第三三話 宝貝
麻黄湯を呑んで一刻(二時間)もすると、流々子はすっかり動けるようになった。医師の伊東蘭青に再三お礼を言ったあと、二人は診療所を出た。
診療所を出た二人は、新鮮な空気を吸うために海岸へ向かった。
「流々子さま~。いつ京に帰りましょっか。学校もあるし、急いだほうがいいですよね」
「そうねぇ、私は20里(80キロメートル)も歩けないわ。だから、絵里咲の筋肉痛が治ってからになるわね」
「あたしの筋肉痛が治るまでだと――あと4日は兵庫津にいるんですね」
「ええ」
「そのあいだ何をしましょっか! 兵庫津ってなにかやることありましたっけ?」
「近くに温泉があるわ! 温泉旅館に泊まりましょう?」
兵庫津の近くには、現代で有馬温泉と呼ばれる有名な温泉街がある。
「名案ですけど、温泉街まで2里(8キロメートル)はありますよ。歩けるんですか?」
「駕籠を雇えばいいのよ」
「そうだった。流々子さまがお金持ちってこと忘れてました」
「記憶が混乱してるのね」
「そうですね〜。忘れてました。このあいだ団子を奢らされたからかな」
「おいしかったわ」
絵里咲がふと地面を見ると、小さな巻き貝が落ちていた。白い貝殻には、まるで葡萄のように深い紫色の斑が入っている。――宝貝だ。
さっそく屈んで貝を拾い上げると、流々子に見せた。
「流々子さま! 見て! 宝貝が落ちてました!」
「あら、きれいね。ところで、きれいな宝貝にはとんでもない価値があるって知っている?」
「たから貝っていうくらいですからね。――でも、これは石ころと変わらないと思いますよ。きれいですけど」
流々子の言うとおり、レアな宝貝にはとんでもない価格が付いたりする。宝貝一つで、車一台を買えるような代物もある。
もちろん、車一台分の価値があるのは砂浜に落ちている宝貝ではない。全部で100種類以上ある宝貝の中でも、特に美しくて、きわめて貴重な種類に限られる。そういった宝貝をダイバーが生きたまま採取して入念に身を取り除いたものを、マニアは競って落札するのだ。
つまり、海岸で拾うような宝貝には一銭の価値もない。たとえ、少しばかり美しくても。
「加工すれば多少は変わるわ。貸してくれる?」
「いいですけど」
流々子に宝貝を手渡した。
彼女は人差し指の爪を宝貝に当てて「――穿ち給へ」と呪言を唱えた。すると、貝殻がほのかに光った。
流々子が爪の先を離すと、宝貝に小さい穴が空いていた。
「なにをしているんですか?」
流々子はどこからともなく糸を取り出すと、宝貝に空いた穴に通した。細くて白い指先で糸をスルスルと手繰り、糸の両端を器用に結んだ。
流々子は
「完成よ」
と言って、宝貝を絵里咲の手に乗せた。
「なにこれ……。あ! 首飾りだ!」
宝貝に長い紐が括り付けてある。首に掛けるのにちょうどよい長さだった。
流々子は宝貝を加工してアクセサリーにしたのだ。
「せっかくだから椿のお土産にしたらどう? 喜ぶわよ」
「あの人、拾った宝貝を身に付けるかなぁ」
「”土産屋で買った”って言えばいいのよ。金1両(約1万円)くらいで」
「いやぁ。椿さまは無駄に鋭いからバレると思いますよ」
「平気よ。椿は武術以外に興味がないから、美術鑑賞とかは苦手なの」
――たしかに自室の趣味もイマイチだったわね
「でも、本当に大丈夫かなぁ」
「氷とダイヤモンドの違いもわからないわ」
「それはさすがにわかると思いますけど……でも、面白そうですね!」
いつもお高く留まっている悪役令嬢が、美術鑑賞が苦手というのは意外な弱点だ。
絵里咲は良質ないたずらを思いついて、口の端に薄ら笑いを浮かべた。
日頃、わがまま放題に振る舞って絵里咲の日常をひっかき回す椿に、仕返しとして何の価値もない宝貝を贈ってあげることにした。
きっと大恥をかくだろう。
普段傍若無人に振る舞っている椿が、ちょっとダサい宝貝のネックレスを首にかける姿――想像するだけで可笑しかった。
そのとき、視界の端に奇妙な行列が映った。
「――通商条約にはんた~~~い‼」
「「「反対~~~!」」」
「――夷人侵略にはんた~~~い‼」
「「「反対~~~!」」」
海沿いの商店街を、大声を上げながら行進していた。行列を構成するのは、40名を超える若い武人たちだった。
彼らは大きな旗をいくつも掲げていた。曰く『通商条約を唾棄せよ』『領事裁判権を許すな』『神州の土を夷人から守れ』『開国反対』などなど、物騒なことばかり書かれている。
――ゴリッゴリのヘイトスピーチじゃない
現代では民族を理由に誰かを批判することは違法である。
絵里咲はげんなりしてため息をついた。
「あれ……攘夷派ですよね」
「そう見えるわ」
「幕府は攘夷運動を禁止しているのに、あんなに大っぴらに行進してもいいものなのでしょうか」
「もちろんダメよ。きっと、お奉行さんはお昼寝しているんじゃないかしら」
「暢気な話ですね」
攘夷運動は禁止されている。それなのに、攘夷派たちが商店街を大っぴらに行進できるというのは、幕府の力が弱まっている証にほかならない。
行列の周囲には攘夷運動を支持する者たちが集まってきて、いよいよ物騒になってきた。騒ぎが起こる前に退散するのが吉である。
「流々子さま、そろそろ温泉に行きましょっか。またトラブルに巻き込まれたらたまらないし」
「とらぶるって何かしら?」
「あっ……」




