第二四話 黒船来航
「絵里咲さ~~ん! 絵里咲さ~~ん! 大変だよ!」
学校の廊下を歩いていると、向こうからポニーテールの少女がバタバタと走ってきた。顔を真っ青に染めているのは、お初だ。噂(と椿)が大好きな女の子である。
彼女はよっぽど動揺しているのか、マラソンを完走した選手のようにぐっしょりと汗をかいており、前髪が額にへばりついていた。
「どうしたのよ。そんなに慌てて」
「はぁ……はぁ……大変…………ひょう……ひょうごづっ……ゴホッゴホッ……」
「落ち着いて、お初。息を整えてからでいいから」
「ひょう……兵庫津に……グロブネッ……」
「グロブネ?」
「兵庫津に……黒船が来航したんですって!」
「黒船かぁ。ああ、そういえば今日だったわね」
お初が辛うじて口にしたニュースに、絵里咲は心当たりがあった。
今日は慶政元年4月30日。序盤の一大イベント〈英国船来航〉が起こる日である。黒船というのは欧米からやってくる蒸気船のことだ。耳にしたことがある人も多いだろう。
英国政府の艦隊が兵庫津にやってくるのはこれで三度目だ。前回の来港では〈和親条約〉を締結し、兵庫津と横浜港を開港させて鎖国状態を終わらせた。とはいえ、和親条約で決められたのは「立ち寄った船に燃料や水・食料を供給しますよ」程度のもの。
今回の来航は、貿易をするために〈修好通商条約〉を結ばせるのが目的である。
現実側の歴史だと、今日はアメリカ人外交官のタウンゼント・ハリスが到着した日に相当する。ハリスは初の総領事として江戸幕府と交渉し、歴史の教科書でもおなじみの日米修好通商条約を結んだ。この条約は鎖国していた幕府に四港を開港させ、外国人居留地を作らせることになったのだから、条約締結の日はまさに「歴史が動いた日」だ。
国際情勢が大きく異なるこちらの世界だと、最初に黒船に乗ってやってきたのは米国人でなく、英国人。総領事はマーガレット・ウォーカーという女性だ。
乙女ゲームとしては最初からエンジンフルスロットルだったが、歴史シミュレーションゲームとしての『肇国桜吹雪』のストーリーはここから始まるといってよい。
ちなみに、こちらの世界の歴史はストーリーの進行上、現実側の三倍くらい忙しい。英国船の来航から約三年で、現実側における十年ぶんくらいの出来事が起こる。主人公が朱雀門呪術学校を卒業するまでのあいだ、運命は花園幕府が終わるまで一直線に進み、ゲームのプレイヤーは、エンディングにおいて新しく生まれ変わった国の姿を見届けることになる――もし、主人公が運良く生き残ることができればの話だが。
「……なにが今日なの?」
「なんでもない。こっちの話よ」
「変なの~」
「ほら。みんなにも大事件を伝えてきたら? 驚くわよ」
「ああいけない! 忘れてたわ! ――みんな~~~! 大事件よ~~~~~~!」
お初はニュースが新鮮なまま学校中へ伝えるためにバタバタと走り去ってしまった。給料ももらっていないのに、感心するボランティア精神である。もし彼女が現代に生まれていたら新聞社に就職していそうだと思った。
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「百姓」
「絵里咲です。なんですか?」
最初の授業が終わると、教室の前に悪役令嬢がやってきて、絵里咲を呼んだ。
その華奢な右手には紙袋を提げていた。赤い水玉模様の紙袋だった。
同室の学生たちは最初、椿が百姓である絵里咲に話しかけるたびに大袈裟に驚いていた。だが、椿がしつこく話しかけてくるうちにだんだん目が慣れてしまったようで、特に反応しなくなってしまっている。さも公認夫婦みたいな扱いをされているのが納得いかなかった。
「これはわたくしからの餞別ですわ。お茶と合わせて食べなさいな」
「餞別?」
「特別な練切ですのよ」
絵里咲は手渡された紙袋の中を覗きこんだ。そこには、椿の花をかたどった美しい練切が入っていた。
ちなみに、練切というのは花や生き物といった季節の風物詩を模して作られる芸術的な和菓子のことである。茶事に行ったことがある人なら食べたことがあるだろう。
「わぁ素敵! ありがとうございます! おいしく頂きます」
「そうなさいな」
絵里咲の喜びようを見て、椿は満足げに鼻を鳴らした。
「でも、椿の花って季節外れですよね?」
「そうですわね」
「今は五月なのに、よく椿の練切を作っているお店を見つけましたね」
練切という和菓子は、季節感を重んじる。だから、職人たちは決して季節外れの練切を作らない。
たとえば、旧暦四月(五月)の今は菖蒲や藤の花をかたどった練切が店頭に並んでいる。冬の花である椿をかたどった練切は、冬のあいだにしか作られないはずだ。
悪役令嬢は腕を組んで、自慢げに言った。
「忘れましたの? わたくしは神宮寺。欲しい物がこの世に無ければ作らせますのよ」
