第三一話 英国語
絵里咲と流々子は黒船見物を済ませたあと、港の茶屋で団子を食べながら休んでいた。椅子に吹きつける兵庫津の海風は涼しく、旅で疲れた身体を休めるのに絶好の場所だった。
絵里咲は苦悶に顔を歪めながら団子をかじった。
いつもの絵里咲は大好物であるきな粉団子を食べれば大抵機嫌がよくなるのだが、今日はそうもいかなかった。肩甲骨のあたりにズキズキとした痛みがあるせいで、きな粉の甘さに集中することができなかったのだ。
「イタタタタ……」
「どうしたの?」
絵里咲は京から兵庫津まで80kmも飛んだせいで、ひどい筋肉痛に苦しんでいた。
「なんだかすごく背中が痛くて……。空を飛ぶと背中が痛くなるんですね。知りませんでした」
「そうねぇ。羽ばたくのに背筋を使うのよ」
「今日はもう飛べないかも……。帰るのは明日にしませんか?」
「いいけど、最初の筋肉痛は4日続くわよ」
「4日⁉」
「歩いたほうが早いわね」
「そっか。歩けば2日ですもんね。今度は草鞋の肉刺で苦しみそうですけれど」
「肉刺は一週間苦しむわね」
「ひぇ~~」
この時代の旅は、ほとんどが徒歩だ。1日10時間歩いて、一日に40キロメートルほど進む。車が大好きな現代人には気の遠くなるような話だ。
徒歩で旅行するのに、絵里咲たちが履いている下駄は硬すぎる。下駄の代わりに、足に馴染んで歩きやすい草鞋を履く。だが、足に馴染むとはいっても、材質は藁である。毎日10時間も歩いているうちに、硬い繊維が足に刺さって肉刺ができると悶えるほど痛くて動けなくなってしまうらしい。
背中の筋肉痛が治るまで4日くらい休んだほうがいいかしら……――なんて考えていると、茶屋の前の通りが急に騒がしくなった。
「――おい! 頭が高いぞ!」
人混みの中から男の激しい怒号が聞こえた。堅苦しい武人口調だったから、武人と百姓の喧嘩騒ぎだろうか。
様子を伺おうと思ったが、あいにく野次馬が邪魔で中の様子が見えない。
二人は残った団子を口に放りこむと、人垣を掻き分けて様子を見た。
武人に絡まれていたのは百姓ではなく、外国人だった。
四人組の武人が三人組の外国人を怒鳴りつけているが、和国語なので外国人には通じていない。
「幕臣・島田殿のお通りにあって道を譲らぬとは何事だ!」
どうやら、外国人は島田殿に対して失礼を働いてしまったらしい。
この時代だと、武人に道を譲らないだけで侮辱として受け取られる。道を譲らなかっただけで首を切られてしまうこともあるくらいだ。和国の慣例を知らない外国人たちは、なぜ自分たちが怒られているのか想像もつかないだろう。理不尽な言いがかりをつけて絡まれたと感じているはずだ。
外国人は顔を真っ赤にして英国語で怒鳴り返しているが、武人は「和国語で話せ」と言って聞かない。「話せ」と言われて話せたら苦労しないのだが、武人は外国人慣れしていなさすぎる。
――カオスね……
男たちはお互いにヒートアップして、収拾がつかなくなってしまっていた。
醜い言い争いは(お互いが理解できていないまま)ますます激しくなり、武人たちは刀に手をかけた。いっぽう、外国人は腰のピストルホルダーを弄っている。このままだと、すぐにでも刃傷沙汰(もしくは銃乱射事件)に発展しそうだ。
「流々子さま……。これ、まずくないですか?」
「そうねぇ。困ったわ」
外国人との喧嘩はなんとしても避けなければならない。なぜなら、もし片方がかすり傷を負えば外交問題になるからだ。間違って殺してしまったら、英国との戦争に発展する可能性だってある。
事態は切迫していたが、百姓身分の者たちは斬られるのを恐れて仲裁に入れない。場は殺伐としていた。
このままでは英国と和国の戦争が始まりかねない。
