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第三二話 伊東蘭青

 エホッエホッ……。

 薄暗い部屋の中に咳の音が響く。

 寝台に横たわる流々子の顔は青白いままだった。


「悪いわね、えりず。膝枕は今度でいいかしら」

「結構です。流々子さまの健康が第一なので」


 絵里咲は英国人を船に帰らせたあと、粗暴な武人に突き飛ばされて咳が止まらなくなった流々子を連れて町の診療所へ駆けこんだ。


 診療所に入ると、灰色の羽織を着た医師が即座に流々子を布団へ寝かせた。


 咳込んで苦しそうにしている流々子を見た医師は、即座に黄色い薬湯(やくとう)を呑ませた。

 流々子が呑んだ薬湯は、麻黄(まおう)という草の茎を煎じたものだという。麻黄とは黄色い花を咲かせる薬草であり、気管を広げて咳を楽にする成分であるエフェドリンを含んでいる。エフェドリンは現代の医学でも咳止め薬や気管支拡張に使われる。


 一時は呼吸さえも苦しそうにしていた流々子だったが、麻黄の薬湯を飲んでしばらく横になると、話ができるくらい元気になった。


「流々子さま……。心配です。なにか持病があるのですか?」

「いえ。転んで()せただけよ。いただいた薬を飲んだらすぐによくなったわ」

「噎せただけじゃあんな咳はしませんよ!」


 そのとき、扉が開いた

 現れた男は、流々子を治療した医師だった。


「よかった。咳は止まったね」

「先生のおかげです! ありがとうございます!」


 絵里咲は枕元から立ち上がって、頭を下げた。

 まるで自分のことのように感謝した。実際、彼女は流々子のことを自分よりもいたわっていた。


「流々子殿が良くなったのは、呼吸が苦しくなる前に治療したおかげでもある。彼女をここまで運んだのは君だろ?」

「はい」

「自分を誇りに思いなさい」

「いえ、あたしは何もしていません……。――流々子さまはなにかの病気なのですか?」

哮喘(こうぜん)喘息(ぜんそく)のこと)かもしれんな。激しい咳をして死んでしまうことも多いよ。……喘鳴(ぜんめい)がないから確かなことは言えないがね」


 喘鳴(ぜんめい)がない喘息は咳喘息(せきぜんそく)とよばれるが、咳喘息と風邪やほかの疾患を区別することは難しい。現代であればレントゲンや血液検査、呼吸機能検査機(スパイロメーター)を使って診断できる。だが、電気すら通っていない花園時代にはどれも選択肢に入らない。


「その……哮喘(こうぜん)という病気は治るんでしょうか」

「哮喘ならば治らない」

「そんな‼」

「ただ、空気のきれいなところで安静にして、薬を欠かさず飲めば症状はマシにはなるよ」

「……そうですか」

「流々子殿はもう帰って平気だよ。お二人とも宿でゆっくり休みなさい」

「大変お世話になりました」

「本当にありがとうございます。なんてお礼をしていいか……」

「お代なら流々子殿から貰ったよ」

「そういうことではなくて……」


 絵里咲が言葉選びに詰まっていると、医師は踵を返した。


「私はそろそろ行くよ。他にも患者が待っている」

「ありがとうございます。ええと、お名前は?」

「伊東蘭青(らんせい)

「蘭青さま。流々子さまを診てくれてありがとうございます。――このご恩は忘れません!」

「私は百姓だ。()()は必要ない」

「では……藍青さん。無理をなさらないでくださいね」

「――しないさ」


 そう言い残して、蘭青は扉の向こうへ去ってしまった。


 絵里咲は顔色の悪い流々子と二人で病室に残された。


「えりず」

「絵里咲です。なんですか?」

「この度のことは、父上や他の人たちには内緒にしてくれるかしら」

「持病があると伝えたほうが、発作があったときに周りの人も対応しやすいはずです。伝えたほうがよろしいのではないでしょうか」

「内緒にしたいのよ。約束して?」

「……わかりました」


 流々子の安全のためには伝えるべきかと思ったが、本人の希望なら内緒にするほかない。


「乱闘の件はお手柄だったわね」

「いえ。あたしはただ流々子さまの威を借りただけです」

「異国語を喋ったじゃない。どこで学んだのかしら」

「ああ。あれは~ええっとっ~……」

「あれはええっと何?」


 絵里咲のこめかみに冷や汗が伝った。

 外国人を追い払おうとする攘夷(じょうい)運動が盛んなこの時代に、外来語を話せるとバレれば余計な(うら)みを買いかねない。だから、絵里咲はいままで英国語を喋れるということを隠してきた。英国語どころか、外来語の使用すらなるべく避けてきた。

 だが、先ほどは流々子の緊急事態にあって使わないわけにはいかなかったのだ。


――なんて嘘をつこうかしら……


 頭をフル回転させて、必死に上手い言い訳を考えた。――()()を口にすると首を切られるかもしれないから。


「英国語は我が藩の教育方針なのです! 我が藩の殿様は蘭学に熱心でございますから。あたしも洋書を山のように読まされたものです」

「目だけで発音まで覚えたのかしら。それにしてはずいぶんと流暢(りゅうちょう)だったわよ?」

「それは……」

「目学問で会話まで出来るようになるなんて、ずいぶん優秀なのねぇ」


 流々子の皮肉はもっともだった。

 いくら外国語が得意でも、目だけで発音まで覚えることは不可能だ。また、この国に出回っている和英辞典にはひどい出来のものしかない。実際に話をしなければ、話せるようにはならないだろう。


――()()()()()を話したほうがいいのかしら……。でもなぁ……


 絵里咲が返答に窮していると、流々子は手をパチンと打ち鳴らして、「そうだ。ご飯にしましょう?」と言った。


「そうですね。お腹すきましたし」

「いじめるのはこれくらいにしてね」

「流々子さま!」


 出会って三ヶ月にして、ようやく流々子はドSかもしれないと思い至るのだった。

椿さまは帰省中です。ファンの方は明後日くらいまでお待ちくださいませ。

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