第三〇話 兵庫津
「ピィ~~~~~」(絵里咲)
「ピュ~~ヒョロロロ~~~」(流々子)
翼を広げながら、風を切る。
町を上空から見ると、家々はまるでミニチュア模型のようにかわいらしく見えた。
絵里咲たちは鳥に変身して、兵庫津という港町へ飛んできていた。
兵庫津は、現世側の神戸にあたる大都市である。こちらの世界では、黒船は兵庫津に来航したことになっている(現世では浦賀である)。
変体術によって絵里咲は角鷹に、流々子は隼に変じていた。隼は首元に白い模様が入った鷹で、上空から急降下したときの時速は400km近くに達する動物界のスピードスターだ。その速度は鳥類どころか、陸・海・空含めた全動物界を見渡しても随一である。
その速度とイメージから最強の鳥だと思われがちだが、実は小柄な体格で喧嘩は苦手だったりする。森の王者である角鷹よりも一回り小さい。
京から兵庫津までの距離は20里(80km)あるため、歩いて旅すると二日はかかる。だが、角鷹や隼は平均時速60kmほどで飛ぶため、流々子の屋敷を飛び立ってからたったの一時間ばかりで着いてしまった。車よりも早い。
二人(二匹?)は町外れの森に降り立ち、人気がないことを確認してから変体を解いた。
変体術は違法だから、変身する瞬間を誰かに見られてはならないのだ。
姿を隠して変身するなんて、アメコミのヒーローみたいだと思った。ヒーローとは違って世界を救ったりはせず、ただ黒船の見物にきただけだけど。
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人間となった二人は、兵庫津の町を歩いた。
兵庫津の目抜き通りを通り抜けて、水平線を見渡す港に出た。
群青色の海が太陽の光を散乱してきらきらと光っている。
「海だぁ~~~~!」
「広いわねぇ」
転生して初めての海に興奮した絵里咲は、拳を天に突き上げて大きく深呼吸した。
「んん~~。良い磯の匂いがします……」
現世では海辺に住んでいた絵里咲は、転生前には毎日海を見ていた。海辺に座って、波の音を聞いたり、貝殻集めをしたりするのが好きだった。
だが、京に転生してからは一度も波の音を聞いていない。最寄りの海岸に歩いて何日もかかる有様だったから、忙しい授業の合間を縫って海水浴に出かけることなどできなかったのだ。
こうして波の音を聞くだけで、故郷の懐かしい景色を思い出した。
「磯の臭いが好きな人もいるのね」
「だって海ぃぃって感じじゃないですか! 磯の匂いだって久しぶりですもん!」
「そういえば、えりずは港町出身だったのよね。泳ぎは得意なのかしら?」
「はい。泳げますよ!」
「伊勢エビが食べたいわ」
「獲りませんよ!?」
ひさしぶりに見た海は、あいかわらず大きかった。だが、違うこともあった――この時代の海は、現世の日本の海よりはるかに青い。
「さて、お目当ての黒船はどこかしら……」
絵里咲はさっそく黒船を探そうとしたが、その必要はなかった。
ずっと遠くの港に浮いているどす黒い鉄の塊が見えたから。
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兵庫津の町に戻り、"巨大な人工物"がある船着き場へ歩くこと10分。
港へ出る曲がり角を曲がると、黒船がその全貌を現した。見上げるような大きさだった。
「なんてことかしら……。花園城みたいに大きいわ」
流々子は黒船を仰ぎながら、息を呑んでいた。
黒船の旗艦――〈リバーテムズ号〉は全長26丈(80メートル)にも及ぶ、この時代では世界最大級の船だ。江戸城とほぼ同じ高さの花園城は天守まで45メートルほどだから、和国を象徴する建造物すらリバーテムズ号の半分しかないことになる。
和国の人々は黒船より大きい人工物を見たことがないのだ。肝を抜かすのも無理はない。
だが、目を見開く流々子に対して、となりで見ていた絵里咲はそれほど驚かなかった。
クルーズ船が行き来する港町で育った絵里咲は、テムズ号より3倍も大きい船に見慣れていたから。むしろ、「意外とかわいいじゃない」とすら思ったが、絶賛カルチャーショックに浸っている最中の流々子に申し訳ないから言わなかった。
「すごい立派ですねぇ~」
――小さいけど
港には野次馬がたくさん並んでいた。グラフィック性能の都合上、ゲーム上では黒い影として描写されるだけだった群衆も、生き生きとした表情を浮かべる生身の人間たちになっている。
黒船の巨大さには野次馬の誰しもが大きな衝撃を受けたに違いないが、その反応は大きく二つに分かれていた――異国の技術に対する〈恐れ〉と〈好奇心〉だ。今後何十年にもわたって大きくぶつかり合うことになる二つの感情である。
「ねえ、えりず。私、決めたの」
「絵里咲です。なにを決めたんですか?」
「黒船を手に入れるわ」
「くっ……黒船をですか!?」
「ええ。今すぐにでも欲しいわ」
「いつもどおり突拍子もないですね……。でも、どうやって用意するんです?」
「そんなの、英国と同じことをするしかないじゃない。――買うか、造るのよ」
「……お考えになることの規模が大きいですね」
「黒船に比べれば小さいわ」
「いや……黒船より大きいと思いますよ。でも、なんで黒船を欲しいなんて仰るんです?」
「決まっているじゃない。和国が英国に勝てないからよ。だから、一年以内に黒船が欲しいの」
「一年……」
「一年以内に黒船を持たなければ、和国は植民地になるわ。それは間違いないはずよ」
残念ながら、流々子の推測は正しい。和国が英国の植民地になるターニングポイントとされる事件は、今から一年程度で起こる。その時、戦艦を持っているかいないかによって歴史は大きく変わってしまう。
流々子の言う通り、これから先進国になるためには、外国の技術をいかに素早く学べるかどうかにかかっているのだ。
百年後には最新技術で世界をリードするようになる和国だが、当時はほとんどの分野で先進国の後塵を拝していた。
だからこそ、人々は黒船を恐れた。自分たちより圧倒的に強い力の片鱗を、世界の片隅である和国まで届けることができる列強の力を恐れ、外国人を排斥しようとした。開国当初は、その強大の力を排斥するのではなく、学んで取り入れるという方向に考えが回る人はそこまで多くなかったのである。
だから、絵里咲には流々子が黒船を欲しいと言ったことが不思議に思えた。
「流々子さまは黒船が怖くないんですか?」
「怖いわ。すごく」
「やっぱりそうですよね……」
「ほら見て。手が震えているの」
「……本当だ」
――怖いのに……取り入れようとするなんて立派だなぁ
自分の民族が異人に侵略される恐怖、危機感。それは、幕末期の和人のみならず、世界中の国が味わった感情だ。
他の民族が、自分たちの民族よりも強大な力を持っていると知ったとき、恐れを感じぬわけがない。震えながら、屈辱を感じながら生きていたのだ。
絵里咲は、
「でも、大丈夫ですよ。いつもあたしが側にいますから!」
と言って、流々子の手をギュッと握ってあげた。パシッと叩かれた。




