ここで行かなかったら人間としてダメな気がした。
●○● ○●○ ●○●
弓道場。
菖蒲が弓を構え、真剣な表情で的を見据える。
彼女は京随一の射手である椿の妹である。彼女も同じように類まれな弓の才能を持っているに違いない。
菖蒲は小さい手で力いっぱい弓を引き絞った。ギリギリと弓が軋む音が鳴る。弓を構える姿勢の美しさは椿ほどではないが、様になっていた。
右手の弦を離すと、矢が山なりの軌道を描いて射ち出された。
「がんばれーー!」
菖蒲は矢を応援した。
矢はゆっくりと的に向かうが、空気抵抗を受けて徐々に減速し……
――あれ? もしかして……
「あぁダメだったぁ~~……」
応援は矢に伝わること無く、みるみるうちに失速。
あえなく地面に落ちた。
――もしかして……菖蒲さまの弓術ってお下手なの?
落胆した菖蒲は、ぴしゃりと床にへたり込んでしまった。
●○● ○●○ ●○●
「右手の肘が下がっていますのよ」
「はい!」
椿は菖蒲の背中にピッタリくっついて、姿勢を直している。お姉ちゃんの貫禄だった。
厳しい指導を受けながらも、菖蒲の語尾は跳ね上がっている。大好きな姉と触れ合えるのが嬉しいのだろう。
「それから、先ほどの菖蒲は弓を射つときに矢を見ていましたわ。――射つときに見るのは弓ではなく的ですのよ。戦場では敵を見ないと狙えませんわ」
「いま私が見ているのは姉上です!」
「わたくしを見ても狙えませんわ。的を見ますのよ!」
「そんなこと分かってますよぉ」
「なら的を見なさいな」
「はぁ~い」
話が噛み合っていない。
「的を見て……」
菖蒲は先ほどより強く弦を引き絞り、離した。その瞬間――左手に構えた弓が高速回転した。弓の弦が菖蒲の左手を叩くと、ムチで打ったような高い破裂音が鳴った。――和弓を扱い慣れた者が弦を引くことで起こる現象・弓返りである。
「菖蒲さまっ!」
「――痛ぁぁぁぁ!」
「菖蒲さまっ! 大丈夫ですか?」
「つぅ~~……平気です」
菖蒲の腕には真っ赤なアザができていた。
弓返りは命中率を上げるために必須の技術だが、やりすぎると左腕を痛める。
「弓返りさせすぎですわ。少しならよくても、暴れさせては隙になりますわよ」
「弓返りっていいことじゃないんですか?」
「練習では良いことですわね。でも、弓返りが大きすぎると戦場で次の矢をつがえるのが遅くなりますの。1対1の勝負なら構いませんけど、大群相手に2射目が遅いのは致命的ですのよ」
「わかりました……」
「この程度の扱いもままならないなんて、弓引きの鍛錬を怠けていますのね」
「私は武芸よりも呪術の稽古をたくさんしているのです!」
「弓は武人にとって大事な鍛錬ですのよ?」
「でも弓なんて古典的な武器、お姉さま以外に誰も使っていませんよ? 時代は呪術だと思います」
菖蒲の言うことには一理ある。二百年続いた平和な時代のうちに幕末の弓術は形骸化している。実際の戦場ではほとんど使われていないのだ。
「時代は呪術だなんて誰が決めましたの? 弓術は武人の魂ですのよ。武人が魂を捨てるなんて嘆かわしいことこの上ありませんわ」
「武人は弓を使うから武人なのではありません。強いから武人なんです。いつまでも使えない武器を使っていれば、いずれ武人ではいられなくなります!」
椿にはっきりと反論する菖蒲。自分の意見はしっかりと持っている性格のようだ。
絵里咲はケンカが起きるんじゃないかと思って、ヒヤヒヤしながら見ていた。
「弓だって強いんですのよ?」
「それは姉上が呪術と組み合わせているからでしょう? 姉上の弓が強いのは呪術のおかげ。いくら椿お姉さまだって、呪術無しの弓では銃に敵わないはずです!」
「それはそうですけど……」
悪役令嬢はおずおずと論破されてしまった。
いつもの椿なら暴論の豪雨を振らせて反論するところだが、めずらしくそうしない。いくら冷酷無比な氷の女王といえど、かわいい妹には勝てないようだ。
「それに、弓の腕では姉上に敵いませんけど……私の呪術はすっごく成長したんですよ。同級生には絶対に負けません!」
「あら。そこまで言うなら見せてみなさいな」
「しっかり見ててくださいね。――凍てよ!」
菖蒲が呪言を唱えると、目の前に大きな氷像が出現した。弓を構える人間の氷像だった。