「ああ……椿さまに常識が通じないってことを忘れてました……」
「当たり前ですわ。わたくしが常識を作りますのよ」
悪役令嬢の言葉で、どのように季節外れの練切が作られたのか、容易に想像することができた。
きっと、婚約者に自分らしいものを贈りたかった椿は、菓子職人に無理を言って季節外れの練切を作らせたのであろう。藩主の娘に追い立てられ、季節外れの材料集めに苦心する職人の顔が目に浮かぶようだった。心底同情した。
「菓子職人さんも大変そうですね……」
「大変だったぶん多めに払いましたわ」
――そういう問題じゃないのよねぇ
和菓子職人は平穏だった日常を悪役令嬢に乱され、さぞ心労が溜まったことだろう。多めにもらった代金で、ぜひ湯治にでも行ってほしいと思った。
「でも、どうしていきなりこのような贈り物をくれたのですか?」
「餞別と言ったではありませんの。別れの挨拶に参りましたのよ」
「え? 別れって……学校を辞めるんですか⁉」
「辞めませんわ! どこに耳が付いていますの?」
絵里咲が大袈裟に驚くと、周りの学生たちが振り返った。椿が学校を辞めるというフレーズに反応したのだろう。
椿が学生たちをギロリと睨みつけると、彼らは慌てて目を逸らした。クラスメイトを怖がらせないで欲しいと思った。
「なんだ」
「なんだってなんですの!」
「で、どれくらい行くんですか?」
「十日ばかり京を離れますのよ。――主人でありながら妻に寂しい思いをさせるのはかたじけありませんわね」
「いえいえー。お気遣いなく」
「十日だけわたくしのいない日常を我慢なさいな」
「ぜんぜん平気です」
現代人の感覚だと、十日くらいで大袈裟な、と思うかもしれないが、この時代の旅は徒歩だから危険度が段違いだ。
天気予報がないから山で嵐に巻き込まれることもあるし、徒党を組んだ山賊に襲われることもある。旅の途中で死んでしまうことだって珍しくない。だから、パートナーが十日間も旅に出るとなれば、普通は大いに心配するのである。――もちろん、ちゃんとしたパートナーであればの話だが。
「ところで、京を離れて何をするんですか?」
「那古野に帰りますの」
「あら。帰省なんて楽しそうじゃないですか! 十日といわず、ゆっくり羽根を伸ばしてきてください!」
「楽しみますけど……主人が旅に出ますのよ。妻として、ちょっとくらい心配する素振りを見せたらいかがですの?」
「椿さまならどこに行っても大丈夫だと思いますよ?」
「嬉しくありませんわ!」
絵里咲はちっとも心配にならなかった。三年以内にかならず死ぬ悪役令嬢とはいえ、山賊ごときにやられるような性質ではない。むしろ、椿を襲う山賊のほうが心配である。
「でも、盆でもないのに帰省されるなんて、なにかご用事があるんですか?」
「大事な会議がありますの。わたくしは藩主である父上の代理として会議に出席しなければいけませんのよ」
「へえー。なにを話し合うんですか?」
「実は……わたくしの藩で、夷国へ向けて港を開くという話になっていまして、わたくしは父上の命を受けて名家の頭たちを説得せねばなりませんの。我が藩は夷国嫌いばかりだから、きっと猛反対に遭いますわ」
「ああ、通商条約ですね!」
「絵里咲も聞い及んでいますのね。――通商条約では全国5つの港で夷国と貿易することになりましたの。残念ながらわたくしの那古野藩もその一つですのよ」
「なるほど。でも、椿さまが開港の説得をするなんて意外です。外国がお嫌いなんだと思っていましたから」
「本当はわたくしだって夷国と貿易するのは大反対ですのよ! ……でも、父上が開港すると言ったら逆らえませんの」
「いいじゃないですか。開港しましょうよ!」
「他人事だと思っていますのね。藩主の妻となる以上、貴女だって将来関わることになりますのよ?」
「あたしは関わりませんよ!?」
「悠長な態度でいられるのも今のうちですわ。すぐにわたくしの顔が見れなくて寂しくなりますのよ」
「そうですねー(棒)」
「では、わたくしはそろそろ発ちますわ」
「わかりました。どうかお気をつけて」
「気をつけて」というのは山賊に向けて、である。
椿は踵を返して歩きだした。
悪役令嬢は少し歩いたあと、ふと、何かを思い出したように振り返った。振り返って、絵里咲の前に戻ってきた。
仏頂面の椿は、至近距離から絵里咲を見つめている。
絵里咲はどう反応していいのかわからず、しどろもどろになりながら訊いた。
「ええっと……まだ何か用ですか?」
「用ですわ。――絵里咲。頬に別れの口づけをしなさいな」
「――断固拒否します!」
その後しばらく悪役令嬢が駄々をこねたため、絵里咲は仕方なく誰にも見られない物陰に行って、口づけしてあげた。慣れてきたのが怖かった。
椿はキスされた頬を満足そうに手で抑えると、上機嫌のまま旅に出た。




