第二六話 失神
後頭部に沈むような柔らかさを感じた。藁ではない、高級な枕の感触だ。
久しく感じていなかった気持ちのいい布団の感触。
「あったかい……」
庶民の家では畳に寝そべり、紙の掛け布団で寝る。固い畳と腰や頭はゴツゴツ擦れるから、現世の布団に慣れていると寝心地はひどい。
綿の布団が欲しいところだが、残念ながら安くはない。布団一枚で、現代の自動車と同じくらいの価値があるのだ。生活が苦しい庶民には、寝具一つに金貨を払うことはできない。
柔らかい布団の感触はあまりにも久しぶりだったので、絵里咲は心地よいまどろみに浸りながら、自分が現代に戻ってきたのかもしれないと思った。
――現世に戻るのは複雑だわ……
ときどき、柔らかい布団やスマートフォンが恋しくなるときはあるが、一時的なものに過ぎない。
絵里咲は現世で特別に不幸だったわけではないのだが、こちらの世界で暮らしていきたいと思っていた。なぜなら、花園時代には大切な人がたくさんできたから。何よりも、彼らと離れたくないという思いが強かった――流々子やお雛、お初、春風たちは皆、心から尊敬できて、信頼できる相手だ。
それに対して、現世で仲が良かったといえるのはお姉ちゃんくらい。彼女も、絵里咲と一緒にピストルで撃たれてしまったから、もう生きていないだろう。家族もとっくにバラバラになっている。いまさら帰ったところで、心の底から本音で話せる相手はどこにもいない。
特に、現世に戻れば二度と流々子に会えない。それは絵里咲にとって、二度とスマホに触れないことよりもよっぽど地獄だった。
絵里咲は、ぼやけている視界をはっきりさせるために、指で目を擦った。次第に鮮明になっていく視界には、こちらへ優しく微笑みかけている美しい女性が映った。
流々子だった。
「ああ……流々子さま……。よかった。もう会えなくなるかと思いました」
「大袈裟ねぇ。真珠の叫び声くらいで死にはしないわ。失神はするみたいだけど」
「……失神はするみたいですね」
絵里咲は、まだ鈍痛が残る頭に左手を当てた。
――はぁ……。真珠の鳴き声で失神なんて笑いものよね……
絵里咲が寝転がっている綿の布団があるのは、貴族や武人用の寝室がある朱雀門呪術学校の七階。流々子の寝室だ。この部屋に来るのは二度目である。
部屋の中を見渡すと、心が洗われるような眺めだった。
漆塗りの大皿の隣には、花瓶から伸びる菖蒲の花が咲いている。壁には鮮やかな藤の花が描かれた掛け軸が掛かっている。質素な椿の寝室とは異なり、趣味のいい調度品が彩っていた。
「あっ……そういえば耳が聞こえる……」
氷上は〈連理の真珠貝〉の叫び声を聞くと鼓膜が破れると言っていた。絵里咲はその叫びを至近距離から聞いたし、爆音で意識を失ったのだから、当然破けるものだと思っていた。
だが、流々子の声はちゃんと聞こえる。
ということは運良く破れずに済んだようだ。
「よかったわね」
「じゃあ鼓膜は破れてなかったんですね!」
「違うわ。破れていたから治療したのよ」
「破れてた⁉」
びっくりして、両耳に手を当てた。左耳には鋭い痛みが残っていた。
「えりず。〈連理の真珠貝〉は危険なのよ。それなのに、どうして防音の術を使わなかったの?」
「使えなかったんです!」
「使えなかった?」
「はい……。あたし……呪術の素養が無いみたいで。防音の呪言を唱えても何も起こらないんです」
「あら。それは残念だったわね」
と、ちっとも残念そうじゃない口調で言った。
「おかげで五感が四感になるところでした」
「人間の身体は水のように柔軟よ。耳が聞こえなくなったら、他の感覚が研ぎ澄まされる。耳が聞こえなくなれば、眠っていた六つめの感覚が目覚める。そうなれば、聴覚を失う前よりたくさんのものが聞こえるようになるのよ。知らないけれど」
「テキトーなこと言わないでくださいよ‼」
「知らないわ。だって私は耳が聞こえるもの。――喉がかわいたでしょう? 水を飲みなさいな」
「だから水に喩えたんですね……。いただきます」
失神していた時間はいかばかりか想像もつかなかったが、自覚していた以上に喉が乾いていたようだ。湯呑みを傾けると、一息に飲み干してしまった。干ばつでひび割れた地面に染み込む雨のようにありがたかった。
水を飲んで脳が働きはじめると、失神したときの悔しさが脳裏に蘇ってきた。教室にいた門徒たちは、みなが防音の術を使えた。防音の術はそこまで難しい技術ではなく、数日の練習でものにできる。絵里咲を除いては。
ゲーム中の主人公と異なり、絵里咲には呪術の素養がまったくないらしいのだ。
絵里咲が呪術を使えるようになるまで、このようなハプニングは続くだろう。
「流々子さま。あたしに呪術を教えていただけませんか?」
「教えるのは得意じゃないのよ」
「そうですか……」
「だから、一緒にやりましょう?」
流々子がにっこりと笑いかけた。
「いやな予感がします……」
絵里咲は賢い子なので、すでにとある世界の法則を学んでいた――流々子が笑ったときにはロクなことが起こらない。