そんなことになれば流々子さま攻略どころではなくなってしまうと思った絵里咲は、ゴクリと唾を飲み込んで、覚悟を決めた。
――できれば〈この手〉は使いたくなかったんだけど……
絵里咲は仲裁するために一歩を踏み出すと――細くて白い腕が行く手を遮った。流々子だ。
流々子が先んじて前に出て、荒ぶった男たちに近づいた。
武人たちは、喧嘩中にノコノコと前に出てきた黒髪の女性に気づくと、低い声で唸った。
「おい。なんの用だ? べっぴんさん」
「刀を収めてくださいな、島田殿の家来さん。夷人を斬れと申すのは、将軍さまのお望みではないはずよ」
流々子はいつものように、柳のごとく柔らかな物腰で切り出した。
「てめえが将軍殿の何を知ってるんだよ」
「此度、黒船が兵庫津にやってきたのは将軍さまの招きに応じたため。夷人を斬れば、将軍さまは厳しく処罰するでしょうね」
「小娘が俺に何様だ。てめぇも斬られてぇか? 女」
腰の刀に手をかけた男の一人が流々子のほうへ歩きだし、額同士がぶつかりそうな距離まで近づいた。すぐにでも斬り捨ててやる、とでも言わんばかりに刀の鍔に手をかけている。
しかし、流々子は一歩も引かなかった。
「違うわ」
「斬られたくねぇなら何をしに来たんだ?」
「騒ぎを収めに来たのよ。――きゃっ!」
流々子は武人に大きく突き飛ばされた。土埃を上げて地面に倒れ込んだ。
「流々子さまっ! 大丈夫ですか‼」
――コホッ、ゴホッ……。エホッ、ゴホッ ゴホッ……
流々子は地面に倒れ込むなり、ひどく咳き込みはじめた。巻き上がった砂を吸い込んだせいで、肺を刺激してしまったのだろう。
その表情はひどく苦しそうだった。流々子は生来身体が弱いのだ。
咳き込みは止まず、絵里咲が呼びかけても苦しくて返事ができないようだった。
流々子を突き飛ばした男は、二人を虫を見るような目で猊下し、吐き捨てた。
「弱いくせに出しゃばるな」
「――あんた……やったわね‼」
絵里咲は怒鳴った。転生してから、本気で声を荒らげたのは初めてだ。
「やったわねたぁ何事だい。先に生意気な口を訊いたのはてめえのお連れさんだろ?」
「流々子さまがおっしゃってたでしょう? 騒ぎを止めにきたのよ!」
「町娘が幕府を知ったような口聞いてっと、将軍さまの罰が下るぞ」
「将軍さまの罰はどっちに下るかしらね」
「決まってんだろ? てめぇらだよ、百姓」
絵里咲と男が睨み合った。二人のあいだに火花が散るようだった。
「なあ。ところでそっちのお嬢ちゃん、咳が辛そうだなぁ」
「あんたが突き飛ばしたからでしょ‼」
「そうかそうか。悪かったなぁ。じゃあ――」男が、一息に刀を抜き放った。「咳を止めてやろうか。刀でなぁ」
絵里咲は、腰に下げた細剣の柄に手をかけた。武人四人の注目が絵里咲に集まる。
「おうおう。腰の爪楊枝は武器だったのか? 歯のお掃除用かと思ったぜ」
「気をつけて。手が滑ったら殺してしまうわよ」
流々子に貰ったレイピア〈若水〉を爪楊枝呼ばわりされて、絵里咲は黙っていられなかった。
場に張りつめたような殺意が漂った。
絵里咲が剣身を抜き放とうとすると、流々子がその右手を握って止めた。激しい咳をしながらも、首を振って、「ダメ」と伝えようとしている。
「流々子さま……」
「エホッ……エホッ……。冷静に……ね……」
「でも! 流々子さまを突き飛ばしたんですよ! 許せません!」
「……えりず。立派に場を収められたら……あとで膝枕……してあげる……」
「ひ……膝枕? ほんとですか⁉」
「ええ……。約束よ」
膝枕という単語で絵里咲は我に返った。まるで冷水を浴びせられたように怒りが冷め、いつもの賢い絵里咲に戻ることができた。
絵里咲は抜きかけたレイピアを鞘に収めると、再び武人たちに向き直った。もう、先ほどのように直情的な振る舞いは見せないと決めたのだ。すべては膝枕のために。