氷像は緻密で、美しかった。堀りの深い鼻やほうれい線、唇の皺、髪の毛の一本一本に至るまで完璧に再現されている。そのまま美術館に飾ってあってもおかしくないほどの完成度だった。
「すごい……。草詠唱でここまで……」
「えへへぇ~」
呪言には以下のような3つの種類がある。
〈草詠唱〉「〇〇せよ」
↓
〈行詠唱〉「〇〇し給へ」
↓
〈真詠唱〉「〇〇せよと恐み恐み白す」
詠唱が短いほど効果が弱く、呪力の消費も少ない。
それぞれにメリット・デメリットがあり、用途によって使い分けをする。たとえば、最後の真詠唱は非常に強力だが、乱用すると呪力の消費が激しすぎて術者の魂が消滅してしまう危険がある。大抵は行詠唱の「〇〇し給へ」くらいが安全さと出力のバランスが良くてちょうどよい(絵里咲はどれを使っても出力が弱いが)。
菖蒲のように、いちばん出力が弱い〈草詠唱〉で大人一人ぶんの体積がある氷像を造るのは至難の業だ。同じ術を使える者は朱雀門学校の上級生にもほとんどいないだろう。菖蒲が持つ才能が非凡なのは明らかである。
設定資料集によると、神宮字家は武術よりも呪術の才能に恵まれた家系。二人の母親である神宮字巴も、和国有数の呪術師だった。むしろ、呪術の才で知られる神宮寺家が、椿のような武芸に特化した人材を輩出することのほうが珍しい。典型的な神宮字家の血を引き継いでいるのは、むしろ菖蒲のほうである。
「もう、貴女の呪術にはわたくしが一生かけても追いつけませんわね」
「これで、私がどれだけ呪術の鍛錬に集中していたかをわかっていただけましたか?」
「菖蒲が努力家なのは最初から知っていてよ」
「なら……」
「それでも、身体はもっと鍛えなさいな。貴女だっていつかは戦に出ますのよ」
「鍛えてますけど、身体ばかり鍛えるわけにはいきません。呪術の修練には時間がかかりますから」
「呪術なんて机上の空論ばかりではありませんの。呪術ばかり鍛えても敵は殺せませんわ」
「私は敵を殺すために努力しているのではありません」
「……ではなんのためですの?」
「私は朱雀門でいちばん優秀な呪術師になるのです。――そして、和国を英国に負けないような呪術大国にしてみせます!」
この世界の行く末を知っている絵里咲は、菖蒲には先見の明があるということがわかった。
『肇国桜吹雪』のエンディングのあと、剣術や弓術は人気がなくなる。町道場は廃業に追い込まれ、剣士や武人たちは仕事を失う。
没落する戦士たちに代わって台頭してくるのが、流々子ら呪術師たちである。
和国が完全に開国したあと、呪術師たちは西洋から船に乗って流れてくる呪術の知恵を取り入れ、和国に呪術革命を起こすのだ。呪術革命から数十年かけて、世界中の強国にも引けを取らない呪術大国に成長するのである。(という話はエンディングのあとに軽く触れられる程度であり、ゲーム本編でその様子が直接描かれることはないが)
絵里咲は、菖蒲が賢いということがすぐに分かった。リスのように可愛らしい目は、ずっとずっと先の未来を見ている。
「……そこまで言うならわかりましたわ。武芸無しでどれだけ和国を変えられるか見せてみなさいな」
「やったぁ! 姉上のお墨付きをいただきました!」
ぴょんぴょんと跳ねて喜ぶ菖蒲。
「うちに入学しても精進なさい」
「もちろんです!」
「? ――っていうことは菖蒲さまも朱雀門学校にご入門なさるんですか?」
「はい! 来年から朱雀門学校に入る予定です!」
「あら。あたしの後輩になるんですか」
「絵里咲お姉さまと毎日会える日々が来るのを待ちきれません!」
笑顔で媚びてくる菖蒲。かなりの甘え上手だ。どこかの姉と違って。
「うふふ。菖蒲さまはとってもかわいらしいですね~」
絵里咲は菖蒲の頭を撫でると、悪役令嬢が横から水を差してきた。
「――当たり前ですわ。わたくしの妹ですもの」
「あたしがかわいいって言ったのは椿さまじゃなくて菖蒲さまです。横取りしないでください!」
「菖蒲がかわいいのは事実ですわ。姉であるわたくしと同様に」
「どっからその自信が湧いてくるんでしょうか。逆に羨ましいんですけど……」
「これでおわかりでしょう?」
「なにがです」
「貴女は神宮字の血を引く者を好きになる気質を持っていますの。――ほら、わたくしのこともかわいいとお思いでしょう?」
「お二人は全然似てませんよ⁉」