「ところで武人殿。この方がどこのどなただかご存知ですか?」
「知るか。どうせ錆びた鍬を振り回す田吾作と隣村の阿婆擦れの娘だろう?」
「勘が鈍いわね、武人殿」
「じゃあ木こりか?」
「本当に愚かね。このお方の父上は、あなた方の誰よりも将軍さまの近くにいます」
「ほう。天守の掃除係か? そりゃぁさぞかし偉いな」
男の冗談に、武人たちが高笑いした。あくまで冷笑的態度を崩す気はないようだ。
だが、絵里咲は微笑んだ。――男の言葉に、脅す理由を見つけたから。
――ふんっ。老中さまを「掃除係」呼ばわりするなんていい度胸ね
「ならば教えて差し上げます」
「田吾作の訛った名前なんて俺には聞き取れねえぞ?」
「きっと聞き取れますよ。ここにいらっしゃるのは貴人――彦根守流々子さまですから」
「……なんだと⁉」
「彦根守……?」
男の顔がみるみるこわばっていくのが分かった。
「父君は鳰海藩主・彦根守上玄さま――天下の政をつかさどる老中の一角です」
武人たちのみならず、野次馬たちもどよめいた。老中は、大老を含めて5人しかいない貴人中の貴人。現代でいう大臣のような地位である。
国で五本の指に入るほどの貴人の娘など、百姓にとっては顔を見るだけで一生自慢できるような雲の上の存在だ。
このなかでいちばん身分が高いのは、あきらかに鳰海藩主の娘である流々子。
散々二人をののしっていた男の顔が青ざめた。この場合、無礼を働いて斬られかねないのは男のほうだから。
「ご自身の立場がわかったかしら? 彦根守流々子さまに謝罪し、速やかにこの場を立ち去りなさい」
絵里咲は転生して以来、百姓百姓と馬鹿にされ続けてきた。だから、横柄な武人をやり込めるのは、正直爽快でたまらなかった。
「鳰海の……彦根守……だと⁉」
「それとも、島田殿の家来が、上玄殿を〈天守の掃除係〉と呼んだことをお伝えしましょうか?」
流々子を突き飛ばした男は、仲間の武人からも非難の眼差しを向けられていた。
「ここは頭を下げるのが筋だな。勘吉」
仲間の一人が言った。勘吉というのが無礼な男の名前らしい。
歯を食いしばり苦渋の表情を浮かべた男は、刀を収めて言った。
「無礼を働いたこと……誠に面目ない次第である。……平にご容赦あれ」片膝を折って、頭を下げた。「この通りだ」
その肩は屈辱に震えていた。
絵里咲は、流々子に肩を貸して、起き上がらせた。
流々子は、息もとぎれとぎれに言った。
「以後、自分を見つめ直し、誰に対しても無礼のないようになさい」
「……はいっ。自省し、謹んで我が身を改めます……」
「よいわ。その誓いを守り続ける限り、私への非礼は許しましょう」
この場で「改める」と誓わせることに全く意味はない。人は簡単に変わらないのだから。勘吉のような男は、権力者の目が届かないところで横暴を繰り返すだろう。だから、この場で流々子たちにできることはもう何も残っていない。もし何かを改善するならば、彼のように横暴な者が上に立てるような和国の身分制度を改めるしかない。
勘吉が謝ると、武人たちは流々子に頭を下げ、その場を立ち去ろうとした。
だが――突如轟いた怒声が、再びその場をかき乱した。
「――Wait! ――Wait, You bastard!!(待て! この落とし子野郎‼)」
納得がいかないのは執拗に怒鳴られた英国人たちである。彼らは背中を向けた武人たちに罵声を浴びせて掴みかかると、男たちは再び揉み合いになった。
和国に来る英国人のほとんどは紳士ではない。高い教養を備えた知識階級はごく一部。本国で働き口がないため出稼ぎに来た若者が大半である。
例に漏れず、彼らも相当頭に血が登りやすいようだ。
絵里咲は、慌てて流々子を茶屋の椅子に座らせた。
「流々子さま……。咳がお辛いですけど、少しここで休んでいてください!」
「えりず、なにをするつもり?」
「騒ぎを収めてきます」
「気をつけなさい……。英国人には言葉が通じないんだから、興奮したら何をされるかわからないわ」
「大丈夫です」
――〈あの手〉を使おう……。少し目立つかもしれないけど……流々子さまを早く医師に診せるためには仕方ないわよね
覚悟を決めた絵里咲は、武人と揉み合いになっている英国人の元に駆けつけ、叫んだ。
「Stop……Stop it!!(やめなさい……やめなさい‼)」
突如、理解できる言葉で話しかけられた英国人たちは、不意を突かれたように動きを止めた。
「Who are you?(なんだお前?)」
「Hey girl... Do you speak Common Tongue?(お前……言葉がわかるのか?)」
男の一人が発したCommon Tongueというのは、英国語のことである。
絵里咲はため息を吐くと、怒りを込めて言った。
「You know you shouldn't be here, don't you?(あなた達はここに居るべきではないって知ってますよね?)」
「We had no choice! We were sick of being confined in the bloody ship for a month(仕方ねぇだろ。一ヶ月も船から出らんなくて退屈だったんだからな)」
実は、英国人たちは船からの外出を許可されていないはずなのだ。だから、英国人がここに居ることはちゃんちゃらおかしいのである。
彼らは外国慣れしていない和人たちとトラブルを起こさないように、英国によって厳しく行動を制限されている。それなのに、彼らは出歩いてトラブルを起こしたのだ。危機感が無さすぎると言わざるをえない。
「Of course you did have a choice! You're bored? You could have been executed because of killing time!(仕方なくないわよ! 退屈だったから? あんたのくだらない暇つぶしのせいで処刑されるかもしれなかったのよ?)」
「Surely you're exaggerating, cute girl(大袈裟な嬢ちゃんだなぁ)」
「I'm not! ――If the police find you, they would cut your heads off without having a trial. Here isn't a country ruled by fair law like yours. Don't forget that!(大袈裟なんかじゃないわ! もし町奉行に見つかったら、裁判も開かれずに首を斬り落とされるんですよ? ここは英国とちがって法治国家じゃないんですから!)」
「Right I'm off I'm off... I doubt we have fair law though(わかったわかった、帰るよ。……英国だって法治国家かどうか怪しいがな)」
絵里咲の剣幕に気圧された英国人たちは、文句を言いながら去っていった。
騒ぎを収めた絵里咲は、慌てて流々子のもとに駆けつけた。彼女はまだ酷い咳をしている上、顔が真っ青だった。咳をしすぎて酸素が足りていないのだろう。
「流々子さま! 大丈夫ですか⁉」
「エホッ……エホッ……えぇ……。平気……よ……。だいぶ……落ち着いてきて……エホッ……」
「ぜんぜん落ち着いてませんから! 医師に診てもらいますよ!」
「ところで……さっきの英国語……」
「その話はあとで! とにかく医師が先です!」
絵里咲は流々子に肩を貸すと、ざわめく野次馬たちをかき分けて医師を探した。




